■ 記 2006年12月02日 稲村ガ崎の古道を検証 6
大仏切り通しから、稲村ガ崎までの鎌倉城としての防衛線は、通れる場所が限られており、①~④迄までの番号をふりました。
先ずは、稲村ガ崎の道についての文献を調べましょう。
海道記(1223年頃)
「稲村と云う所あり。険しき岩の重なり臥せる狭まを伝いいけば、岩に当りてさき上る波、花の如くに散りかかる。申の斜めに、湯井の浜におちつきぬ。」
後年の新田義貞鎌倉攻めの太平記では、「南は稲村ガ崎で砂浜路狭く、浪打崖まで逆木でバリケードを作る、ぼ助訳」や梅松論では、「浪打際、石高く道細くして」と述べられている。
稲村路に就いては、海道記、梅松論、太平記に共通な崖の際と波打ち際の細い道の様子が記されている。
よって、波打ち際を通らない④の極楽寺切通しや③の道は稲村路で無い事が確認でき、初期に極楽寺の切通しは無かったと考えられる。
極楽寺切通は、忍性が作ったと言われている事もこれで裏付けられますが、、、
③,④は稲村路より新しい道であるという訳です。
②の道については、古東海道の品格(坂の傾斜、規模の大きさ、直線性)は無く稲村に古代東海道は無かったとぼ助は結論を出します。
①は前回 海に古道は無いと否定した道です。
稲村の話はこれから、、、、です!
■ 記 2006年12月04日 稲村ガ崎の古道を検証 7
問題の岩壁が一段低い処は、、、写真の場所です。
ウ~ン降りれるには降りれるけど、、、一般人が通るには厳しい!
一般的では無い! (兵が強引に降りるには可能な場所です。)
写真を撮っている処で、エ~~ アンナ処に!!!
何を見つけたかは、、、次回の写真を見てください!!
稲村路本命丸2の道は、崖を下り波打ち際に出るのですが、、
この道は霊仙ヶ崎と稲村ガ崎を分ける谷に有る道です。
もう少し掘り下げて考えましょう。
太平記(1374)巻10
「極楽寺坂の状態は、明行く月に敵の陣を見ると、北は切通まで高く路険しい、
木戸や垣楯を造り、数萬の兵陣を並べて居た。南は稲村ガ崎で砂浜路狭く、
浪打崖まで逆木でバリケードを作る、沖四五町に大船を並べて横矢を射る。」ぼ助訳
新田軍が、幕府の陣を月明かりで偵察した状態が書かれているのですが、、、
極楽寺切通しは「切通まで山高く路険しき」と書かれ、古代東海道には値しない根拠です。
「南は稲村ガ崎にて、沙頭路狭きに、浪打崖まで」と稲村路に就いて書かれています。
地図を見ると、どの辺りで偵察を行ったのか、、想像つきませんか?
「稲村ガ崎の古道を検証1」を見て想像してください。
想像が付けば、、、稲村路が、決して岬の先端水際を通る道で無いことが理解できるでしょう。
丸3の道は古書に書かれて無い処を考えると、江戸時代の道かも知れません。
丸2の道は霊仙ヶ崎と稲村ガ崎を分ける谷を通る道です。
この道の北は霊仙ヶ崎で、更に北に霊山と山中に仏法寺があり、更に北は極楽寺切通し!
霊山の場所取り争いは、勝敗を分ける重要な戦いで有ったと考えられえる。
新田軍が霊山を占拠することは、極楽寺切通しを上から襲える事であり、波打ち際から
鎌倉に押し入る時に頭上の崖から襲われる危険が無い事と、稲村路を自由に通行でき
る事です。
新田軍が、大潮に乗じて干潟に大軍を送る前提には、、こんな下準備が必要で有った訳です。
由比ガ浜より見ると、一段岩壁が低く、この場所なら海に降りられるかな?
と言う理由や、明治の地図に示された道と符合するので、調べる気を起こしました。
■ 記 2006年12月07日 稲村ガ崎の古道を検証 8
エ~~ アンナ処に!!! の写真ですが、、、
今回でも一部写っています!
判った人は「偉い!」
次回はもっと判り易い写真です。
さて、、「稲村ガ崎の古道を検証6」の写真をもう一度ジックリ見て頂きたい。
陸地を見るのもよいのですが、、
見て欲しいのは、海底の様子です。
地図と見比べれば、何処を埋め立てたのか、、想像付くでしょう。
埋め立てた堤防の際の海底にギザギザな影が見えます。
「稲村ガ崎の古道を検証5」に書いた、岬先端の海面下は砂地ではなく岩場で、3~5mの幅で凹凸を
繰り返す洗濯板状に成っていて物理的には歩けても迅速に行動はできない。
っと書いた海底の岩場の浅瀬の影です。
波が荒く、潮流の早い稲村ガ崎先端では、砂は流され七里ガ浜に運ばれてしまいます。
しかし、由比ガ浜から霊仙ヶ崎辺りまでは、内海で波の浸食も少ないので岩礁は一段高かく砂の流され方も少ないでしょうから、岩と岩の隙間は砂が堆積し、干潟では歩き易かったのではなかったか?
