鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

稲村崎成干潟事 上巻

2014年11月28日 | 稲村ヶ崎伝説

■ 記 2010年07月01日稲村崎成干潟事 序

図は、国土地理院明治15年迅速図
新田義貞の主力は鎌倉の化粧坂を攻めたが、強固で突破できない!城壁の切れた稲村ヶ崎より鎌倉を攻めるのですが、
「合戦の間干潟にて有りし事、かたがた仏神の加護とぞ人申しける」
梅松論にて、冷静な記述で書かれた稲村崎干潟となる現象です。
この干潟が今回のテーマです。
稲村路の存在と、どの場所を新田軍が攻めたかを考察すると、大鎌倉城の戦う砦としての構造が浮かび上がる。

明治15年の地図です。
A極楽寺坂
B五合枡と呼ばれる方形陣地。
C仏法寺(大館宗氏は稲瀬川にで討取られ、残党は退てこの場所に退避する)
D稲村路
E新田義貞が夜中偵察し、これより南が稲村路と言わしめた場所。
F稲村ヶ崎
G潮の満ち引きの差を地図で表した場所。

この地図の焦点は、潮の満ち引きの差です。
この地図では、潮が引いて干潟が出来る場所の記載は無いと言うことです。
但し、明治15年の時点ではの話です。

新田義貞鎌倉攻めの際、梅松論に書かれた稲村路の特徴は、
「稲村崎の波打ち際、石高く道細くして軍勢の通路難儀の所に、俄に塩干て合戦の間干潟にて有りし事、かたがた仏神の加護とぞ人申しける」
この地図からぼ輔の想定した稲村路の(赤くマークしたライン)の検証をしよう!
ット言う訳です。
稲村路の明治時代の波打ち際は、即 崖の下っという様子がこの地図から読み取れると思います。(現状は埋め立てられて実感が湧かない)
数ある古文に書かれた事項の真偽の可否や、資料と符合する程度は?
新田義貞がこの稲村路から鎌倉市内に浸入したとすれば、、
干潟の出来る場所を特定し、稲村ガ崎の先端を渡渉(歩いて水中を渡る)して浸入した話しの真偽性に決着を付けようと言う事です。


■ 記 2010年07月05日稲村崎成干潟事1

 新田義貞稲村ヶ崎の奇跡は、この文章から始まった。

> 太平記(国民文庫)より抜粋<http://www.j-texts.com/taihei/thkm2.html>
> ○稲村崎成干潟事 
> 去程に、極楽寺の切通へ被向たる大館次郎宗氏、本間に被討て、兵共片瀬・腰
> 越まで、引退ぬと聞へければ、新田義貞逞兵に万余騎を率して、二十一日の夜
> 半許に、片瀬・腰越を打廻り、極楽寺坂へ打莅給ふ。明行月に敵の陣を見給へ
> ば、北は切通まで山高く路嶮きに、木戸を誘へ垣楯を掻て、数万の兵陣を双べ
> て並居たり。南は稲村崎にて、沙頭路狭きに、浪打涯まで逆木を繁く引懸て、
> 澳四五町が程に大船共を並べて、矢倉をかきて横矢に射させんと構たり。誠も
> 此陣の寄手、叶はで引ぬらんも理也。と見給ければ、義貞馬より下給て、甲を
> 脱で海上を遥々と伏拝み、竜神に向て祈誓し給ける。「伝奉る、日本開闢の
> 主、伊勢天照太神は、本地を大日の尊像に隠し、垂跡を滄海の竜神に呈し給
> へりと、吾君其苗裔として、逆臣の為に西海の浪に漂給ふ。義貞今臣たる道を
> 尽ん為に、斧鉞を把て敵陣に臨む。其志偏に王化を資け奉て、蒼生を令安と
> なり。仰願は内海外海の竜神八部、臣が忠義を鑒て、潮を万里の外に退け、道
> を三軍の陣に令開給へ。」と、至信に祈念し、自ら佩給へる金作の太刀を抜
> て、海中へ投給けり。
> .......以後省略.......


  この文章が根拠となり、、
  明治35年に歴史学者大森金五郎氏は数回ほど渡渉実験をし、
> 「当時は崖下の水に近いところに通路があったのであろう、、長い年月を経た
> ので風浪怒涛の為に次第に崩壊せられたのであろうか、今は跡形もない。それ
> 故、元弘3年5月に、新田義貞が大軍を率いてここを渡渉したと云う事は不可能
> のことではなく、何の不思議も無いことである。」

と結論をだした。

     稲村ヶ崎の海浜公園の碑には
> 「今を距る五百八十四年の昔 元弘三年五月二十一日 新田義貞此の岬を廻り
> て鎌倉に進入せんとし 金装の刀を海に投じて 潮を退けんことを海神に祈れ
> りと言うは此の処なり      大正六年三月建之   鎌倉町青年会 」

