鎌倉街道には、「上の道」「下の道」「中の道」があるそうです。
ぼ輔は、、、疑問視する話です。
疑問の中身は、
上下左右の言葉は、相対的な考え方です。
上下の基準は何処でしょうか?
鎌倉街道を語る時に「上の道」や「下の道」を特定な固有名詞として語られる。
相対的な考えが、固有名詞として語られる処に疑問を感じるのです。
特定な道を語られる時には、特定な場所の指定が欲しいものですが、実体が不明で呼称も一様でない。それでは、マルデ幽霊みたいなモノです。
鎌倉から武蔵国府に向けて古道が存在した。
その古道の名は、、後の世で上の道、下の道、武蔵大路とも呼ばれた古代官路です。
奈良時代の中路規格の道幅は、側溝中心間で12m程有る直線道路です。
栃木県足利より、神奈川県藤沢市の江ノ島へ向けて直線道路が走り、途中横浜市戸塚区辺り迄有った様です。(注1)
鎌倉幕府は、この道は大き過ぎ防衛上の問題で存在が邪魔であった。
その結果大道を消滅する工作をした。その結果、その古道に沿って細い鎌倉道が出来上がったのを、上の道下の道と称した、、かも知れない!
その、、「かも知れない}」道の上下の問題です。
相対的な考えで上下を語れば、
道の上下は何を基準にするのか?を決める必要が有る。
都を基準に考えれば、都に向かう道は上の道。地方に向かう道は下の道。
古代東海道を考えれば、鎌倉を基準に下は常陸向けで、上は奈良の都に向けた方向です。
道の上下の問題をもう一段深く考えてみましょう。
(注1)時代によっては、東京調布市、町田市、座間の星谷寺、海老名国分寺、横須賀水道と重なり、鎌倉へ向かう道(鎌倉街道「上の道」と東山道相模路、2006-09-11ブログに記載)も在ったようです
写真は、化粧坂から、水堰橋途中にある台峰の道で、これから北鎌倉女子学園のグラウンドの脇を通る処です。
この赤い矢印の場所から路面の変化があります。
手前は、鎌倉にありがちな砂岩含みの道ですが、矢印から先は補修の跡か?
昔からか? 要はこの場所が土橋状態になっているのです。
ぼ輔は、、、疑問視する話です。
疑問の中身は、
上下左右の言葉は、相対的な考え方です。
上下の基準は何処でしょうか?
鎌倉街道を語る時に「上の道」や「下の道」を特定な固有名詞として語られる。
相対的な考えが、固有名詞として語られる処に疑問を感じるのです。
特定な道を語られる時には、特定な場所の指定が欲しいものですが、実体が不明で呼称も一様でない。それでは、マルデ幽霊みたいなモノです。
鎌倉から武蔵国府に向けて古道が存在した。
その古道の名は、、後の世で上の道、下の道、武蔵大路とも呼ばれた古代官路です。
奈良時代の中路規格の道幅は、側溝中心間で12m程有る直線道路です。
栃木県足利より、神奈川県藤沢市の江ノ島へ向けて直線道路が走り、途中横浜市戸塚区辺り迄有った様です。(注1)
鎌倉幕府は、この道は大き過ぎ防衛上の問題で存在が邪魔であった。
その結果大道を消滅する工作をした。その結果、その古道に沿って細い鎌倉道が出来上がったのを、上の道下の道と称した、、かも知れない!
その、、「かも知れない}」道の上下の問題です。
相対的な考えで上下を語れば、
道の上下は何を基準にするのか?を決める必要が有る。
都を基準に考えれば、都に向かう道は上の道。地方に向かう道は下の道。
古代東海道を考えれば、鎌倉を基準に下は常陸向けで、上は奈良の都に向けた方向です。
道の上下の問題をもう一段深く考えてみましょう。
(注1)時代によっては、東京調布市、町田市、座間の星谷寺、海老名国分寺、横須賀水道と重なり、鎌倉へ向かう道(鎌倉街道「上の道」と東山道相模路、2006-09-11ブログに記載)も在ったようです
写真は、化粧坂から、水堰橋途中にある台峰の道で、これから北鎌倉女子学園のグラウンドの脇を通る処です。
この赤い矢印の場所から路面の変化があります。
手前は、鎌倉にありがちな砂岩含みの道ですが、矢印から先は補修の跡か?
昔からか? 要はこの場所が土橋状態になっているのです。