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鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

鎌倉の古代東海道 上巻

2014年11月06日 | 古代東海道
■ 記 2006年06月01日  古代東海道駅路跡

写真は足柄峠に残る駅路ト思われる痕。 両土手間は9m程ある。
平塚の古代道は、奈良から平安時代の「古代東海道駅路跡」とされている。
奈良から平安時代という意味は、奈良時代の道は、路面9mの道でありました。
その後、路面9mの内3mだけを使うように側溝が作られたのが平安時代である。
この時代以降の相模に存在する官道は3mの道幅!っと考えられる。
さて、
平塚から鎌倉へ行く道は有ったのか?
それが、取りあえず辻堂の四谷交差点迄直線的な痕跡があり、その名は江戸時代の大山道と言います。
2000年には車一台が通れる道で、平安時代の3m幅に相当する道です。
江戸の観光旅行は大山参りと言うのが娯楽で有ったそうな、、、
大山参りは、江ノ島と大山登りがワンセット(大山は男神、江ノ島は女神で両方拝まないと片手落ちになる。)になっており、江ノ島と大山を結ぶ道と言えます。
だから、、、この道は江戸時代の道?でしょうか、、、、、
そこが問題なのです。
その道を東へ真っ直ぐに伸ばすと、そこは藤沢市役所があり、その脇は大道小学校と言う名前がある。西は平塚東原の道路遺構から、足柄峠です。
更に東には、古代東海道の駅家の郡ガとしての鎌倉があり、鎌倉郡衙東には朝比奈峠を越えて横浜市金沢区六浦町大道と言う地名が在る。
古代東海道は、基本的には直線で作られる事の実証が、平塚、藤沢、鎌倉、六浦のラインで証明できる。
勝手にラインを引き其処に巨大駅路を想定する様な地名や遺構を探すことは、困難な事を考えれば、偶然とは思えないでしょう。この論理と遺構の証明の積み重ねを学問と考えます。

■ 記 2006年06月02日  鎌倉の古代東海道の痕跡
「鎌倉に古代東海道の痕跡は有るか?」の疑問に学識者や研究者は、
古代東海道は、稲村ヶ崎の浪打際や、極楽寺坂と稲村ヶ崎の中間を抜け、小坪から、逗子の披露山を通ったと考えています。
しかし、
山道同然のその道は平塚出土道路遺構とは異質です。
平塚出土道路遺構の広く舗装され側溝まで備えた道と、山中のハイキング道の様な道は比較に成らない。
 この様な小道が何故古代東海道と言われるのか? 「その根拠は??」
と問えば、「大和武尊伝説に基ずく。」っと書かれた本が多数有る。
大和武尊が通った道が古代東海道であると考えた様子です。ここに間違えがある。
大和武尊は、未開の東国を成敗する為に道無き道を歩いた。
直線的な駅路の古代東海道とは全く別なルートを歩いた訳で、、、
「大和武尊東征」と「古代東海道の駅路」は年代が違う事を 混同し同一視する間違えを犯している。その証明は平塚の道路遺構と「逗子の披露山道路」を比較すれば証明できる話です。

時代錯誤の大和武尊道は、出土道路遺構に基ずく説明ではありません。
1、現実は、その地形では、大道は作れません。
2、その地形に大道を切通した痕跡が無い。
3、大和武尊伝説は、大和朝廷が未だ東国にカが無い時代の話である。

日本武尊に征夷将軍として東夷征伐を命じられたのが、110年
古代東海道の記載された大宝律令制定より、5~600年程前の話です。
この伝説を根処に全国統一後に作られた駅路を語るのは無理です。
では、、「何故古代駅路が見つからないのでしょうか?」
これが次のテーマです、