     となっている。

ここで上記の検証に疑問を提起するのですが、、、
太平記の巻10の「稲村崎成干潟事」の文字だけ注目すれば稲村ヶ崎が干上がった事になる。
しかし、
この文中に書いてある事は、これだけではなく、
>「二十一日の夜半許に、片瀬・腰越を打廻り、極楽寺坂へ打莅給ふ。明行
>月に敵の陣を見給へば、北は切通まで山高く路嶮きに、木戸を誘へ垣楯を
>掻て、数万の兵陣を双べて並居たり。南は稲村崎にて、沙頭路狭きに、浪
>打涯まで逆木を繁く引懸て、澳四五町が程に大船共を並べて、矢倉をかき
>て横矢に射させんと構たり。誠も此陣の寄手、叶はで引ぬらんも理也。」


新田軍は極楽寺坂の偵察を出した状況が書かれており。七里ガ浜方面より極楽寺切通しへ向った際、道路の分岐点に立った状況を書かれていると考えられる。この場所は、、、前回「E]と赤字で示した針磨橋と考えられる。
これから北へ一歩進めば、鎌倉軍と合戦が始まる。南へ進路を取れば「稲村崎」!!!
この「稲村崎」は現在の一般常識「七里ガ浜の磯伝い」の稲村ガ崎ではない事が伺える!!
それは前回赤いラインで示した「稲村路」と呼ばれる極楽寺切通しが出来る前から在る道を指して、太平記では「稲村崎」と書かれている。
これらの視点が上記の研究者には無く、太平記を理解をしてない事が伺われる。

針磨橋の碑
(鎌倉町青年団 鎌倉十橋ノ一ニシテ往昔此ノ 附近ニ針磨(針摺)ヲ業トセ シ者住ミシケリトテ此ノ名ア リトイフ)

絵は 月岡芳年「月百姿」:江戸から明治時代の浮世絵師。 礫川浮世絵美術館


■ 記 2010年07月07日稲村崎成干潟事2

>○稲村崎成干潟事  太平記(国民文庫)より抜粋
>   .....前略......
>「二十一日の夜半許に、片瀬・腰越を打廻り、極楽寺坂へ打莅給ふ。明行
>月に敵の陣を見給へば、北は切通まで山高く路嶮きに、木戸を誘へ垣楯を
>掻て、数万の兵陣を双べて並居たり。南は稲村崎にて、沙頭路狭きに、浪
>打涯まで逆木を繁く引懸て、澳四五町が程に大船共を並べて、矢倉をかき
>て横矢に射させんと構たり。誠も此陣の寄手、叶はで引ぬらんも理也。」
>   .....後略...... 


 新田義貞は七里ガ浜から極楽寺に向け偵察隊を出した。
七里ガ浜の磯伝いは初めから稲村ヶ崎が見える浜ですから、「南は稲村崎にて、、」等と言う場所は無い。
江ノ電の電車の脇を極楽寺に向かい針磨橋で、分かれ道(稲村路の分岐)となる状態ならば「南は稲村崎にて、、」という状況が生まれる。
「北は切通まで山高く路ケワシく、数万の兵が盾を構えて待ち受けている。
 南は稲村崎で波打ち際の砂浜狭くの崖まで逆木で通れなく、船から岸に向け弓矢を構えている。これでは攻めても、引き下がる他は無い!(大館が討ち取られたのも無理は無い。)」
北の極楽寺切通しが目的ではなく、南の稲村路を通り「稲村崎」を攻めるために播磨橋に着いた状況が書かれています。

それ以前の状況は、
新田義貞は軍勢を三手に分け、一方は極楽寺へ、他方は巨福呂坂へ、残る一方は義貞が直接指揮し仮粧坂へ。
しかし、巨福呂坂も仮粧坂も難攻不落状態であったのです。

そんな強固な鎌倉の防衛で、唯一盲点が城壁の切れた海岸際であり、、
極楽寺の攻撃は初期から稲村崎を経て鎌倉内に踏み込む事が出来たのです。※1
(もっとも、義貞勢浜手の大将大館宗氏は稲瀬川において討取られ、11人塚の顛末となり名を残している。)
大将大館宗氏が鎌倉城の弱点を死んで証明した稲村崎から攻撃を決断するのです。
新田義貞は自ら指揮し化粧坂の軍の内二万余騎を連れて、稲村崎を目指し移動を始めた。

そして、太平記の次の文章では、
「誠も此陣の寄手、叶はで引ぬらんも理也。と見給ければ、義貞馬より下給て、甲を脱で海上を遥々と伏拝み、竜神に向て祈誓し給ける。」

そこで、新田義貞は播磨橋より南の稲村路の海に出た場所で馬を降り、兜を脱で海を伏拝む事になります。
新田軍は、七里ガ浜から黄色い線を通り播磨橋(E)へ!
播磨橋から赤い線を通り稲村崎(D)に着き新田義貞は馬を下りた。

※1 「梅松論」では、五月十八日の未刻ばかりに(=午後二時頃)義貞の勢は稲村崎を経て前浜の在家を焼き払ふ煙見えければ、鎌倉中の騒ぎ手足を置く所なく、あはてふためきける有様たとへていはんかたぞなき。」


 記 2010年07月10日稲村崎成干潟事3

地図は明治15年の迅速図であり、、写真は由比ガ浜より霊仙岳を写した物です。
時期は、関東大震災の直後の岩壁崩壊の状態を写したものですが、、注目は岩壁で無く海です。
この場所こそ新田義貞が「稲村崎成干潟事」を起こした場所です。
波が無いのは??何故でしょう???
海に赤く淡いラインを書きましたが、、海面より上の岩礁で、写真の範囲は総て干潟です。
関東大震災により、、海面より土地は1m浮き上ったのです。
関東大震災以来、、干潟は当たり前の現象になってしまった!!!

