■ 記 2006年12月18日
箱根の古代道
これは、箱根全山をカシミールと言うソフトで作った図ですが、、、
この中に、802年に作られた足柄代替の古道が作られた痕があるはずです。
その道は何処を通ったか?この地図から予想して欲しいと思うのです。
その道の作られた経緯は、
800年 富士山が大噴火。
802年 富士山噴火で使用不可になった足柄路の代りに箱根路を開く。
その後数年して後、足柄路が再開となる。
これが、文献に書かれた事です。
(日本紀略 - 廃相模国足柄路,開筥荷途,以富士焼碎石塞路也)
現在知られている古道として、
箱根峠から都に向けて(峠から西の三島に向け)推定平安鎌倉古道と言うのが在ります。
とても、直線的に作られた道です。
箱根峠から東の鎌倉に向けては、湯坂道が在り中世に使われた様子が文献より伺えます。
しかし湯坂道は、推定平安鎌倉古道に有る道の造りの品格が無い。
同じ背景で造られた道に思えないのです。
では、箱根峠より東に向けた道が湯坂道以外に有るのでしょうか?
それを探す手掛かりとして、この図を提示しました。
如何ですか?
■ 記 2009年03月03日
続 箱根の古代道
箱根の古代道を書いたのは2006/12で、それから一年以上経ってしまいました。
このバーチャルな画面から、、何か想像できましたか?
とりあえず、
赤でマークした箱根西坂の「推定平安鎌倉古道」と、その接点の箱根峠、そして水色でマークした平安鎌倉時代に使われた湯坂道です。
この他に箱根峠より東に街道を作るとすれば、貴方なら何処に作ります?
■ 記 2009年03月05日
続 箱根の古道1
さて、、、
湯坂道の脇にピンクのマークの線を書き加えました。
これは、江戸東海道です。
湯坂道は、尾根筋に作った道で、江戸東海道は谷底の川筋に作った道です。そのポリシーの差は雲泥の違いがあります。この道の他に街道は作れないか?
古代道の定番は、
①尾根を通る。
②直線的な道である。
っと言う訳ですが、、、
湯坂道は、尾根を通り直線的ですね、、、
でも、、箱根峠から芦ノ湖に降り、湯坂の尾根に入る間は、結構曲がっている!
貴方は、この画像から①②の条件の道を考えられますか?
■ 記 2009年03月08日
続 箱根の古代道2
もう一枚箱根の地図を載せます。
地形だけのデータですが、、、、古代に道を作った人は、何の先入観も無く
この様な箱根の地形を把握して、何処に道を作るか?考えた訳です。
貴方なら、何処に道を作るか?
文献を参考に考えるのではなく、貴方ならどの様に道を作るか?
①尾根を通る。
②直線的な道である。
流水で作られた岩壁、がけ崩れ等、災害の多い谷筋より尾根道を通るのは、山登りをする人の定番です。
目的地に向けなるべく早く! = 目的地に直線的に移動する!
そんな条件での箱根の道作りです。
画像は、カシミールにより、50mメッシュ標高データを使用。
■ 記 2009年03月12日
続 箱根の古代道3
赤い線は、平安古道と言われる湯坂道です。
事の始まりは、
太閤秀吉が、小田原攻めをした時に、大軍を通すのが困難な蔦の細道の脇に道を作った。
鎌倉時代に作られたとか、秀吉が作ったとか語られているのですが、、
史実は不明だが、前の時代の道を太閤秀吉がリメイクしたであろうと考えられ。
秀吉の取り巻きに、道に詳しい者が居たと想像できる。
その秀吉は、箱根湯本の早雲寺に陣を張った。
箱根湯本は、湯坂道を降りた場所。
しかし、小田原城を攻めるに困難を感じたので、策を立てた!
その策とは、
小田原城より立派な城を建て威圧しようと言う心理作戦です。
威圧するだけの外見を持たなければ意味は無い。
俗に言われる一夜城! 石垣山城です。
関東で初めてと言われる、石垣で囲まれた城です。
それには、資材の石が要る! 資材を運ぶ「道」が必須です。
蔦の細道の再現!
秀吉の取り巻きの「道に詳しい者」の出番となる!!
そして、古街道の下見をした結果、、、
単なる山道ではなく資材を運ぶに耐える道であった。
その上で、、
小田原城を上から見下ろせ、小田原の状況が丸見えの場所を選んだ!!
そんなストーリーをぼ輔は想像したのです。
■ 記 2009年03月13日
続 箱根の古代道4
赤い線は、平安古道と言われる湯坂道で、桃色の線は関白道と言われ、一夜城に続く道です。
注目するのは、箱根峠より非常に直線的に一夜城迄続いている事と、
古代道のパターンの尾根筋を通る道で有るのは、一目瞭然です。
関白一夜城
地元では関白道と呼ばれている道ですが、
城を作る事を優先するか?ハタマタ、道を作ることを優先するか?
