鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

上の道、下の道 3

2010年10月29日 | 東山道~鎌倉

東海道ならば、鎌倉から奈良へ向かえば上り、常陸へ向かえば下りです。
東山道武蔵路の延長の古道の名は武蔵大路、奥州街道、下の道と呼ばれ、太平記では「上の道」と称され、同じ道を、片や「下の道」と呼ばれる矛盾ですが、、、

初めから上下左右は相対的で立場に依り、その関係は変わる??
それを固有名詞にした人がいたのですが、、、
奈良の都に三本の道があり、上ツ道、中ツ道、下ツ道と呼ばれる「大和三道」が在った。
奈良盆地に藤原京から平城京へ上ツ道、中ツ道、下ツ道が平行に一直線に作られた。
鎌倉にも、これと同様に在ったであろう、、、そんな「推測」を根拠に、
鎌倉の上中下の道を固有名詞として定着させた方が居た。
しかし、、
鎌倉には、奈良盆地のような上中下道を綺麗に区分けする地形は無い。
有るのは、
鎌倉の都以前の時代から存在する古代東海道の上下の区分けが在る訳です。
奈良の計画的な都市造りの上中下とは、根本が違う事に注意が必要と「ぼ輔」は考えるのです。

立場(場所としても変わりますが、書き手の地位と言う意味)が違うと、、、

武蔵の国府(国分寺)へ向かう道を、、、、
「上の道」と書いたのは太平記です。
「下の道」と書いたのは吾妻鏡です。
「武蔵路」と書いたのは梅松論です。
同じ道の呼び名が書き手によって、この様に変わるのです。

太平記は、作者は不詳であるが、反鎌倉幕府の立場の記述と考えられる。
吾妻鏡は、幕府中枢で書かれた鎌倉幕府公式見解的な本の様です。
梅松論は、、鎌倉内部に詳しい人物が、鎌倉崩壊後に、人の批判を受けない書き方をしている。

大きな問題は、武蔵路を「上の道」と書く太平記の根拠です。
何故、「上の道」と呼んだのでしょうか?
奈良の路造りに真似たので無いとしたら、、、、???


 写真は、北鎌倉女子学園グラウンドそのものです。土橋状道からの映像です。
ポールが4本と、右手がコンクリートの崖ですが、その間から下の倉久保の谷戸へ向かう場所が
問題ですが、グラウンドを作った為に、その遺構は失われた。
それは、戦う為の砦としての遺構でひな壇的になっていたと「ぼ輔」は解釈しているのです。

コメント
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