どんなに穏やかな日でも波が有るのが海です。
波の無い理由は、波打ち際はもっと沖にあり、写真に写る干潟まで波が来ないだけの話しです。
この干潟に目を付けた地元民が居り、考えた事は干潟を埋め立てて土地にする事でした。
  齋藤養之助氏顕徳碑 
この霊仙ヶ崎埋立地は、昭和十年、当時の有志により計画造成せられ、
その後 斎藤氏の所有するところとなったが、昭和二十四年九月十七日
斎藤氏は本市の伸展は文化観光施設の充実にあるとの信念から、この
埋立地の内壱萬坪を将来の都市計画用地として欣然無償供与せられた
のである。 道路開鑿記念之碑   昭和十三年三月建 


関東大震災1923年(大正12年)後埋め立ては道路開鑿記念之碑の昭和十三年の間は15年間で、この間しか干潟は見れなかった。
関東大震災以後「稲村崎成干潟事」は当たり前の話であったと思います。
震災前の明治の人は、干潟の奇跡を考えた。
埋め立て後の人は干潟の状況は知らずに、、、明治の人の言葉を信じた!
こうして、、稲村ガ崎の奇跡は作り上げられた。
現在は、埋め立てた場所≒干潟の有った場所です。


■ 記 2010年07月12日  稲村崎成干潟事4

稲村崎の新田義貞!その後に起きたことは?
 「太平記」(1374)巻10稲村崎干潟となる事

(www.j-texts.com/yaku/taiheiky.html )
 ......前略......
 龍神は其願を聴き入れたものか、其夜月の入る頃、これまで嘗て
 干た事のない稲村崎が俄に二十余町も干上つて、砂原が広々と開け、
 横矢を射かけようと待ち構へてゐた五六千の兵船は、潮と共に退
 いて沖の方遠くに浮き漂された。全く不思議だ、こんな不思議な
 事はあるものでない。
......後略......


「梅松論」では、
 稲村崎の波打ち際、石高く道細くして軍勢の通路難儀の所に、
 俄に塩干て合戦の間干潟にて有りし事、かたがた仏神の加護と
 ぞ人申しける。

以上の様な結果が起きました。
ここで重要なの事は「太平記」と「梅松論」と言う立場の違う著者が違う言葉で同じ状況を述べていることで、異常気象の存在を確認できる事です。
  齋藤養之助氏顕徳碑  この霊仙ヶ崎埋立地は、昭和十年、当時の有志により計画造成せられ、      道路開鑿記念之碑   昭和十三年三月建 


この道路は現在のルート134号で、埋立られた干潟の一番外側と考えられます。
引き潮により、この道路まで鎌倉軍の船は追いやられたとなれば、船から波打ち際までは距離が長すぎる、、たとえ届いても横矢で狙い撃ちできる距離ではない。

干潟は20町であったそうです。この埋立地だけで10町の面積で、この程度の誇張は、許せる範囲

とするぼ輔でした。

この写真は、、海底が良く映し出された写真です。海底の岩の状態をご覧ください。
真っ青の海に対し、緑の海草が有る岩礁が海底に写っています。

この様な岩の状況は、逗子の海岸でも見られ、不如帰(ホトトギス)の碑が海底から突き出しており、大潮にはこの海の中を歩けるのです。

この地図の状態で干潟が出来れば、、、稲村路から干潟を通り簡単に無理なく攻め込める。
太平記の「稲村崎干潟となる事」の項目は、調べるほどに、奇跡でなく、無理なく起きた異常気象とぼ輔には感じる。
大潮の時は、その前後数日間は、潮の引きが大きく出る。
細かく大潮の日時を、数日前!などとノタマウ方も居られますが、机上論でなく、、その程度を実感をして頂きたいと思います。
異常気象で潮位が1m上り霊仙崎(稲村路)の岩場が干上がっても、稲村ガ崎の周囲の岩礁は海中に在ります。
現在言われる稲村ガ崎外海が干上がった訳ではないのがご理解頂けると思います。

「梅松論」にて、 合戦の間干潟にて有りし事、 と文章として異常気象と書かれています。



■ 記 2010年07月14日稲村崎成干潟事5

浜の手の大将大館宗氏が鎌倉城の弱点である進入経路を死んで証明した。それが針磨橋から南の稲村崎へ向かう文献に書かれた稲村路の存在。
従来説は太平記を基にしながら、詳細な記述を無視して現在の七里ガ浜の磯伝いの稲村ガ崎を回り攻め込んだと誤解したわけです。
稲村路という古来から道の存在を知らずに「稲村崎」を七里ガ浜の磯伝いと考えた!