■ 記 2006年06月04日   鎌倉に出入りするには、、、
現代の道路事情はとても良いのですが、明治時代のJRは藤沢まで開通した時に、東京から鎌倉に行く話があります。その話では、大船から鎌倉を目指すより、藤沢から人力車を使い、大仏切通しを使ったそうです。
大船駅から八幡宮まで4Km。
藤沢駅から八幡宮まで7.5Km
大船駅から鎌倉へ入った方が距離的には短いのですが、、、
巨袋坂や、亀ヶ谷切通しを人力車が通れなかったと想像できます。
大仏切通しは、人力車を2台通す事は出来ず、すれ違えるように幅を広げたとあります。
これは、、、、
今残る藤沢側の切通しが通行できないので、避けて脇道を作ったと言う事ですね!
なぜなら、藤沢側の2m幅の切通しと登り始めの急な坂は、人力車では無理。
古来の切通しは、オリジナルのままと言う根拠にもなります。
オリジナルとは、新田義貞の鎌倉攻めで負けて以来そのままに放置されたと言う事です。
その状態は、明治まで放置され、現在もホボ完全な形で残っている。
このオリジナルのままと言う事がとても大事なヒントになるのです。
新田軍を阻止する為に作られた土のバリケイドの残骸が今でも残っていると言うことになる。
当然七口総にバリケイドの封鎖状態が残っていた。
当然鎌倉市内に入るのは困難であり、、、江戸時代からこのバリケイド排除の工事を細々とやられていた記録がある。

◎◎◎コメント◎◎◎

郡衙へは (杉きち)
2006-06-04 20:51:50
鎌倉郡衙や久良岐郡衙へは、道幅はそれほど広くなかったのではないでしょうか。
それと、日本武尊は伝説上の人物で「所謂、土地の豪族が房総への交易に使用した海路を
日本武尊とした」
これが本当でしょう。

Re: 郡衙へは (ぼ助)
2006-06-05 09:09:09
鎌倉郡衙や久良岐郡衙への道幅ですが、郡衙だから同じ条件とは考えません。
鎌倉の場合、東海道の駅路を通過した場所にある郡衙であると解釈しています。
それ以上に、
鎌倉に官舎が有り、官舎は駅家か?郡衙か?国衙か?その程度の考えです
それを判定するには、資料が少な過ぎます。
一応鎌倉郡衙が御成り小学校から発掘された事は知っていますがね、、、
詳細は私が吟味していないのです。
日本武尊伝説の道は東征への道です。当時の地方豪族を中央に従える為に行く話
ですから豪族の間を歩いた。
地方豪族を無視して真っ直ぐに道を作る古代東海道の考えとは別物です。
その様な訳で杉きちさんと同じに考えています。

久良岐郡衙 (k)
2006-09-12 15:50:03
この所在地が知りたいですね。
笹下あたりなのかなあ


■ 記 2006年06月06日   七口検証1
「鎌倉を古代東海道が通った」っと書かれた古文書を、見たことが無い。
現代の研究者の本に書かれているのは散見します。
そこに書かれた内容は、「大和武尊の通った文献がある」と書かれている。
東京湾を渡るときに、三浦半島の走水から上総に渡ったと書かれている。
この根拠より鎌倉から逗子の山の中に「古代東海道の痕跡である」とされた道が存在する。
 この道は、平塚で見た古代東海道の様な道とは別物の、鎌倉山中に散見する小規模な鎌倉時代特有な道です。
古代東海道(駅路、官路)としての中路規格の特徴は全く無い。
有るのは鎌倉時代の特徴のある薬研掘状の道が小坪や披露山にあり、名越えの切通しも同様です。
鎌倉の西は大仏の切り通しは幅2~3mで不可ですし、稲村には相応する道の痕跡はない。
これでは海沿いに、平塚の道路遺構に対応する古代東海道の規模には対応できません。
では、 古代東海道は鎌倉を通らなかったのか?
可能性が有るとすれば、上総と下総の位置関係で海を渡ったと考えられる事。
もう一つ重要な事は、平塚の古代東海道遺跡は東の鎌倉に向いている事です。
古代東海道は、直線的に作られているのが、特徴です。
ですから、確信的に古代東海道は、鎌倉を通過したと考えるのです。
 路面9mも有る道路の痕跡など、、鎌倉に有るのでしょうか?
 