っと想像できます。
その様な理由で、土木機材の乏しい昭和10年に容易に人力で埋め立てが出来た浅瀬と推測できます。
当然満潮で波が荒ければ「岩に当りてさき上る波、花の如くに散りかかる。」状態です。
新田義貞伝説は、②の道が稲村路と考えれば、決して大それた神がかりの話では無く、
埋め立て地の大半は干潮で干上がると考えれば、当然の話と考えられます。
埋め立てた場所は、深い海を埋め立てたものではなく、干潮では洗濯板状の岩の表面が浮き出る様な浅瀬で有ったと
する根拠は、前記の空撮写真の海底の様子から導きだされます。
■ 記 2006年12月10日 稲村ガ崎の古道を検証 9
『梅松論』より、
5月18日 新田軍の大館宗氏軍が由比ガ浜の鳥居迄侵入。大館宗氏は幕府軍に反撃され稲瀬川で討ち取られた。
大館宗氏軍残党は霊山に立て篭もる。
19、20、21日は霊山を舞台に攻防戦となった。
21日は霊山寺(仏法寺)を占拠していた鎌倉方を新田軍の三木俊連が襲撃し、更に霊山の峰を攻め登り、極楽寺切通しを攻め下る位置に就いた。
この時点で、霊山を手中に入れた新田軍は、稲村路の通行が自由になり、崖下の通行に障害が無く、
「浪打際、石高く道細くして」と書かれた波打ち際は干潮で渡渉出来る状態となり、22日に由比ガ浜に攻め込んだと考えるのです。
稲村ガ崎先端を大軍が通った訳ではなく、②の稲村路を大軍が通ったと解釈すれば不自然な事は無い。
誰が考えても、海中を水面下の岩を探りながら牛歩の様に歩く稲村ガ崎先端より、霊山を抑えて自由になったなった稲村路を使うのが合理的です。
これが文献の考証と、現状を照らし合わせた結果なのですが、、、
誰が言うでもなく、稲村ヶ崎の先端から潮が引いた海を鎌倉に攻め入ったとする新田義貞伝説ですが、
②の稲村路が極楽寺切通し造成後使われず伝承も無くなった時代に、漠然とした考えで作られた説なのでしょうね!
古代東海道は横須賀の走水から千葉へ渡った何て言うのも、、、大和武尊が通った程度の知識で、根拠なんて考えずに漠然とした考えで作られた話!
誰が言い出したのか知りませんが、、、アカデミックな話からすれば論外!!
さて、写真を見て道を探せたでしょうか?
稲村路より「険しき岩の重なり臥せる狭まを伝いいけば、岩に当りてさき上る波、花の如くに散りかかる」と書かれた波打ち際に崖を降りる道跡が有ったのです!
写真の崖を一直線にヨギル道をお判りでしょうか?
同じ写真にマークを付けて次回は載せます。
■ 記 2006年12月14日 稲村ガ崎の古道を検証 10
稲村ガ崎伝説の謎の巻 終り
写真の薄紫のマークをした場所が道路痕跡で②~③の場所に相当します。
地図の番号①の場所は、
太平記に記された、、「極楽寺坂の状態は、明行く月に敵の陣を見ると、北は切通まで
高く路険しい、木戸や垣楯を造り、数萬の兵陣を並べて居た。南は稲村ガ崎で砂浜路狭
く、」
と新田軍が偵察した場所にフサワシイ処と私は想定しています。
番号②の場所は、写真に写っている崖の一番上と思われる処。
番号③の場所は、写真の右の端です。
番号③~④の場所は、「浪打際、石高く道細くして」と言う波打ち際です。
この②~③の場所は、
現地に立ち入る事が無理で、遠くから観察すると崩壊があり、人が歩ける状態では
なく痕跡だけとなっている。
明治15年の地図にも載らないだけの事はあり、、、
鎌倉以降使われなかったと考えられるし、関東大震災でも崩壊が有ったと思います。
さて、、問題は、、、①~②の場所を、私が歩いてい無いのです。
今、何方かが歩いてレポートを出すと、、、第一発見者です。
道が見つからない!なんて言うリスクもあります。
金に成らない名誉ですが、如何ですか?