どちらも一大工事です。
築城の資材を運ぶ道は、獣道や人が歩ける程度では無理です。その様な運搬ルートを探すのは困難な箱根の地形なのです。
富士山と同じ形をした巨大な元箱根山が自重で陥没し、陥没した内側は崖となり残った。
外輪山の内側は、急激な崖で歩行困難です。
湯本に降りる道も、水流に削られた川筋を避け、平安鎌倉時代は尾根の湯坂道を使った。
よりナダラカで歩きやすい道を目指し、江戸時代は道造りに困難な川筋ルートを作った。
しかし、人馬は通れても大量の石材を短期に運搬するのは、役不足な道に思えます。
問題は、
それ以前の古代道の話ですが、、、
秀吉の取り巻きも、、
箱根で築城するのは、資材を運ぶ道が無ければ考えない策!!
っと ぼ輔は考えたのです。
箱根は他に城が有りますが実用本位の山城で、、、
外見を意識した石垣の城「外から資材を運んで作った」のは石垣山城(一夜城)だけです。
図示したピンクのマークの道は、外輪山の尾根道です。
関白道と地元で呼びますが、蔦の細道の脇道宇津の谷峠は鎌倉時代に作られたと思われる道が「秀吉が作った」話になる。
廃道となり忘れ去られた道を整備したら、ソリャ整備して使える様にした人の名前が付く。秀吉が造った道ですから、、「古代道では無い!」その様な理論は成り立たない事に注目して欲しい。
ここ迄が、話の前振りです。
古代道探しは、推理ゲームですね!
学術的に証明しよう!なんて言うい気持ちはサラサラ無い!
推理した場所に、思った通りの痕跡が有れば、ぼ輔の興味は完結する。
関白道は、これからが山場です。
■ 記 2009年03月22日
続 箱根の古代道5
この道は802年の富士噴火により、足柄路より箱根路に官路を変えた痕跡ダ!
っと証明なんて、、、
富士の噴火で急遽作った道に道幅の広さを期待できません。その為に古代道と特定するのは無理と考えています。
また、、、
関白道と呼ばれても、古代道のリメイクを否定する根拠にはならない。
前回の「続 箱根の古道4」に書いた通りです。
状況としては、幾らでも話せる!
古代道の特徴の直線的な事。
初期の道作りの山の峰を通す。
直線的な事で言えば、鞍掛山から一夜城までは、10k以上もある直線的な尾根です。
平安から鎌倉時代に使われた湯坂道とは、比べようが無い位の直線的な尾根道を作れます。
そして、関白秀吉により資材を運搬するに使われた実績もある。
箱根西坂の推定平安鎌倉古道と対比させても、直線性に遜色が無い。
道幅と、切り通した道の規模に東坂は、貧弱さを感じるのですが、、、
それも、噴火以降、平安鎌倉時代まで補修を繰り返し使い続けた西坂と、富士噴火以来湯坂道に座を追われて廃れた東坂の違いか? 等考えています。
それも、今は箱根ターンパイクにより、、、ズタズタに切り裂かれ、ある所は古道の上に道がつくられ、、
でも、わずかに残った痕跡と考えられる道を見つける事は可能です。
その手段は、、、
空中写真があります。
図は、
GoogleEarthより引用。
ピンクのマークは、古道を林道にリメイクしたと考えられる道で、その延長の青マークのラインは、古道跡と思われる峰通しの痕跡。
この場所を、国土地理院の空中写真で立体視すると、、、納得モノですが!
googleやyahooでも地図検索で、衛星写真が使えます。
安易がお好みならば、そちらで調べてみて下さい。
■ 記 2009年03月27日
続 箱根の古代道6
この記事は事前の資料をまとめる事もありますが、、
リアルタイムで ぼ輔の進行中の考え、探索資料などが書かれています。
この為、過去の記事で修正したい処も多々ありますが、、
現在の興味が優先して、修正まで至りません!
今回の画像は、googleで使われている衛星写真ですから、近年の画像です。
その映像ですら、この様に直線的なラインが見出せます。
「続 箱根の古代道5」一夜城脇からのピンクのラインは林道ですが、
その先に在る水色のマークをしたラインが今回のピンクに囲まれた映像です。
黒く一直線なラインが確認できるとおもいますが、、、
このラインには、林道が無い。このラインの下に桜山林道がウネッタ状態でありますから、
林道とは区別できます。
この程度なら、誰でも居ながらにして、古道跡を探索出来るのです。
「貴方も探して見ませんか?」
と言う訳です。
このラインの実態は、どの様になっているのか?
目にしたいと思いませんか?
山の探索は植物が萌える前、、、今の時期が一番です!
