鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

鎌倉の砂鉄 6

2010年10月08日 | 鎌倉の古代
2011-11-08 13:23:00記
徘徊おじさん!
   ありがとうございます!
こんな話に反論するのは、とても楽しい事なんです。

> 稲村ケ崎の砂鉄について (徘徊おじさん)2011-11-07
> 先日、NHKの高校地学の中で、稲村ケ崎の砂丘の話が出てきました。
> ここの砂鉄は、海流により運ばれたそうで、
> 比重の大きな砂鉄分がこちらに堆積したものだと説明していました。
> 神奈川県庁の土木関係の部署の人の記事によると、海流の変化により、軽い砂は
> すぐに移動するが、比重の大きな砂鉄は最後に残ると説明されていました。
> ですから長年の海流により稲村ケ崎に残留したのかもしれません。

アカデミックな研究と真偽は別な話です。マスコミの怖いところと考えています。
この元ネタは、「稲村ヶ崎の砂の起源 - 慶應義塾高等学校 地学教室」と言うのがWebにあります。

この説の否定は「鎌倉街道 を探そう!」の「鎌倉の砂鉄5。2010-06-01」
にて、{砂鉄は海流により運ばれた}説を完全否定しています。
私は、小学生から江ノ島近辺で泳ぎ、20代は由比ガ浜でヨットをやり、潮流には敏感です。
この60年間で、西から東に潮が流れ事を経験した事がありません。
当然異常潮流と言うのが有りますが、私の経験には無い。(江の島、鎌倉の海岸に限る。)
私の感知した範囲は岸から1キロ内の潮の流れです。
慶應義塾高等学校Webの海流図は沖合いの潮の流れですが、、、
もし、この海流図が正しければ、実際と合致しません。どの様な条件で測定された物かを示す必要が有ります。

海流を確認する方法は、江ノ島の岩屋へ降りる稚児が淵に南を向いて立ってください。
右手は辻堂、小田原方面で脇に境川の水が流れます。左は鎌倉、三浦方面から押し寄せる海水です。
川の濁った水が江ノ島の岩屋方面に流れ込んだら、潮の流れは平塚方面から鎌倉へ東に向けて流れる証拠になります。
江ノ島の岩屋方面が海水で澄んでいれば、、川の水は相模湾の中央へ向かうか、鎌倉から平塚へ向かう潮の流れが有る証拠です。
岩屋の海水は、澄んでいるのが常です。(荒波のときは海底が掻き回されて濁りますし、昔の海の水より汚いのですが、、、)
これが、岸から1㌔内の潮の流れを誰でも確認できる方法です。
慶應義塾高等学校Webの海流図を否定する根拠です。

それと、「軽い砂はすぐに移動するが、
 比重の大きな砂鉄は最後に残る」
と説明されましたが、問題は後の文章にあります。
「モット深い海底に在った重い砂鉄が海流で浅瀬に打ち上げられる」と言う理屈は、物理的には通らない話で、海底に堆積するのが通常であり、現実の海流と波の現象を理解して無い。
それ以前に、西から流れて来たなら、江ノ島西浜の海岸は更に砂鉄で黒くなっているハズです。
現実の衛星写真を見てください。
極楽寺川と行合川の川岸が特に黒く写っているのを確認して下さい。
川から運ばれたので、、、「比重の大きな砂鉄は最後に残る」の理論を適用すると、
川岸は黒くなっている事で、川から由来の砂鉄と結論を出せます。
(神奈川県庁の土木関係の部署の話がありますが、砂浜の成り立ちは、川から運ばれる砂である事は承知と思いますし、、海の中の話は神奈川県 水産総合研究所が専門だと考えるのですが??私には理解できない思考法です)
よって、
NHKの報道により、広く知れ渡ると常識に成る。
常識の嘘が出来上がる訳です。
慶應義塾の研究や、著名な教授の発表ですと、、後の世の研究者は「常識の嘘」を覆す事に労力を使う事に成ります。
コメント
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