稲村路を認識した上で「太平記」を読むと、文章に矛盾を感じないで理解できる筈です。
ぼ輔だけの考えではなく、絵でもその状況を意識して描かれた物があります。

時刻は二十一日の夜半(頃明け方)であり、この時に総攻撃が始まり、翌日には「高時竝一門以下東勝寺に於て自害の事」で鎌倉は終わるのです。

この絵は、稲村路より稲村崎へ出た特徴を持った新田義貞の絵です。
山間の道に軍が連なり、、左の山は稲村ヶ崎で、右の山は霊仙岳側です。

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稲村崎成干潟事 中巻

2014年11月28日 | 稲村ヶ崎伝説

■ 記 2010年07月18日   稲村崎成干潟事6

新田義貞は七里ガ浜から極楽寺に向け軍を進め針磨橋で、分かれ道となった。
「北は切通まで山高く路ケワシく、数万の兵が盾を構えて待ち受けている。
 南は稲村崎で波打ち際の砂浜狭くの崖まで逆木で通れなく、船から岸に向け弓矢を構えている。」と太平記の稲村崎成干潟事に書かれたこの時の布陣を考えてみましょう。

この布陣の基になる情報は、
上記の太平記の針磨橋の場面、新田軍が居ても鎌倉軍は攻撃できず、睨み合った状態。
この根拠から新田軍は稲村路の海に出る処まで使えたであろう状態が一つ。
陣鐘山の伝承が一つ。
新田軍の総攻撃に連動させて、霊仙山を三木党が襲った事の三項目を組み合わせると、、
図の様な布陣が考えられる。

江ノ電稲村ガ崎駅の背後の山で、新田義貞が鎌倉攻めの際に山上に陣鐘を吊るしたという伝説がある。対面する霊仙山の鎌倉軍を鐘の音で威嚇したのでしょう。
尾根は南北に長く、北は、大仏坂に対面する場所で、陣鐘山~一升枡砦~貯水場~大仏坂へ続く尾根です。地図では尾根伝いに攻め込めば良さそうですが、、実際は山城構成の戦う場所で、尾根は占拠しても、尾根伝いに攻め込むことは無理で有ったのです。

新田義貞は陣鐘山の西にある聖福寺に陣を置き、極楽寺坂を攻めたそうです。
この布陣をしたのは、稲瀬川において討取られた浜手の大将大館宗氏であったか、、、新田義貞が稲村に入ってからか?
想像するのは、
稲村ヶ崎から極楽寺坂の防衛線を打ち破る時に、端の海よりの陣地から潰して行くのが常套手段と考えます。
数日を懸けて砦の中の鎌倉軍を追い散らし稲村と陣鐘山を手中に収めた。
勿論、腰越まで新田軍を引かせた話もありますが、、奪われた砦を奪い返すのは、数倍の力が無ければ出来ないことで鎌倉軍は余力が無かったと想像します。
この様な布陣を取っていたなら、針摺橋は敵味方の境です。
そして、霊仙山と稲村ヶ崎の間に稲村路が有る訳ですが、稲村ヶ崎の砦は新田軍が占拠した状態が考えられますが、無視しても稲村路を攻めるには峰の上から谷の下の稲村路は距離が有り過ぎ、鎌倉軍は攻撃できないので、稲村路から稲村ヶ崎の海に出るのはた易き事と考えます。
その後三木党が新田軍総攻撃に合わせて、仏法寺を占拠した記録もあるそうです。


■ 記 2010年07月23日   稲村崎成干潟事7

稲村ガ崎はどの様な砦であったのか?
私自身が、稲村ヶ崎が風光明媚な観光地と認識しても、
戦いの砦としての無骨さを感じた事はは無かったのです。
右の写真は震災前の明治の写真です。
平らな平場と垂直な崖!とても人工的な工作の成された砦!
石組みの城壁より攻めるに困難さを感じる人工的な崖です。
「鎌倉には城が無かった!」其処にあるのは、石切り場や畑の跡だけである!
と陳腐な説を吹聴している人がいるようですが、、
この痕跡と、戦った経過とを、説明して欲しいものです。
この様な防御が無ければ、一日と持たずに攻め込まれる。
決して、、守りが弱かったのではなく、攻め手が強烈であった事と、異常気象に守りを崩されたと想像します。

現状は 木が茂り、、本来の形が見えなくなっている。
手を加えないことが自然保護ではない証明です。
古来より里山は、人の手でコマメニ伐採されていた。
お爺さんは、山に芝刈りに行ったのです。
鎌倉は、樹木を「自然保護」という大儀の放置処分をした。
巨大に伸びた樹木の根が岩盤を破壊し始めている。アンコールワットの二の舞です。