何方か行かれたら報告してください。
きっと、伐採鎌でも持っていかないと通れない状態かも?っと想像しています。
写真を写した場所は、一部鎌倉市営プールが写っていますが霊仙ヶ崎埋め立ての記念碑
が在るルート134の脇です。使われる機会の少ない市有地ゲートの脇で短時間の駐車で
観察するには問題無い場所です。
稲村ガ崎の古道を検証 は以上です。
これはすごい (@塾長)
2007-02-19 23:09:51
全く、予想だにしていませんでした。
桟道は海岸の岩場かと思っていました。
下に積もった土砂を見る限り、相当崩れていますね。
噂では、関東大震災で崩れたと聞いています。
Re:これはすごい (ぼ助)
2007-02-20 09:53:18
関東大震災でこの辺りが大きく崩れた様ですが、
それでも痕跡が残る処が岩場の道と言うことですね!
私としても予想外の物を見ました。
人が通れる幅は有りません。
登山技術があっても、崩れやすい砂岩です。
鷹取山の砂岩の岩場で何人も事故を起こし岩登り禁止になったのと同じ岩の質です。
無茶はしないで下さい。
了解 (@塾長)
2007-02-20 22:25:36
私の体重と運動神経では、どうにもならない。
■ 記 2014-11-15 「海沿いに古東海道」が在った?? ダメ押し編
この写真は、文献に残る稲村路と考えれれる道路痕跡です。
上の写真は、2007年頃で下は2014年です。
2007年には簡単に道路遺構まで行けたのですが、、2014年は下草が腹まで生い茂り蔓が横に這った状態で道路遺構に近付けない!行けても遺構が草の中状態で写真も撮れない状態と思います。
冬枯れ後に消える物か??
温暖化の影響に依る植生の変化を感じるのですが、、、
関東大震災以後露出していた岩肌が数年で草木に隠され始めた。
■ 記 2007-11-05
古代東海道は、路面9m付属施設(側溝,土手等)を加えれば10~15mの幅を持つ遺構です。
1994年04月 静岡の曲金北遺跡発掘。2004年平塚東中原遺構が発掘され、特徴は 巨大な規模の遺構(50年前の東京オリンピック前では、国道1号より広かった)です。
文献から、、
日本書紀(613)に「難波より京にへ大道造る」の記事がある。
大化の改新(645)で駅制が制定され
養老二年(718)の養老律令「諸道に駅置くべくは、三十里ごとに一駅を置く」三十里は約16㎞に相当する。
諸道とは、駅路を指し東海道は中路規格(道幅約9m)です。(
問題はそれ以前の時代に作られた可能性は???
その例として、、、
中央集権国家が出来上がる途上時代に「日本武尊」の話がある。
当時の道路状況は地方の豪族の間をジグザクに尋ね歩く「東征路」のお話となり「日本武尊」の時代に古代東海道は無かったという根拠には使えます。
奈良時代には広かった道幅は、平安時代に狭く改造された痕跡が道路遺構にある。以降の時代に巨大道路を造った形跡は戦前まで無いく、戦後名古屋日本本土空襲によって被災した日本各都市の復興計画で100m道路が作られたが、緑地帯と防火帯を兼ねたものでした。
この事から巨大道路を造った時代を奈良時代と特定できるのです。
これが、ぼ輔の考えです。
このブログは、単なる知識の披露ではなく、大人の遊ぶ話です。
初めから、
常識や権威のウサンクササは無視して、、、、
モノの見方や考え方、想像力の自由さがテーマです。
話が思わず脇道に、、 話を本筋に戻して、
鎌倉七口は、江戸時代に作られた言葉で、その他にも道の痕跡は色々在り、稲村路や峰の兵員移動の道を 古代東海道の痕跡と誤解して公的な講座で語られたのかもしれません。
鎌倉の山は、鎌倉幕府の手で戦闘用に徹底的した改造をされ、古代東海道ですら、このブログに取り上げた状態で改造された。
古代からの山道は鎌倉幕府の山地域要塞化で痕跡も残らないと考えています。
そんな訳で、
鎌倉幕府滅亡後の峰通しの道で、七口番外の道を古代東海道に仕立てた!