 コメント
  (杉きち)
2006-06-07 11:01:41
 東山道武蔵路と平塚の国衙らしき跡地から、都筑郡・久良岐郡・鎌倉郡・三浦郡・
 荏原郡・高座郡あたりには、12メートルの路が見つからないですね。
 荏原郡の大井駅近くだと4メートルの駅路らしき路が部分的に見つかった位ですね。
 武蔵路と平塚の道路跡と、その他の地域の路は大和王権との繋がりが密では無かったか
 、もしくは、湿泥地等の地盤が関係有るのかと考えます。
 それと、武蔵国衙と相模国衙は、下総国衙や上・下毛国や常陸国との関わりが強く、
 上記の郡は王権から「下」と考えられていたのかもしれませんね。

12m駅路 (ぼ助)
2006-06-07 21:47:01
平塚から出た東海道駅路は、側溝間9,7mで、側溝幅が狭いので、路面幅8m強の道です。
中路の規格としては、許容範囲と考えます。
東京国分寺の東山道駅路は、側溝間12mですが、路面幅9m強程度で、これも中路の
規格でしょう。
無神経に12mの道と書く研究者が大半です。
大路の面幅12mとは違い、側溝や土手も含めてな場合も考えられるので要注意です。
荏原郡の大井駅近くの駅路と言うのは、東京の池上道路遺構でしょうか?
国衙や、下総、等は、大宝律令以降の呼び名と解釈しています。
それ以前の地方の時代は、それぞれがその地域で一番偉い訳で。上や下の差別は
戦いになるでしょう。


■ 記 2006年06月11日   七口検証2
明治の時代に一番通り易い道が大仏切り通しで有ったと言う事実。
それも、人力車が一台通れる幅の道です。
唯一、海から船で六浦に入った時は朝比奈切通しを使えた様です。
他の七口は山道のハイキングコース並の道であったと言う事ですね。
今の七口は、それなりに整備されたり、道幅を広げられたりで、、、
オリジナルとは違うと言う事です。
その、山道同然の七口で、「ちょっと違うぞ!」っと言う道が二つあります。
それは、化粧坂と、朝比奈の切り通しです。
、両切通しの道幅は、4m程で他の道とは、別物の道らしい立派なモノです。
しかし、両切通し伴に奇妙な事が有るのです。
次は、


■ 記 2006年06月16日   化粧坂の怪
40年前の事、化粧坂の路面は、とても平らでした。
実は、大昔あの坂を、自転車や、オートバイで登った事が有ります。
その位 路面が滑らかでした。
道幅があり、路面は滑らかで、とても立派な道に見えました。
鎌倉時代の道が、良い状態で残っている事に子供ながらも、感心しました。
今の化粧坂では、担ぎ上げるしかない!
観光客の破壊です。
私も自転車やバイクで通ったのですから、、その責めの一端を負わねばならないのでしょうが、、、
問題は、それだけ立派な道なのに、峰から外部に向けた道幅は狭く、山道同然!
道は、目的地まで同じ考えで造られるモノですが、、
峠に上がった途端にあの立派な造りの道が消える!
とても怪しい話なのです。
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鎌倉の古代東海道 中巻

2014年11月06日 | 古代東海道
■ 記 2006年06月17日 続 化粧坂の怪
化粧坂を上がり、山道同然の道は 今は公園となり公園内の道は無駄広く、化粧坂はとても貧弱に見える事になりました。
(車が通れる広い道の谷側に在る細い道が古来の葛原ヶ岡神社へ向かう道。)
その道は、葛原ヶ岡神社脇から山之内配水池脇までは自動車一台通れる道に、
山之内配水池脇から、北鎌倉女子学園グラウンドから天神山へハイキング道で向かいます。
道幅の狭さ 蛇行の状態から、東海道の駅路とは考えられない道ですね!