■ 記 2010年07月27日  稲村崎成干潟事 大潮

このグラフは今年の潮位を標高で表したものです。
OKADAとされているのは、伊豆大島の岡田です。
大潮の時は、一日一回1mほど潮が引きます。
大潮の前後数日は、潮の引きが大きいのを確認できると思います。
この様な訳で、大潮の日から多少ずれても潮の引きは、それなりに大きいのです。
大潮の特定日を問題にするのは、海の潮の程度を知らない机上論で、程度の問題を考慮に入れて理論を展開して欲しいものです。
18日に干潮があり、大館宗氏が鎌倉に深入りして討ち取られ、21日の干潮に新田義貞が鎌倉攻めを行った理由でその間4日です。
グラフから見て、、この数日は時間を選びさえすれば潮が大きく引いていた!!
っと ぼ輔は考えるのです、、、

一番の問題は、
「干潟の時刻や日付が合わない! だから太平記の記述が間違えている!!!」
その考えはチョット待て!書いてあるのは太平記だけでは無い事に注意して欲しい。
幾つかの著者が違う本でも、日付は符合している。

日にちの計算は、確実なのか??
当時の暦の日付を西洋暦に置き換える事が確実に出来るのでしょうか??
その辺りに不審を感じる「ぼ輔」です。
書いてあることに誇張は感じても、書かれた事が起きたとぼ輔は考えています。

皆さんは如何に感じますか?

◎◎◎◎コメント◎◎◎
長潮 (三品)
2010-08-04 22:02:23
コメントが遅くなってしまいました。
やっと、謎が解けそうです。
面白いものを見つけました。

下弦の月を過ぎたころは長潮と言うそうです。
http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KAN6/mame/topic1.html

今でも、由比が浜は、長潮の時、「潮位も低く、砂浜の利用面積が増える」と
いうことです。
http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KAN6/mame/topic1.html

それから、大潮のころは、満潮が明け方三時と夕方五時です。
一方、長潮のころは、干潮が明け方三時と午後三時です。
ということは、戦を始める明け方、薄明のころ、
大潮だと浜が渡れません。長潮だと、ちょうど干潮で浜が
渡りやすいのです。
http://www6.kaiho.mlit.go.jp/tokyowan/currenttide/currenttideindex.htm

長潮、 (三品)
2010-08-04 22:03:54
URLが一つ違ってました。これです。
http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kisya/data/2010/20100212-3.html

Unknown (長潮、)
2010-08-05 20:09:38
もう一つも、違ってました。
http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KAN3/kaisyo/kaikyo/suisan/index.cgi?mode=serch&basho=28&year=2010&month=7


■ 記 2010年08月02日  稲村崎成干潟事8

陣鐘の峰
この峰を占領しても、鎌倉勢を有利に攻撃する事にはならない。
この峰から兵を繰り出して直接極楽寺坂を攻める事が出来ない。
何故なら、守り易く強固な砦は、攻め込む相手を攻撃するには好都合でも、砦から打って出て相手を攻撃する事は無理な構造です。
よって、極楽寺坂に降りたくても断崖で降りられない。一旦七里ガ浜へ降りてから攻撃する手順が必要です。
利点があるとすれば、唯一「陣鐘の峰」から極楽寺坂のくぼみを通し鎌倉の浜が見れる場所なのです。
軍を指揮する者にとって、とても必要な鎌倉の中の情報が外部から見える場所です。
以前ぼ輔が見たイメージを絵にしてみました。(イメージであり、現在もこの様かは樹木の育成により不明。)
極楽寺の忍性墓上の峰に相当する場所からの景色です。


■ 記 2010年08月07日稲村崎成干潟事9

!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
気象庁   気象統計情報より
異常潮位
 近年、日本沿岸では平均的な海面水位が高い状態が続いており、浸水害などの恐れが高まっている。ここでは、数週間を超えて広範囲に潮位が高い(低い)状況を引き起こす異常潮位について、その発生要因、最近の事例、長期的な変化などを解説する。データ解析の詳細は(4)で記述する。
(1)「異常潮位」とは
 通常、海面は1日にほぼ2回、規則的に昇降を繰り返し、その高さと時刻は地球と月および太陽の運行からあらかじめ推測することが可能で、「平常潮位」や「天文潮」と呼ばれる。しかし、実際に観測される潮位は、さまざまな原因で平常潮位と異なり、観測される潮位と平常潮位の差を潮位偏差と呼ぶ。
 潮位偏差を生じる代表的なものには、台風などで起こる高潮や地震で引き起こされる津波があるが、潮位偏差の高い(または低い)状態が広範囲に数週間を超えて長期間続くことがある。これが異常潮位と呼ばれる現象である。この異常潮位という現象は、季節に関係なく発生しているが、平常潮位が年間でも高くなる夏から秋にかけて異常潮位が起きると浸水被害などが発生する。

1 近年発生した主な異常潮位
1999年10月   10月上旬~11月中旬   東海~紀伊   海流の変動  浸水・冠水
2001年7月   7月上旬~9月上旬   沖縄本島    暖水渦    浸水・冠水
2001年9月   9月上旬~10月中旬   東海~九州   海流の変動  浸水・冠水
2003年8月   8月下旬~9月下旬   沖縄本島    暖水渦    浸水・冠水
2004年6月   2004年6月~翌2月    東海~紀伊   海流の変動
!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

以上の文は気象庁のHPより、借用しました。
災害防止の都合上、高潮が問題になっていますが、同様に引き潮も在ると考えています。
海流の問題や、高気圧で海面が低くなる事が書かれています。
発生回数もグラフの通りの回数が発生しています。

いや~! 他人の存在は大事な事で、、、
三品さんの書き込みより大事な事を思い出したのです。
太陰暦です。
昔は、15日の夜は必ず満月であった。
18日は中潮 にて、大館宗氏が鎌倉に侵入。
19日は中潮
20日は中潮
21日は中潮 にて、新田義貞は稲村より鎌倉市内へ。
22日は小潮 にて、鎌倉最後の日
23日は小潮 下弦の月
日付は月の満ち欠けで数えていた当時に日付の間違いは考えられない。
通常の潮の引き方ではなく、異常気象であったと考えざるおえない。
その様な処から、、
今回の異常潮位を引き出すことになった訳です。
その異常で在った事の根拠も必要でしょうね!!!
その根拠は、太平記、梅松論に「異常な事態であった。」事が書かれている。
「暦からその日は大潮で無い! 時刻が合わない!」 そんな理屈は学者の机上論であり、
文献を無視した考えで、整合性が無い。

その手の理屈は、、、自説を主張するあまり、全体との調和を崩しており、非科学的です。


■ 記 2010年08月25日  稲村崎成干潟事10

写真は、材木座より見た明治の稲村、霊仙岳。
 そう言えば、稲村ジェーンの話がありましたね、、、
私の知っているのは、干潟が埋め立てられる以前、この場所は大波の名所であったそうな!
遠浅の浜は良い波が出るのです。
その様な理由でこの場所でサーフィンをやった連中がいた。
現代的なボードでは無いですよ!
埋め立て後、この波は無くなった。

1960年代、ぼ輔が鎌倉でヨットをやった。鎌倉の海で遊ぶ人も殆ど居ない時代です。
秋から冬にかけて、由比ガ浜でも七里ガ浜でも遊んでいるのはぼ輔だけ!
冬の風の中セーリングボートは波を被って寒いのです。それでも遊ぶために、ウェットスーツを買い込んでヨットに乗った。
湘南で潜水用のウェットスーツを防寒用に使ったのは、ぼ輔が最初でした。

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稲村崎成干潟事 下巻

2014年11月28日 | 稲村ヶ崎伝説

■ 記 2010年09月28日 稲村崎成干潟事 11

写真を写した場所の直下は、新田義貞が陣を置いた正福寺跡で七里ガ浜まで直線的な谷になっている。
この谷は新田軍が占拠し、陣鐘の峰を越した東は、針擦橋や極楽寺の有る谷で鎌倉軍が待ち構える。
この谷から陣鐘の峰を攻撃し乗っ取るのも困難ですが、どれ程困難か?
陣鐘の峰を歩く事で、実感して欲しい物です。

異常潮位の事!
 第一に、、、
幕府軍は稲村路に逆木を作り通行出来ないようにした。
当然通常の引き潮では通れない様に逆木は配置された。
逆木で手こずる新田軍を船上から矢で狙い撃ちをする計画であった訳です。
それが、計画通りには成らなかった理由は、
逆木の岸から更に遠くの外海迄潮が引いた。
その結果、横矢を射る位置の海面に岩が顔を出し、船は更に沖へ移動したので、新田軍に矢は届かなかった。
新田軍は、船の横矢で狙い撃ちをされる事も無く通過した!
鎌倉幕府軍は、引き潮の程度を知った上で逆木を作った筈です。
考えられるのは、地元の人間ですら想像しない異常な潮の引き方であった根拠です。

第二は 梅松論ですが、、
「爰に不思議なりしは、稲村崎の波打ち際、
 石高く道細くして軍勢の通路難儀の所に、
 俄に塩干て合戦の間干潟にて有りし事、
 かたがた仏神の加護とぞ人申しける。」。

とあります。
単なる大潮の引潮とは違い、長い時間潮が引いていたと書いてある。
満潮から引潮になり、再度満潮になるには12時間です。中身の潮が引いた時間は実質6時間と決まっています。
時間的にも異常な引き潮であったのです。
大館宗氏が鎌倉市内に深入りして討ち死にした日はすでに引潮の異常は始まっていたと考えられ、鎌倉市内に入り込めた。
起きた亊は「塩干て合戦の間干潟にて有りし事」であり、潮が引き岩礁が現れその上を歩ける事です。

別の視点から書かれた太平記の「稲村崎成干潟事」を加味すれば、、
自然現象の干潟の符合は、絵空事では無く、立場の違う複数の人が書き残している現象である事が理解できるでしょう。
明治の歴史学者の大森金五郎氏が引き潮のときに徒渉を試み、海中を渡るのはそれほど困難ではないという結果でした。これは文献を無視した実験で「干潟」の意味を理解していない非合理な実験と、考えるのです。
干潟の上を歩くのと、腰やお腹まで海水に漬かりながら「困難では無く徒渉する」のは中身が違います。

