まがりかどの先に

まがりかどの先にはきっと良いことがあると信じ、目の前の人生の小路をてくてく歩き続ける日々の雑記です。

こんどは体操協会で

2018年08月30日 | 日記
ここ数日、テレビは体操協会の話題一色である。
 
暴力指導、パワハラなどの法的な取り扱い、コーチに下された処分の軽重については正直よくわかならい。
 
でも、協会幹部といわれる人たちと、少し前に話題になっていたボクシング協会の会長さん、レスリング協会の幹部、現総理の周辺などに似たような問題、意識があるように思えてならない。
 
人は権力の座につくと、もっと大きな権力が欲しくなる。そしてそこに座り続けるために、意にそぐわないものを一掃し、潮目をみることもなく、いくつになっても退こうとしない。そんな姿だ。
 
もちろん、こういう意識はほとんどの人が持つものではあるけれど、同時にほとんどの人は、それに強く執着しないからあまり問題にならない。
 
こういった人たちの周囲で共通するのが、そこには次世代の人材が育たないという問題だ。
権力に執着するような人は、人当たりがよい常識人のようにみえるが、対立する人材の芽は早期に摘み取ってしまう。
 
清濁併せ呑めるリーダーは、なにかをなすために権力を目指すような人が多いから、その目的がかなえば退くことを知っているし、対立する意見の者は、自分と異なるものとして尊重することを知っている。場合によっては、力をつけてきた後輩に寝首をかかれるのもやむなしとおもっているような人もいる。だから、自然と多角的に人材は育つ。
 
人間いくつになっても元気で働くことはいいことだけれど、社会の中枢、とりわけ権力の近くに、六十を超えた人間を長く置くとロクなことはない。
 
体操協会だって、一般社会の感覚では、もう70歳の塚原さんの時代じゃないでしょ。
森末さんや池谷さん世代が中心にならなくては。
組織が封建的だから、利口な彼らは距離を置いてタレント化し、中枢に近付かない。それじゃ、彼らの活躍の場がなくなってしまう。
 
70歳をこえてもまだまだやりたいことがあるというなら、協会という公器は離れ、私財でスポーツクラブを運営して、思い存分未来のメダリストを育てらたいいじゃないか。
それくらいの分別ができる歳なんではないだろうか。
 
組織は常に変化がないと活性化しない。
これは一面ではあるけれど、間違っていないと思う。
 
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<今日は何の日>
2009(平成21)年の今日、第45回衆議院議員総選挙が行われ、民主党が308議席を獲得し衆議院でも第一党になりました。
 
この頃は、政治家も、まだ変化を望むという点で、元気がありましたね。
 
今や野党は総崩れ、与党は総裁選挙をする前から、安倍さん続投ムード。

固定化した権力構造の中で、封建的な考えがはびこり、お役人は、くちきき・忖度、公文書偽造、障害者雇用率のごまかし。
大臣たちは、他人事のようなコメント連発。これだけ大きくごまかして「故意かどうかは調査をして・・・」はないでしょ。
意図してしたんでしょ(-_-メ)。
 
ここらで変化があった方が良いと考えるのは私だけでしょうか。
コメント
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