 一般的には無視されている道に、
化粧坂を上がった処から、梶原団地に向かう道があります。
自転車で化粧坂を上がった後に、この道を通った訳です。
V 字に切れ込んだ谷の下は湧き水が、、、
谷の傾斜の中程にハイキング道並の道が鎌倉山中の道としては異例に真っ直ぐで「鎌倉の山道にしては、妙に真っ直ぐな道だな、、、」等と思いながら下ったわけです。
(今は車一台が通れるように整備されています。)
妙な事に、この道は梶原口から東へ行くと、大仏切通しの入り口「火の見下」のバス停に出るのです。
何が妙か?
はじめから、大仏切通の通りにくい道など作らずに、化粧坂の道を整備した方が、合理的!
非合理な事をした理由は何でしょう?

■ 記 2006年06月19日   朝比奈切通しの怪
『吾妻鏡』
仁治元年(1240)朝比奈切通し造り決定
仁治2年(1241)朝比奈切通し 造り始める。

朝比奈の切通しを見た人なら納得できるでしょうが、
他の切り通しより、数段規模が大きいのです。
あの切通しを短期間に作る事は現代でも難しい話しでしょう。
物理的に無理な話です。
しかし、「朝比奈三郎義秀が太刀で一日一夜にして切り
開いた道」という伝説が有るほど、短期間に作られたそ
うです。
話半分にしても、何故短期間にできたのでしょうか?

一様な勾配を持った坂が坂の上の方に行くと急な坂に変化します。
切通しは一様な勾配で作るのが目的で切って通す訳ですが、、、
不自然ですね!

坂の北側の壁にヤグラと言う穴が何ヶ所かありますが、、、
ヤグラは高いところに有っても簡単な足場を作れば上がれる
範囲が 通常です。
しかし、朝比奈のヤグラは目も眩む高い場所!
クライミングの腕がないと死ぬ位置です。
鎌倉で朝比奈程高い処にヤグラのある場所はありません。
何故、その様な高い場所にヤグラが有るのでしょうか?

敵を攻撃する為の平場に特徴があるのが朝比奈切り通しのです。
それも半端では無い長さで、切り通しに沿って平場があります。
これが不自然の極みでして、、、
敵より優位にする為、上から攻撃する様に作るが平場ですが、、
一旦敵に上がられたならば、その優位は無くなります。
その為更に一段高い処に平場を造り、丁度雛壇の様になるのが通常で。
そこも堪えられなければ、尾根筋の道を通って後退する。
しかし、朝比奈の平場はそうなっていない。
一旦上がられたら、、ずるずる切通しの下まで行ってしまう!
それも、他では見られない程長い規模で造ってある。
戦略的にとても不完全な造りの平場が何故有るのでしょうか?
とても怪しい事が多い切通しです。


■ 記 2006年06月20日  平塚の古代道路見学会は 25Apr 2004でした
鎌倉街道は、文献や伝承に無い道が、わたしの住む藤澤には、幾多あります。
その辺りで、マスメディアに記録された鎌倉街道と言う道の真偽、新しい鎌倉道を見付けても、証明するものが無い。年代も特定できない。等の壁を感じ、興味が半減しました。
そんな折り、2004年平塚東中原遺構の見学会後興味を持ちました。
平塚の古代道路(古東海道)遺跡でした。
これを 見た途端、ヒラメイタ!
古代官路は行く先に目的を持っており、目的地に向け直線の道を作る。
この規則を当てはめると、目的地は常陸!
常陸に向かうには海を渡り、上総に行く。
平塚からの、一番近い東京湾を目指すとすれば、、、
それは、大和武尊の走り水ではなく、、もっと近い場所!
それは、横浜金沢区の六浦!
早い話が、平塚から六浦に直線を引く。
その線の上に古代官路の痕跡が載るはずです。
平塚東原、大山道が茅ヶ崎辻堂四ツ谷へ、藤澤大道小学校、柏尾川古館橋深沢小学校、化粧坂、朝比奈切り通し、六浦大道、
地図にプロットされて、如何ですか?


■ 記 2006年06月22日   上総へ海路で、
杉きち さん記
>何年頃は、安房へ何処から渡った。その頃は神奈川県のどの辺りが官舎であった。
>何年頃は、安房を通らず、何処を通った。

古東海道に関しては、古代前期は無駄に広い道幅に特徴があり、この辺りで奈良時代と特定できる。
古代後期は、文献で細く作り変えた事が書かれ、西海道の12m規格の道を6mに作り変えた様です。
東海道は 平塚遺構より、9mを3mに作り変えをしている。
鎌倉に古代東海道が通っていたとして、その道路遺構は、3mでも問題は無い理屈になります。
しかし、3m遺構は、平安時代に道が有ったと推定できる論拠であり、それより、広い道幅の奈良時代の道は??という疑問が残ります。
それと、海路を行くとなれば、遠回りの安房の国には行かず、上総の国府市原に近い港に行くと考えています。

結論は、奈良平安時代に六浦は使われていたであろうと、考えられる。
その結論とは別に、海路が使えない天候では陸路を確保する必要がある。
そんな意味で、中路より格下の小路、、、3mか2m程度の車を通せる陸路が有ったと考えるのが妥当と思います。

その時代の相模国衙と証明されているのは、平塚の駅路際に推定されて居るのでは?
その他に重要な、官舎として、座間に防衛の為か、輸送の為か?重要な場所です。
駅屋として、平塚から16km先に鎌倉があります。
六浦では、やはり重要な場所として、官舎が有ったと思っています。


■ 記 2006年06月28日  化粧坂を頼朝は、、、

下手な図面と思いつつ、、、UPしました。
1960年代の化粧坂上から、梶原団地へ抜ける道の断面です。
私の想像の話です。
何故、、、そう感じたのか?
自転車を引いてこの坂を下りながら、、、
鎌倉の山道の中で、
1、異例に真っ直ぐに感じた事。
2、谷の幅が、一様である事、
3、坂の傾斜が上から下まで同じであった。
そんな事を感じながら降りた思い出があるのです。

この手の道としての品格を感じるのです。
その品格の出所は、この3条件です。


■ 記 2006年06月29   梶原口から化粧坂へ
地図で示せば良いのですが、、、版権の問題があり取りあえず文章で!
バス停で言いますと、交差点「梶原口」より、「西梶原」、「梶原」、「東梶原」、「S字坂下」まで、、これよりバス路線を外れ、化粧坂に向かう直線的な谷へ入る。
化粧坂より、亀ヶ谷辻→寿福時前→八幡宮→六浦路→朝比奈へ、、、
これが、古代東海道の道筋と考えています。
細かい話は多々あり書かない事が多いのですが、、、、
質問が有れば、コメントに書き込んでください。
匿名、冷やかし歓迎です。
この次は、朝比奈切通しです。


■ 記 2007年10月29日   「海沿いに古東海道」が在った?? その①
コメントより
>  (T.M.@横浜)
> 2007-10-27 20:47:34
> ぼ輔さんの考察どおり古東海道は、源氏山を経由して
> 今の地名でいう六浦まで繋がっていたということが
> 良く判りました。
>  さて、不思議なのは、なぜ、「海沿いに古東海道」があったことになって
> しまったのでしょうか?
>  古事記の該当箇所を読んだら、日本武尊は、相模の国のどこかで焼き討ち
> にあった後、走水で東京湾を渡ろうとしています。その間、どういうルート
> をとったのか全く書かれていません。海路かもしれないし、陸路かも知れな
> いし、全く判らないのです。陸路だとすると、古事記のころは海がもっと鎌
> 倉の入り江の奥まで入りこんでいたので、今の源氏山付近を通るのが自然に
> 思われるのですが?