■ 記 2011年01月24日  稲村崎成干潟事12

写真は現在の稲村ガ崎の東側面(由比ガ浜側)で崩落の為の瓦礫は無い。

稲村ヶ崎の岩壁は崩れやすい!
     本当にそうでしょうか?
関東大震災(1923年)に稲村の岩壁は崩れました。
その規模は、、、

「稲村崎成干潟事3」2010-07-10  に崩壊の写真があります。
この崩壊の程度は、大きいか?少ないか?
具体的には、写真に写る崩れた岩石の量を想像してください。
その様な程度です。

この写真の場所は、岩に大きな窪みがあります。波の侵食による窪みです。
この様な侵食は数千~数万年の歳月が掛かるでしょう。
この場所は、大きな崩壊は無かった様です。

海蝕台(波蝕台)っと言う現象があります。
著明なのは、江ノ島の岩屋に行くと、海面より一段上がって岩が平坦に成っています。
この平坦な岩は波の力で侵食された場所で、海面の高さで浸食され出来上がった岩です。
突然の隆起で台が作られた様に海面より上に出たものです。

写真で、
波打ち際に白く写っているのが2~3m幅の海蝕台で、1923年の関東大震災に浮き上がった旧海水面と思われます。この場所を稲村路の道路跡と間違え易いので、注意する必要があります。
そして、この海面下には、1mの深さに前の時代(数千~数万年前)の規模の大きな海蝕台が有ります。
現在は、大潮に膝まで海に入ればその海蝕台の上を歩け、海産物を地元の人は取っています。
この現在徒渉可能な海蝕台の存在が稲村外海から攻め込んだ話の基なのでしょう。

同様に、霊仙ヶ崎の埋立てたところは、稲村ヶ崎周囲以上の数段規模が大きく浅い海蝕台が存在した訳でその上、震災後は干潟になるのです。
次回は、、その写真です。


■ 記 2011年01月26日  稲村崎成干潟事 13

「稲村崎成干潟事3」の写真とは、別物です。
今回の写真は、
「図説鎌倉回顧」鎌倉市発行に記載された写真ですが、、、
鎌倉市営プールより稲村ヶ崎に向けた現在の写真と比較して下さい。
関東大震災以後、この様な海蝕台の岩礁が競り上がったのです。
この海食台の状態は、江ノ島の様な平らではなく、横須賀の荒崎に見られる様な、洗濯板状に成っており、海面下では浅くても歩きにくい状態です。
干上がれば、深みに足を取られずに迅速に攻め込む事が可能です。
震災後にこの干潟は埋め立てられ、現在の状態に成ったわけです。

もう一つの注目点は、「稲村崎成干潟事3」の写真より岩の崩落が少ない事が理解できると思います。
霊仙ヶ崎の干潟状態が見れるこの写真ですが、、、「新田義貞は、稲村路を使い霊仙ヶ崎の干潟を鎌倉に攻め込んだ」と結論つけられる根拠となります。

決して、モーゼの「十戒」の様な奇跡ではなく、現実に起こる話で在った訳で、太平記の記述を実際に起きた事と解釈して調べた結果です。
従来説の問題として、
①稲村ヶ崎の外海を徒渉する様には、太平記に書いてない事。
②文献の解釈を逸脱した「近世の創作」である事。
の二点が在ります。
以上が 稲村崎成干潟事 の現時点の考えです。


■ 記 2011年01月28日  稲村崎成干潟事 14

上記の図は、「稲村崎成干潟事4」に使った物です。
青いライン①は従来説の稲村路で、道の痕跡は無い。
赤いラインは「ぼ輔説」の稲村路。
黄色いライン③は、これから考察するべき道。
緑は、極楽寺坂です。
航空写真もこれに準じます。

nagaeさんより、質問が有りました。
内容は、

> 稲村道について質問があります。
> 「稲村崎成干潟事4」に地図と航空写真があります。
> 航空写真の方ですが、青い点線の上に稲村道と
> 書かれていて、青い点線が稲村道のように見えます。
> 他方、赤い点線にところに○があります。
> こちらが稲村道のようにも見えます。
> 稲村道はどちらなのでしょうか。
> また黄色の点線はの道は、何のために書かれていて
> 何という道なのでしょうか。

ゴモットモナ質問内容と、「ぼ輔」の説明不足な点、、
それ以外に「水石の美を求めて」の酔石亭主さんの
・新田義貞鎌倉攻めの謎を解く・
がトテモ考え方のヒントとに成り、、、
稲村道を更に一段深く考察する事に成りました。

取り敢えずnagaeさんの返事は次の様なモノです。

"""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""
> 航空写真の方ですが、青い点線の上に稲村道と
> 書かれていて、青い点線が稲村道のように見えます。

青い点線は、従来説の稲村ヶ崎の際を通る道で、実際は道がありません。
赤い点線に丸印をして、この場所が「稲村道」と書いたモノが思惑外の結果になったものです。
ですから、赤い点線が「稲村道」です。

