鎌倉の歴史には古代からの経過が在りますが、
東山道の分岐が在る。新田郡衙の東山道(下新田ルート)は、武蔵路が分岐し鎌倉へ向けて痕跡が在る。
その延長は、海蔵寺裏の大掘割(切通し)と続き、武蔵大路とも呼ばれ、今小路に名前を変えて鎌倉郡衙の在った御成小学校へと続く。
今小路自体は歴史の片鱗も感じない道ですが、、、
道の脇には、トンデモ無い遺構が在ります。
駅を出て、四つ角を右に曲がると今小路です。
昔の9m幅の駅路は、無駄に大きい為に平安時代は、6mや3m幅の道路に作り替えられた。
そんな道を散策する訳です。
しかし、この様な歴史を感じない道の脇を覗きながら歩いてみましょう。
その①は古我邸です。
①の古我邸の詳細は、武家屋敷跡としてこのブログにも書きました。参照してください。
基本は、三方を山で囲み、一方は海や土手で遮る。
その一方の海から攻め寄せるのが元寇の蒙古軍です。
そんな訳で、
外部から侵入を防ぐと考えられた切岸と呼ばれる城壁が鎌倉市街に向けて在るのですが、この矛盾した城壁の観察をするコースです。