古い文献は、次のホームページが詳しい。
「古代における相模国古道と郷土大和」
http://www.city.yamato.kanagawa.jp/soumu/shishi/3_sisi_kenkyu/f_sike_03.htm

これらの文章から「日本武尊の東征」は未だ大和朝廷が東の国を配下に従えて無い時代の話で,
当然一貫性のある街道など考えようもなく、隣の豪族へ行く道がある程度と考えています。
そんな訳で、地方の豪族の間をジグザクに渡り歩く事になったと思っています。
東海道の国割りも未確定、東海道の名も定かで無い時代背景の「東征路」です。
奈良時代より更に前の数百年か千年なのか、、、文字の無い時代の話。
◎ 日本武尊の東征路は、国家体制が整わない時代のローカルな田舎道の話。
◎ 古代東海道は、国家体制が整い 強大な権力で強引に作り上げた大道路。
よって、日本武尊の東征路を根拠に古代東海道の道を論ずるのは軽率な事
   っと ぼ輔は考えるのです。

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鎌倉の古代東海道 下巻

2014年11月06日 | 古代東海道
■ 記 2007年11月02日   「海沿いに古東海道」が在った?? その②

 日本武尊の東征路を根拠に古代東海道の道を記されたモノは、
本では『神奈川の古代道』(藤沢 市教育委員会1997/平成9)があります。
市行政の公式見解の基と考えられます。
 この本に、東征路痕跡の具体例は記載が無いが、走水から千葉に渡った事は強調され図示されています。
この辺りが、古代東海道は走水より千葉へという公的見解の根拠と考えています。
   可笑しく思うのは、
国家体制が整わない時代のをつなぐ田舎道の痕跡など、周囲の道に紛れて確定仕様が無い。
日本武尊の東征路である!っと証明するのは、現時点の技術では不可能な事。
不可能な事を、、、この道が日本武尊も通った古代東海道と紹介される怪!

伝言ゲームの様に、
最初は、「古代東海道を考える時に、日本武尊の東征路の様に走水から千葉に渡った事例を考慮する必要がある。」
なんて言う話が、末端では「古代東海道は走水から千葉へ!」と言う話に成ったのかも?
その経過は不明だが、公的講座でこの様に語られるようです。
 このブログでテーマにしている古代東海道は、
 古代前期の東海道(初期の古代東海道)を前提に話をしています。
 理由は時代設定の混乱を避ける為と、巨大道路の見つけ易さが前提にあります。
(古代後期の東海道は道幅3~6mに縮小され、経路の変更もあり、特定に困難。)
図面は下記のHPより引用。
海老名市教育委員会 生涯学習部 文化財課
文化財探求講座「古代の道」


◎◎◎◎コメント◎◎◎◎
Unknown (T.M.@横浜)
2007-11-02 20:59:27
>国家体制が整わない時代のローカルな田舎道の痕跡
>など、周囲の道に紛れて確定仕様が無い。
>例え在ったとしても日本武尊の東征路である!っと
>いう証明をするのは、現時点の技術では不可能な事。
>不可能な事が、、、この道が日本武尊も通った古代
>東海道と紹介される怪!
ぼ輔さん、明快な解説ありがとうございます。
私の頭の中で、モヤモヤしていた霧が晴れてスッキリ
した感じです。
 ただ、古事記(や日本書紀)の日本武尊を、私は、
フィクションだと考えています。登場人物は
フィクションですが、地名は実在するもの
(現代の小説も同じです)だと考えています。西から東
へのルートは、フィクションを考えた時代のルート
が反映されていると思います。
 ですから、「この道は、日本武尊が通った道だ」と
いうことは、「この道は、月光仮面がバイクで走った道だ」というのと同じような気もします。
>理由は時代設定の混乱を避ける為と、巨大道路の見
>つけ易さが前提にあります。
>(古代後期の東海道は道幅3~6mに縮小され、経
>路の変更もあり、特定に困難。)
古代東海道を論ずるぼ輔さんの手法は、”古文書”ではなく”客観的にわかる事実”を集めて、論証してゆくわけで、科学的な手法のように思いました。
穿った言い方をすれば、”歴史科学”でしょうか。