っと ぼ輔は想像するのです。
『神奈川の古代道』が著述されたのは、「1997/平成9」
この本の書かれる前に、、、、
既に、古代東海道の遺構が発見され 静岡の曲金北遺跡発掘は1994年04月。
古い文献にもその規模が書かれていたのですが、、
『神奈川の古代道』には文献とそれを証明する遺構の規模に基付く道路の記述は抜けており、著作者の自説が記されている。
その後、、、、、
平塚東中原遺構は2004年に発掘されています。
その道路の直線の先には、16km先(養老律令「諸道に駅置くべくは、三十里ごとに一駅を置く」)に鎌倉が在るのです。
山間部を越える時には、必ず切通す遺構が残るはず。
この遺構は大きい為に、簡単には消え去ることは無い。
簡単には消え無い遺構は隠された訳です。隠した痕跡を探し出そう!!
それが、本来の目的です。
「大和武尊説」を根拠に古代東海道を語るなら、、、、
曖昧な話で、根拠や遺構も示されて居ませんから、反論不可の現状です。
道路遺構を示した上で古代東海道が語られるべきと考えます。
現状の道路遺構も不明な「大和武尊説」を見直す時期と思っていますが、、、
この様に ぼ輔は認識しています。
■記2006/11/02 稲村ガ崎の古道を検証1
明治の地図から話が始まります。
この稲村ガ崎の地図から、古道のルートを探す訳です。
> 古東海道 (杉きち)2006-10-13
> 毘さん、初めまして
> 古東海道は西は「稲村ヶ崎」から鎌倉に入ったと考えられております。
> 鎌倉時代になり「稲村ヶ崎」が天災等で通行不便になりして。
> 当然、西への通路(船の利用も含めて)が必要で有ったと考えられます。
鎌倉市の公式見解(生涯教育講座等)は、稲村ヶ崎=古東海道説を採っているようです。
その根拠は?っと調べても、、、、、特に書かれていないのが普通です。
要は、根拠もなくその様に言われている訳です。
仕方なく、ぼ助がその根拠を作ってみましょう。
文献的には、、、
「大和武尊の東夷征伐」
「海道記」
「梅松論」
「唐糸草子」
「義経の腰越状」
この様なモノが有り、それを根拠に古代東海道説が作られた、、、
などと推測するのですが、
現地の状況を調べたり、掘り出したと研究書もない事から、学術的には文献の根拠だけでしょう?と勝手にぼ助は考えます。
その古文献の根拠も、解釈を歪曲したり、文章を理解して無い、古文を信用してないとか、、、そんな研究態度なら文献の根拠も無い。
これらの文献も検証する必要が有りそうですね!
茶色で示した場所が極楽寺切通しです。
それ以外に道と考えられるのは、、、
七里ガ浜から来ると、道は、二手に分かれます。(赤くマークした場所)
ひとつは、波打ち際の岩場に、、、
もうひとつは、坂下と呼ばれる場所へ、岩壁伝いに降ります。
その他には、稲村ガ崎先端を波打ち際を岩伝いに行く可能性も在ります。
新田義貞伝説ですね!
これを、検証する訳です。
地図を見て、貴方はどの様に推測するでしょうか?
古代東海道はこの際脇に置いて、新田義貞伝説の従来説をひっくり返す話です。
■記2006/11/05 稲村ガ崎の古道を検証2
写真は、江ノ島方面より稲村ガ崎を見たモノ.
> 「毘」さんのコメント(2006-10)
> 前略、、、、、
> いわゆる七口(他にもあると思いますが)は、大仏や名越のような系統と、
> 化粧坂・朝比奈の系統、大きく二つに分かれると考えてよいのでしょうか。
二系統に分けて考えると、、、
一つは、鎌倉幕府以前の平安、奈良時代。
もう一つは、鎌倉幕府成立後の鎌倉城の城門としての切通しです。
平安、奈良時代は、統一国家で敵は海外の時代。
国内の敵は、東北の弱小部族です。守る必要も無く、紛争地に大量の兵を送り込めば戦いもなく逃げ出す。
道を広く作り、途中の側面からの奇襲を警戒をする必要も無い絶対優位の武力が有ったと考えています。
平安時代に朝廷内部で政治抗争が始まった。
朝廷内は、源氏と平家を引き込み武力闘争に変わったのです。
政治力で国を治めた時代は終わり、武力で国を治める時代になったのです。
「治承・寿永の乱」で、源氏は都を攻めた事で、平城京の防御の無さを実感したと考えられます。
絶対に弱い地方の蛮族とは違い、、自分たちと同等の力の敵が朝廷内に居り、
敵は自分の身内かもしれない!
その様な状況で、自分の命と政治力と都を守る為に城を作る事になった。
京の無防備な都とは違い、外部より攻められても守れる都として鎌倉を選んだ。そう考えるのです。
■記2006/11/10 稲村ガ崎の古道を検証3
京とは違い、守りに適した都を!
