鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

上の道、下の道 2

2010年10月24日 | 東山道~鎌倉

その古道の名は武蔵大路、奥州街道、上の道、下の道と呼ばれています。
憶測はあっても、、誰もその痕跡を確定出来ない! この場所だと言う人は居ますが、根拠のない話で、更にその脇に幾つも同じ方向の直線的な古道が有り、更に書かれた著者により、別な道筋が示されて、、どれが本物??と言う話になる。

古代道に沿って細い鎌倉道が出来上がったのを、上の道下の道と称した、、かも知れない! 話です。

都を基準に考えれば、都に向かう道は上の道。地方に向かう道は下の道。
鎌倉時代は?
鎌倉を基準に考えれば、、、どの様になるでしょう??
これは、当時の鎌倉の背景を考える必要を感じています。
その背景とは、
源平合戦で京の都は荒れ、政治は貴族より武士の手に渡り、武士の掌握するところと成ったのです。
それが鎌倉幕府の力で、朝廷に頭を下げる必要は無くなった。
朝廷と幕府は敵対する状態です。
鎌倉は、心の奥で幕府は京の都より上を目指していたと考えれば、、、
京と鎌倉は対等か、鎌倉の方が上と思っていたのではないでしょうか?
その様な状態で鎌倉幕府が京への道を上の道と言うでしょうか?
吾妻鏡では、京へ向かう道を上の道との記載は無い様ですね。
吾妻鏡では「下の道と」書かれてた理由は、鎌倉幕府よりの著者でありその立場で書かれたとも考えられる。

太平記では「上の道」と称される理由は、、、何故でしょう?

 写真は、北鎌倉女子学園グラウンドの脇の土橋状態の映像です。
反対側は、住宅地になり、とても人工的な断崖です。
要は、道の両脇が断崖で、、土橋という訳です。

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