科学的 (ぼ輔)
2007-11-04 08:19:12
> 古代東海道を論ずるぼ輔さんの手法は、”古文書”ではなく”客観的に
> わかる事実”を集めて、論証してゆくわけで、科学的な手法のように
> 思いました。
> 穿った言い方をすれば、”歴史科学”でしょうか。
ぼ輔の考えていることを的確に理解してもらっていると感じ、、、
とても、嬉しく思います。
学術的 = 科学的 = アカデミック とぼ輔は考えているのですが、、
自由に議論する場の無い、権威、権力に支配される学術的な世界を感じます。
その様な状態が、もし有ったなら科学的ではないですね。
ぼ輔の仕事の医療の世界でも同じで、医療機器は科学的に進歩しましたが、
それを扱う医師は非科学的な考え方で動く事が多い。
情報量が多すぎて、全体を把握できる人が少なくなる。
専門にコダワッタ為に全体を見る事を忘れた医療の世界を感じています。
ぼ輔は医師ではありませんが、、、

Unknown (「毘」)
2007-11-05 08:31:38
ぼ輔さん、ひさびさです。こんにちは。
職場の異動やら親族の不幸やらあり、すっかりご無沙汰しておりました。
昨日、ぼ輔さんの未読ブログを通読させていただきました。@横浜さんと凄い話が展開中ですね。
自分の浅薄な知識が何やら恥ずかしく感じられます。
私は、情緒的ですが、鎌倉街道の痕跡や古代・中世遺跡などを眺めて、
その面白さを紹介できればと思っております。

情緒的 (ぼ輔)
2007-11-08 16:17:07
大人の遊びですから、、、
間違っていたって、、本当は構わないのです。
自分の考えや、感じたものを表現できれば良い。
ぼ輔のブログだって、書きっぱなしで、
「反証された事の無い記録」ですから、、、、
何処まで正しいいのか??
自分では判らない。
間違った処はその時点で訂正すれば良い!
そんな風に思って書いています。
そんな中で、 (T.M.@横浜)さんの突っ込みコメントは嬉しく思っています。

不自然な武相国境 (横浜の風間)
2014-06-04 07:15:21
皆さんと7年遅れで話題を追っています(苦笑)
1897年までは朝比奈町、東朝比奈町は相模国にあった。
それまでは、分水嶺に沿っているはずの武相国境が大きく東に張り出す特異な状況だった。
平安海進期は六浦周辺の海岸線はこの辺まで切れ込んでいる。
付近の三艘という地には、唐船3艘が着いたという伝説があり、良港であったことが伺える。
以上のような状況証拠は、古代東海道がが771年以前、古代朝比奈切通を越え六浦の港津から上総へ渡海した、というぼ輔さんの説を補強するのではないか、と思うのですがどうでしょう?

武相国境の例外 (ぼ輔)
2014-06-04 21:46:18
> 分水嶺に沿っているはずの武相国境が大きく東に
> 張り出す特異な状況だった。
言われて、、納得の話です。
鎌倉郡衙=鎌倉駅家=平塚より16Kmの駅屋に相当する場所=六浦の港も鎌倉で管理したであろう。
それが、、武蔵国では都合が悪いはず!
こんな突込みが、この記事を新鮮にする訳です。
現に、古い記事を見直して細かく修正し始めました。
カテゴリーでマトメて読みやすくしようと思います。

古代東海道の直線 ((ぼ輔)
2014-06-04 21:57:40
古代東海道は直線的に作られた!
始から、、六浦や、鎌倉を目的に作られたとすれば、、、
六浦(鎌倉)から足柄峠の矢倉岳へ直線を引くと、、、
平塚の道路遺構、辻堂の四谷にある大山道などが直線に乗るのです。
途中は山を避ける為微妙に曲がりますが、、、