三方を山に囲まれ、もう一方は海と言う要塞に適した土地が鎌倉であった。
しかし、この土地には、奈良、平安時代に造られた古代東海道が有り、東山道までが入り込んでいた!
この道は、単なる道ではなく、大和朝廷に物資を運ぶ巨大な道で有った。
鎌倉城と言う要塞に決定的な障害となる無防備な古代道で有った訳です.
その様な経緯で、道に対する考えを根底から変える必要が有ったと私は考える。
その転換点が、鎌倉幕府成立時点です。
現在、鎌倉で古代道が有るとすれば、それは鎌倉幕府が古代道を消滅させた痕跡と考えています。
古代東海道とは、奈良時代に朝廷の力で造られた駅路を指します。
大和武尊が通った道とは全くの別物で、平塚で検出した幅9mの道路遺構の延長を指します。
その道は消滅させても、、、巨大な道だけに痕跡は残る!!
残るとすれば、、、どの様な痕跡で残るか???
それをこのブログが問題にしている訳です。
図は現在の稲村ヶ崎ですが、明治の地図とは海岸線が雲泥の差です。
何が起きたか? 天変地異が有ったのでしょうか?
明治の地図は、地図屋さんが全国的な地図を創作した時期です。
基本的には山歩きのプロで、、海から詳しく調べる余裕が無かったのでしょう。
■記2006/11/14 稲村ガ崎の古道を検証4
稲村ガ崎先端の水際を通る道を検証しましょう。
稲村ガ崎の古道を検証3の図を見て鎌倉時代との違いを想像して欲しいのです。
鎌倉時代と現在の海水面の差は、どの程度の違いがあるのでしょうか?
その考察から始めたいと思います。
結論から言えば、大きな違いは無いと考えます。
源頼朝の死因は、相模川に架けた橋の披露に参列した頼朝が帰途に鶴嶺八幡宮近くで落馬し、翌年に命を落としたという話をご存知でしょうか?
この橋には、後日談があります。
大正12年(1923)関東大震災で水田地帯に突如、9本の大木が飛び出した。調べると大木は、建久九年の鎌倉時代に相模川に架けた橋脚であると判明した。
現在でも、史跡として河口から1km程茅ヶ崎よりに保存されています。
私の知識では関東大震災で、江ノ島は水面が1m下がった!
と言うことは、江ノ島が海面から1m浮き上がったと言うことです。
同様に、茅ヶ崎の河口でも1m浮き上がり、鎌倉時代の橋脚が浮き上がった訳です。
同様な事は、稲村ガ崎の水際でも起きた。
800年前の水際より1m浮き上がったのが、現在の水際と考えます。
それだけではなく、岩場の波による侵食具合からも、考察できますが、、、、
以後は、稲村ヶ崎の水面は現在より1m高い場所と言う前提で話をします。
■記2006/11/18 稲村ガ崎の古道を検証5
稲村ガ崎の古道を検証3の明治の地図、この地図の水際の処理は見るに耐えない雑なものですね!
何と言おうと、、、陸軍が短期間に作った地図ですから海辺は雑だったのでしょう。
稲村ガ崎の古道を検証4と今回の写真を比べてください。
正確に地図が描かれているでしょ?
地図の岩場の赤い処は、平場が有り、歩き易い処です。
海岸線の黒いラインは岩場、茶色いラインは砂地です。
結論として、
岬の先端は、海岸線は見ての通りで一般人が気楽に通れる状態ではない。
通行するには天候に左右され波が荒い時は通行不可です。
地元の人が食料の糧を得るため海に下りる道としては可能であろうが、、、
その様な理由で街道としては不向き。
よって、
古代東海道が通る可能性は無く、鎌倉街道としても不合格!
新田義貞が、大潮を利用して大軍が岬先端から、鎌倉に攻め込むのも無理が有ると思います。
私としては、稲村の大潮を何度となく経験しています。物理的に渡渉出来る事は知っていますが、、、
岬先端の海面下は、砂地ではなく岩場で、3~5mの幅で凹凸を繰り返す洗濯板状に成っていて物理的には歩けても迅速に行動できる状態ではない。
同じ状況に、三浦の荒崎海岸があり、水が無くても洗濯板状の岩場の歩きにくさを実感して欲しい。戦争の作戦には無理。
迅速に行動できないと言うことは、幕府軍が渡り初めを察知したら、由比ガ浜で十分迎撃態勢整えられ、作戦は成功しない。
もし、干潟の岩場を数百人規模で通ったと考えれば、迅速に行動できます。
では、、
鎌倉街道として利用された稲村ガ崎の道は?
明治の地図に赤いマークをされた道が、鎌倉街道の道と考えるのですが、二又に分かれていますね、、、