!!写真を追加!!
大手道を水堰橋の土塁で塞がれた騎馬の出入り口の話です。
大手道封鎖(北鎌倉女学園とグランドの間)場所の下ですが、台村曲輪との間を横切る道が在った!
その道の詳細は、
北鎌倉光照寺と言うのが有ります。(北鎌倉光照寺HPより)
〉「光照寺の門前の通りは、往古の鎌倉街道であり、、
〉高度経済成長期に道路の拡幅工事が行われるまで??
〉光照寺のそばには小さな名も無き切通しがあった
〉そうです。鎌 倉時代、布教の為に鎌倉に入ろうと
〉した一遍上人の一行は鎌倉につながる関所を守る
〉武士達に拒絶され、やむなく、江ノ島に通じる街
〉道筋に一夜の野宿をし、翌 日江ノ島に至り、そこ
〉で踊念仏を修したと伝えられています。その際に
〉野宿した跡地に建てられたのがこの光照寺であり、
〉一遍上人法難霊場となっております。」
下図のオレンジ色ラインが江の島街道で卍印は光照寺。
現在の光照寺の門前の通りは、
毎日 北鎌倉女子学園の生徒が昇り降りする坂で、広い道です。
この道の特徴は、
北鎌倉光照寺の前の道は、江の島へ向かう道。
昔は小さな切通が在った。
【1960年代には、この切通の道幅は広げられているので、
「〉高度経済成長期に道路の拡幅工事が行われるまで」と
言うのは、間違い情報です。
考えられるのは、北鎌倉女子学園が造られた時(1940)、
工事車両絡みで道は広がったと考えれれる。】
「昔は小さな切通が在った。」と言う現在の状態。
敵に水堰橋から攻撃を受けたならば、裏の「光照寺前の道」から騎馬は出入できる。
「光照寺前の道」を攻撃されたら、、、
南側の江の島へ行く坂から出入りした。
この道を進むと山崎の切通に出て、天神山の脇に抜ける。
「山崎の切通オリジナル」と言いたいのだが、北大路魯山人が皇族が来るので、車が通れるように整備した切通と言う話です。
<https://blog.goo.ne.jp/mementosmori/e/9ce759617e14405d04af44edfdb0edeb>
水堰橋攻める敵を天神山の脇に抜けた騎馬で背後から襲える訳です。
山崎の切通とは、北大路魯山人が臥龍狭と名付けた場所です。
そして、長窪の切通と同じ道幅と同じに垂直に切り立った壁で作られた共通点が在る。
と言う事は、長窪、山崎、光照寺 の3切通は、同じ目的=騎馬の出入り口と言う連想できます。
この東照寺前の切通と、山崎の切通に共通な事は、
通常切通は直線的に作りますが、、二つの切通はS字に曲がっている。
曲がると見通せず攻め難い事と、思い切って攻め込めず躊躇する敵を正面や上から攻撃し易い。
大仏の切通は同じ構想で直角に切通が曲がっている。
坂だから曲がっていると言う理屈だと、山崎の切通の説明が出来ない。騎馬の出入りで、土塁で塞がない代わりに、この様な造りをしたと考えて居ます。
見る影も無く破壊された山崎の切通ですが、今の長窪の切通と同様な幅の切り立った切通でした。当然東照寺前の切通も同じだと考えて居ます。
次の問題は、、水堰橋ですが、、 何で水堰橋なんでしょうか?
正しい名前は「せいしく橋」(せゐ志くばし)と言われています。
その謎は???