それ以降は、葉が行くての視界をサエギリ目隠し状態になります。
箱根の古代道
これは、箱根全山をカシミールと言うソフトで作った図ですが、、、
この中に、802年に作られた足柄代替の古道が作られた痕があるはずです。
その道は何処を通ったか?この地図から予想して欲しいと思うのです。
その道の作られた経緯は、
800年 富士山が大噴火。
802年 富士山噴火で使用不可になった足柄路の代りに箱根路を開く。
その後数年して後、足柄路が再開となる。
これが、文献に書かれた事です。
(日本紀略 - 廃相模国足柄路,開筥荷途,以富士焼碎石塞路也)
現在知られている古道として、
箱根峠から都に向けて(峠から西の三島に向け)推定平安鎌倉古道と言うのが在ります。
とても、直線的に作られた道です。
箱根峠から東の鎌倉に向けては、湯坂道が在り中世に使われた様子が文献より伺えます。
しかし湯坂道は、推定平安鎌倉古道に有る道の造りの品格が無い。
同じ背景で造られた道に思えないのです。
では、箱根峠より東に向けた道が湯坂道以外に有るのでしょうか?
それを探す手掛かりとして、この図を提示しました。
如何ですか?
■ 記 2009年03月03日
続 箱根の古代道
箱根の古代道を書いたのは2006/12で、それから一年以上経ってしまいました。
このバーチャルな画面から、、何か想像できましたか?
とりあえず、
赤でマークした箱根西坂の「推定平安鎌倉古道」と、その接点の箱根峠、そして水色でマークした平安鎌倉時代に使われた湯坂道です。
この他に箱根峠より東に街道を作るとすれば、貴方なら何処に作ります?
■ 記 2009年03月05日
続 箱根の古道1
さて、、、
湯坂道の脇にピンクのマークの線を書き加えました。
これは、江戸東海道です。
湯坂道は、尾根筋に作った道で、江戸東海道は谷底の川筋に作った道です。そのポリシーの差は雲泥の違いがあります。この道の他に街道は作れないか?
古代道の定番は、
①尾根を通る。
②直線的な道である。
っと言う訳ですが、、、
湯坂道は、尾根を通り直線的ですね、、、
でも、、箱根峠から芦ノ湖に降り、湯坂の尾根に入る間は、結構曲がっている!
貴方は、この画像から①②の条件の道を考えられますか?
■ 記 2009年03月08日
続 箱根の古代道2
もう一枚箱根の地図を載せます。
地形だけのデータですが、、、、古代に道を作った人は、何の先入観も無く
この様な箱根の地形を把握して、何処に道を作るか?考えた訳です。
貴方なら、何処に道を作るか?
文献を参考に考えるのではなく、貴方ならどの様に道を作るか?
①尾根を通る。
②直線的な道である。
流水で作られた岩壁、がけ崩れ等、災害の多い谷筋より尾根道を通るのは、山登りをする人の定番です。
目的地に向けなるべく早く! = 目的地に直線的に移動する!
そんな条件での箱根の道作りです。
画像は、カシミールにより、50mメッシュ標高データを使用。
■ 記 2009年03月12日
続 箱根の古代道3
赤い線は、平安古道と言われる湯坂道です。
事の始まりは、
太閤秀吉が、小田原攻めをした時に、大軍を通すのが困難な蔦の細道の脇に道を作った。
鎌倉時代に作られたとか、秀吉が作ったとか語られているのですが、、
史実は不明だが、前の時代の道を太閤秀吉がリメイクしたであろうと考えられ。
秀吉の取り巻きに、道に詳しい者が居たと想像できる。
その秀吉は、箱根湯本の早雲寺に陣を張った。
箱根湯本は、湯坂道を降りた場所。
しかし、小田原城を攻めるに困難を感じたので、策を立てた!
その策とは、
小田原城より立派な城を建て威圧しようと言う心理作戦です。
威圧するだけの外見を持たなければ意味は無い。
俗に言われる一夜城! 石垣山城です。
関東で初めてと言われる、石垣で囲まれた城です。
それには、資材の石が要る! 資材を運ぶ「道」が必須です。
蔦の細道の再現!
秀吉の取り巻きの「道に詳しい者」の出番となる!!
そして、古街道の下見をした結果、、、
単なる山道ではなく資材を運ぶに耐える道であった。
その上で、、
小田原城を上から見下ろせ、小田原の状況が丸見えの場所を選んだ!!
そんなストーリーをぼ輔は想像したのです。
■ 記 2009年03月13日
続 箱根の古代道4
赤い線は、平安古道と言われる湯坂道で、桃色の線は関白道と言われ、一夜城に続く道です。
注目するのは、箱根峠より非常に直線的に一夜城迄続いている事と、
古代道のパターンの尾根筋を通る道で有るのは、一目瞭然です。
関白一夜城
地元では関白道と呼ばれている道ですが、
城を作る事を優先するか?ハタマタ、道を作ることを優先するか?
