鎌倉時代の戦は 騎馬が攻撃の主力と考えられます。
台村の曲輪の、馬の出入りは、自由でないと戦力を発揮できない!
「台峰の砦 6」の明治迅速地図には、8ヵ所ほどの道が在りますが、
オリジナルは、大手道の水堰橋側、北鎌倉女学園側、の大手道が2ヵ所と、
戦闘時に騎馬の出入りに使った北鎌倉駅から光照寺脇の坂を上る切通と その延長の江の島へ向かう坂を使う事が考えられる。
大手道は、封鎖されたと考えられ、残る坂の2ヵ所を使い騎馬の出入りをしたと考えられる。
新田義貞が洲崎の戦いに勝ち、山崎に入った目的は、この台村曲輪を陥落し、北鎌倉女学園の校舎とグランドの間に在る封鎖を突破し化粧坂を攻めるのが目的です。 梅松論では、山内(台村曲輪下)で鬨の声が挙がったと書かれている。
化粧坂の直近を攻撃すれば、南は梶原から入り葛原ヶ岡の攻撃となり、梅松論に記されています。
更に、山崎は倉久保谷戸の有る場所で、台峰の大手道を側面から攻撃でき、北鎌倉女子学園グラウンドを攻められる場所です。
葛原岡北の瓜ヶ谷からの攻防は文献が無く北鎌倉の小袋谷川とその防塁を越えられなかった事が考えられます。
水堰橋ですが、、 何で水堰橋か?
正しい名前は「せいしく橋」(せゐ志くばし)と言われています。
水堰橋=せいしく橋=せゐ志くばし
どの様に考えても、水堰をせいしくとは読めません。
さて、水堰橋の問題点は、下を流れる、小袋谷川の谷の深さが異常です。
水源から1㎞の水量の少ない小川にしては、谷が深すぎます!
この水量ではこの様な深い谷にはなりません。
小袋谷川の谷の深さは、人工的につくられた っと考えるのです。
根拠は、両岸は同じ幅で垂直に切り立っている!
何の為に人工的に作られたのか?
残念ながら、小袋谷川の川岸は、コンクリートや石垣で補強され、オリジナルの状態が確認できませんが、、、
堀として工作されたのでは? っと考えています。
それこそ後世の城の堀の原型ですね!
これらが邪魔して新田軍は瓜ヶ谷に入れなかった! っと考えれば、この堀切は効果が在ったと言えます。
堀に水が無ければ空堀! 水が在れば、更に強力な防護に成ります。
其の水を入れる時に堰堤で水を堰き止める場所!
それが「水堰橋」と私は考えます。
下は水堰橋と光照寺下橋の中間地点
上は光照寺下の小袋谷川です。
台村の曲輪下に防塁が在る事から見直した砦遺構です。
トテモ強固な防衛ラインに成りますね!
水堰橋に 堰(せき)が在り水をセキ止めたら、、、それは堀になる。
台村曲輪を守る堀と 防塁があり、更に上はキッチリと切岸です。
文面から想像できると思いますが、この一か月でマトメタ考えです。
大半が住宅に隠れて居ますが、地形的には変化は少ないと思えます。
観光気分では、楽しめない遺構でが、見方を知ればエラク面白くなる!
これは、山崎の切通の昔の様子です。
このS字の曲って怪しげですね!
私は50年前にバイクで通過しましたが、、トンネルかと思いました。