> また黄色の点線はの道は、何のために書かれていて
> 何という道なのでしょうか。

この道も説明しきれて無いですね!
この道は、明治の地図にも載っている道ですが、関東大震災で消失したのを
「稲村崎成干潟事3」の写真で確認してください。
①この青い道が、稲村道でナイ理由は汐の満ち引きで波を被る場で浸食洞が道を断つ。物理的に道は無理です。
③黄色いラインの道は、
針磨橋から南下し、途中で稲村道と分かれ登り道になりますが、
道の一番高い所(乗り越し部)に行くには、街道に不適切な急な登り道になります。
戦後間もない航空写真を立体視すると、砦として定番の登ってきた敵兵を
攻撃しやすい構造になっています。現在の状況は、急な道で階段になっている。
この構造から考えられるのは、鎌倉城の外壁で針磨橋側には道が無かったと考えます。
③黄色いライン海側の岩壁は明治には道が有った。大正の震災で消失した。震災後にこの場所の土砂を埋め立てに使う為、車が通れる立派な道が造られ、現在に至る。
由比ガ浜から目視で一番ハッキリ見える道です。
""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""
◎◎◎コメント◎◎◎
鎌倉攻め (酔石亭主)
2011-01-02 16:05:23
鎌倉攻めの謎解きはぼ輔さんのブログにインスパイアされ書いたものです。
それなしには、私が書くこともなかったでしょう。
実は、お読みいただいておわかりと思いますが、議論が生煮えの部分もかなりあります。
例えば稲村道はどこを通っていたのか?
奈良時代の稲村道と鎌倉時代でルートが異なっていたのでは、とも思います。
そうした視点も入れて追加的に書こうと思ってはいるのですが、道に関しては
ぼ輔さんの右に出る人はいないでしょうから、稲村道に関する新たな考察を
ぜひ拝見したいと思います。

■ 記 2012年09月06日  稲村崎成干潟事 15/strong>

写真は、明治20年代の霊仙崎と解説がある。大正震災で海面より1m陸が持ち上がったとされていますが、それ以前でも写真の様に干潟が出来る場所であった証拠です。鎌倉市発行「鎌倉回顧」より引用。

 稲村崎が干潟で歩けた!嘘でしょ?の巻 最終回
明治時代の歴史学者大森金五郎氏は数回ほど渡渉実験をし、
>「当時は崖下の水に近いところに通路があったのであろう、、
>長い年月を経たので風浪怒涛の為に次第に崩壊せられたの
>であろうか、今は跡形もない。それ故、元弘3年5月に、新田
>義貞が大軍を率いてここを渡渉したと云う事は不可能のこと
>ではなく、何の不思議も無いことである。」

と結論をだした。
 それは、自説を通す為に文献と実際の地形を考慮する事無く、間違の積み重ねをした結論です!
稲村東の水際には、潮の侵食洞窟があり路は途絶える、侵食は数千年の単位で洞窟はつくられる。数百年程度の変化は微小と考えられる。(稲村崎成干潟事11に写真あり。)
よって、
稲村の水際には、街道に相当する道は無かったと否定できる。
稲村ガ崎を海水に浸かりながら渡渉したのではない! 潮が引いた浜を攻め込んだと古書にはある。

稲村ヶ崎の海浜公園の碑に
「今を距る五百八十四年の昔 元弘三年五月二十一日
 新田義貞此の岬を廻りて鎌倉に進入せんとし 金装の刀を海に投じて
 潮を退けんことを海神に祈れりと言うは此の処なり」
 大正六年三月建之   鎌倉町青年会 


内容から、大森金五郎氏の説を受けたものでしょう。

問題は、
文献に記された稲村路(一般人が通る街道)の存在を無視し、自説の渡渉実験をした事に決定的な間違えがある。
梅松論に書かれた「稲村崎の波打ち際、石高く道細くして軍勢の通路難儀の所に、」
の文は、稲村路は軍勢を大量に送り込むに道が細くて困難であると私には読めます。

太平記の巻10の「稲村崎成干潟事」
「二十一日の夜半許に、片瀬・腰越を打廻り、極楽寺坂へ打莅給ふ。明行月に敵の陣を見給へば、北は切通まで山高く路嶮きに、木戸を誘へ垣楯を掻て、数万の兵陣を双べて並居たり。南は稲村崎にて、沙頭路狭きに、浪打涯まで逆木を繁く引懸て、澳四五町が程に大船共を並べて、矢倉をかきて横矢に射させんと構たり。誠も此陣の寄手、叶はで引ぬらんも理也。」


太平記には、南は稲村崎にて沙頭路狭きにと、稲村路の存在を示し波打ち際は狭いと書かれ、その為に大量の兵を短時間に送り込めない!それが戦略的に問題である訳です。

歴史学者は「梅松論・ 海道記・、吾妻鏡」の文章を無視し、自説(根拠が無い)を証明する実験は、功名にはやる学者の古文読解力が無い結論で、研究に値しない話です。
学者の肩書きを無条件に信奉した「鎌倉町青年会」がその説を助長し現代までも信じられ否定した話は無い。

コメント
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