鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

台峰の砦 8

2020年10月10日 | 大鎌倉城

前回の峰の砦 7に書いたことは、

〉水堰橋(せいしくばし)から切岸を登って曲輪に出ます。
〉この曲輪は、明治の地図では台村と書かれています。
〉この周囲の地名「台」の基に成った場所と思われます。
〉この平地の特徴は敵寄せ付けない切岸で囲われ、攻撃に対応するのは、
〉水堰橋から登る道だけの様です。
〉それ程に、この場所は戦いを避ける構造に成っており、違和感を感じます。
 
 っと言う事が、、全くの間違いで在りました。
それは、大きな切岸の下に「防塁」を設けて在ったのです。
残念ながら、総ては宅地となっており、その確認は困難ですが、
国土地理院の傾斜量図を見ると、建築物に誤魔化されない防塁が検出できます。
黒いラインは、傾斜の強く高い切岸です。
切岸の外側に何段もの薄いラインが有ります。
恐らく3m前後の防塁と考えられる場所の平場に住宅地が建てられた!
大手の造成会社の手が入らない時代ですから、こんなに整然と段が付くのは、個人の資力ではない。歴史の有る段と考えます。
赤ラインで示すと、、、
この様なラインが引けます。
それに住宅を表示すると、、、、
この様な状態になり、、、数メートルの防塁等、、住宅に隠れてしまう!
ワザと攻めやすい防塁を作らないと、、攻めてくれないし、、
基本が専守防衛の戦国時代の城とは違い、、鎌倉城は、攻撃の基地的な考え方で作られている様に感じますが、、、
この台村の馬繋場で終わらず、周囲には幾つもの馬繋ぎ場が考えられ、、、
攻撃されれば、他の馬繋ぎ場から攻撃の背後を騎馬隊が襲う事が出来る連携が考えられる。
 
 
 
 
 
コメント
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