どちらも一大工事です。
築城の資材を運ぶ道は、獣道や人が歩ける程度では無理です。その様な運搬ルートを探すのは困難な箱根の地形なのです。
富士山と同じ形をした巨大な元箱根山が自重で陥没し、陥没した内側は崖となり残った。
外輪山の内側は、急激な崖で歩行困難です。
湯本に降りる道も、水流に削られた川筋を避け、平安鎌倉時代は尾根の湯坂道を使った。
よりナダラカで歩きやすい道を目指し、江戸時代は道造りに困難な川筋ルートを作った。
しかし、人馬は通れても大量の石材を短期に運搬するのは、役不足な道に思えます。
問題は、
それ以前の古代道の話ですが、、、
秀吉の取り巻きも、、
箱根で築城するのは、資材を運ぶ道が無ければ考えない策!!
っと ぼ輔は考えたのです。
箱根は他に城が有りますが実用本位の山城で、、、
外見を意識した石垣の城「外から資材を運んで作った」のは石垣山城(一夜城)だけです。
図示したピンクのマークの道は、外輪山の尾根道です。
関白道と地元で呼びますが、蔦の細道の脇道宇津の谷峠は鎌倉時代に作られたと思われる道が「秀吉が作った」話になる。
廃道となり忘れ去られた道を整備したら、ソリャ整備して使える様にした人の名前が付く。秀吉が造った道ですから、、「古代道では無い!」その様な理論は成り立たない事に注目して欲しい。
ここ迄が、話の前振りです。
古代道探しは、推理ゲームですね!
学術的に証明しよう!なんて言うい気持ちはサラサラ無い!
推理した場所に、思った通りの痕跡が有れば、ぼ輔の興味は完結する。
関白道は、これからが山場です。
■ 記 2009年03月22日
続 箱根の古代道5
この道は802年の富士噴火により、足柄路より箱根路に官路を変えた痕跡ダ!
っと証明なんて、、、
富士の噴火で急遽作った道に道幅の広さを期待できません。その為に古代道と特定するのは無理と考えています。
また、、、
関白道と呼ばれても、古代道のリメイクを否定する根拠にはならない。
前回の「続 箱根の古道4」に書いた通りです。
状況としては、幾らでも話せる!
古代道の特徴の直線的な事。
初期の道作りの山の峰を通す。
直線的な事で言えば、鞍掛山から一夜城までは、10k以上もある直線的な尾根です。
平安から鎌倉時代に使われた湯坂道とは、比べようが無い位の直線的な尾根道を作れます。
そして、関白秀吉により資材を運搬するに使われた実績もある。
箱根西坂の推定平安鎌倉古道と対比させても、直線性に遜色が無い。
道幅と、切り通した道の規模に東坂は、貧弱さを感じるのですが、、、
それも、噴火以降、平安鎌倉時代まで補修を繰り返し使い続けた西坂と、富士噴火以来湯坂道に座を追われて廃れた東坂の違いか? 等考えています。
それも、今は箱根ターンパイクにより、、、ズタズタに切り裂かれ、ある所は古道の上に道がつくられ、、
でも、わずかに残った痕跡と考えられる道を見つける事は可能です。
その手段は、、、
空中写真があります。
図は、
GoogleEarthより引用。
ピンクのマークは、古道を林道にリメイクしたと考えられる道で、その延長の青マークのラインは、古道跡と思われる峰通しの痕跡。
この場所を、国土地理院の空中写真で立体視すると、、、納得モノですが!
googleやyahooでも地図検索で、衛星写真が使えます。
安易がお好みならば、そちらで調べてみて下さい。
■ 記 2009年03月27日
続 箱根の古代道6
この記事は事前の資料をまとめる事もありますが、、
リアルタイムで ぼ輔の進行中の考え、探索資料などが書かれています。
この為、過去の記事で修正したい処も多々ありますが、、
現在の興味が優先して、修正まで至りません!
今回の画像は、googleで使われている衛星写真ですから、近年の画像です。
その映像ですら、この様に直線的なラインが見出せます。
「続 箱根の古代道5」一夜城脇からのピンクのラインは林道ですが、
その先に在る水色のマークをしたラインが今回のピンクに囲まれた映像です。
黒く一直線なラインが確認できるとおもいますが、、、
このラインには、林道が無い。このラインの下に桜山林道がウネッタ状態でありますから、
林道とは区別できます。
この程度なら、誰でも居ながらにして、古道跡を探索出来るのです。
「貴方も探して見ませんか?」
と言う訳です。
このラインの実態は、どの様になっているのか?
目にしたいと思いませんか?
山の探索は植物が萌える前、、、今の時期が一番です!
それ以降は、葉が行くての視界をサエギリ目隠し状態になります。