直線の不思議 (横浜の風間)
2014-06-06 07:03:07
線をもう少し東に伸ばして、矢倉岳と上総国の天前駅比定地をお繋ぎ下さい。
田村通り大山道は少し外れますが、高麗山、鎌倉郡衙含め、良い感じで並びます。
歴史ロマンのレベルではありますが、面白いですね(笑)
ご参考まで。 (横浜の風間)
2014-06-06 19:54:49
ちなみに、771年より前の古代東海道が存在した頃の海水位はこんな感じだそうです。↓
西暦700年頃の相模湾 7.0m
http://k-rondo.usss.kyoto-u.ac.jp/jinbun/sagamibay/slide/sagamibay-7_0m.jpg
出展:京都大学宇宙総合学研究ユニット 宇宙計画研究室

海水面 (ぼ輔)
2014-06-18 10:18:21
> 西暦700年頃の相模湾 7.0m
これは、、私の実感とは合わない。
海蝕洞とか海蝕台と言うモノが、江ノ島や稲村ガ崎にあります。
波打ち際で、波の力で岩が削れる訳ですが、、恐らく数千年の単位で侵食されるのだと考えています。
江ノ島の岩屋前の海蝕台はとても広く、それが作り上がる間は、其処が海面の時期が長い間在った根拠です。
古代道が作られた時期は、今の水面より、2~3m程度と考えるのが私の実感です。
藤沢は遊行寺前の境川まで砂地で、ある時期は海がそこまで在った根拠ですが、、、
問題は、ある時期とは何時か?
この問題は深く考えずにいましたが、本気で調べる時期が来たようです。

■以下はより引用
南極やグリーンランドの氷床コアや堆積物中の有孔虫化石などの酸素安定同位体比を調べると、過去の相対的な気温、海水温変化がわかります。全世界で8000~5000年前くらいに緯度にもよりますが現在より0.5~2度程度高かったとされています。高緯度地方ほど上昇は大きい傾向があり、シベリアでは5度以上高かったとするデータもあります。また花粉分析などでも気候の変化が分かりますが、それでも同じような傾向が認められています。

この温暖期は4000年ほど前に終わり、2000年ほど前に現在よりやや寒い寒冷期に入ります。1000年ほど前にはやや温暖化しますが、その後500年ほど前から再び寒冷期となり小氷期とまで呼ばれることがあります。この時期には隅田川やテムズ川が冬に凍った記録があります。ここ100年ほどは気温が上昇する傾向にあるのはご存知のとおりです。

お詫び (横浜の風間)
2014-06-19 07:29:56
ややこしい話題を振ってしまったようですみません(苦笑)
ですが、高い海水位だと、
①元々相模国だった旧・峠村(朝比奈町、東朝比奈町)が古代の六浦港に直結。鎌倉郡衙の外港という説を補強できる。
②定説の古代東海道ルートで、当時は海面下となる場所が出てくる。例えば、逗子市の御浦郡衙(?)から鐙摺切通を通って葉山へ抜ける部分など。
…というような、ぼ輔さん説を裏付ける情況証拠も出て来るのですが。。。
どうなんでしょう!?

海水面 (ぼ輔)
2014-07-01 15:51:47
2014-06-30 14:25:33
海水位の問題は、当初からありまして、、
東海道線藤沢駅から平塚駅まで砂地であり、古くは太平洋の波打ち際でした。
これが波打ち際だと、、古代東海道は海の中。
その根拠に江ノ島の海蝕台が出来上がるのに数千年掛るであろうというオボロゲな推測で、関東大震災で1m浮き上がったという考えをしていました。
でも、確実な根拠ではないのです。
本気でそれを裏付けを考えています。
海蝕洞は、古代の人が住んだ遺跡があります。それで年代を特定できる。その内マトメタイと思います。
コメント
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