鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

台峰の砦 7

2020年10月06日 | 大鎌倉城
緑のラインは鎌倉の大手道で、中道として鶴ヶ峰に向かう鎌倉街道です。
水堰橋(せいしくばし)から切岸を登って曲輪に出ます。
この曲輪は、明治の地図では台村と書かれています。
この周囲の地名「台」の基に成った場所と思われます。
この平地の特徴は敵寄せ付けない切岸で囲われ、攻撃に対応するのは、水堰橋から登る道だけの様です。
それ程に、この場所は戦いを避ける構造に成っており、違和感を感じます。
水堰橋(せいしくばし)の伝承ですが、
鎌倉城に出入りする際、この場所で隊列を整えた!
と言う話です。
この話が緑のラインの道が大手道であろうと考える根拠です。
更に、何故この場所で出入りの際 隊列を整えたのか?
その必然性に迫る伝承は無い。
 
結論から言えば、明治の初期には平地で在った地形は、鎌倉時代からの平地と考えられる。
更に、北鎌倉女子学園の校舎とグラウンドの間は、新田義貞との攻防で大手道は土砂で封鎖された筈で、
馬の出入りは出来ません。
その時に 騎馬は、封鎖の外に置かれた筈で、長窪の砦も同様な考えで作られていたわけです。
騎馬は、外部に出やすい場所だが、外部から攻撃できない場所に確保するのが前提です。
いざ鎌倉の時は、関東周辺の騎馬が集まり 数万の騎馬を確保する場所としてこの曲輪が馬繋場であったと考える訳です。
近代的な城として足軽が鉄砲を使い、馬が主力で無い城には、不要な曲輪です。
この時代は、騎馬が主力で数万の騎馬を 鎌倉の狭い市街には確保できる場所は無い。
鎌倉の市街に騎馬を置いたら、攻撃には使えなくなる。
鎌倉城の封鎖外には、その様な騎馬を確保する馬繋場が多数あったと考えて居ます。
 
元寇時には日本中の騎馬武者が集まる事が前提の鎌倉城です。
集まる騎馬数は、
太平記の鎌倉攻めでは、新田軍60万騎+鎌倉幕府軍15万騎 これは誇張が過ぎます。
話半分で30万騎+8万騎
実質は、更にその半分で、15万騎+4万騎程度で戦ったのではないかと臆測します、、、
それでも、日本の武士の合計は19万騎です。
後年の関ケ原の戦いでは
西軍は80,000以上   東軍は74,000 - 104,000 っと考えられており、この数字程度の規模と思います。
蒙古襲来で鎌倉に攻め込まれたら、、全国の騎馬武者19万騎の馬繋場が必要です。
この広い台村の曲輪は、騎馬の戦いで使われた馬繋場の一部で有ったと考え、
馬を係留する前に、小川で水を飲ませたり、馬を降りて鎌倉市内に入る準備をしたり、、、
逆に、出陣の時に馬に乗るまでの支度をして、水堰橋に降りて隊列を作る。
これが水堰橋伝説の私の回答です。
 
馬繋場の特徴は、
鎌倉を封鎖した外側で、広い曲輪だが、攻撃を避けられる場所。
尚且つ自由に出入りできる場所!
そんな矛盾に答える場所です。
 
 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする