緑のラインは 水堰橋より台峰を通り、葛原ヶ岡から化粧坂に向かう鎌倉城の大手道です。
この大手道はどの様に守られて居たのか?
「新田軍は化粧坂に4 戦う砦跡」に この台峰の曲輪を示してあります。(国土地理院の地図を再掲載)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/75/b5f3de1741a42efd96a3e4e7abe57db4.jpg)
黄色で示したのが、平場(曲輪)の有る場所です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/16/eab7430711d58238a15a299413e4ed91.jpg)
総ての曲輪は、峰通しの兵員輸送の道で繋がっている訳です。
これが、鎌倉の山は自然の要害の地ではなく、人工的に切岸を作り、曲輪を作り、有機的に峰の道を使って兵員を補強できる機構が出来て居た訳です。
基本は、垂直に近い切岸ですが、切岸の間にこの場所を攻めて下さいと言う曲輪が在ります。
更に谷の奥にはやはり曲輪が在ります。
在る時は 枡形の虎口の様な曲輪であり、雛壇の様に切岸を攻めるより数段攻め込みやすい構造で在ったり!
攻め手を誘惑して入り込ませる構造です。
どの様な関連性を持って曲輪が造られているのか?
それらの曲輪は、峰の道を通って、総ての曲輪は意図的に繋がっています。
敵が一か所を集中的に攻めれば、峰の道を使い、援軍を補強出来る訳です。
明治時代に、塞がった七口を回避して、峰の兵員配置の道を生活道路に使い鎌倉外に出入りした訳で、
この峰の道を「鎌倉街道だ!」等と書かれた記述も在ります。
総て間違った記述は、鎌倉の山の全体像を把握できなかった事から生じた間違えと考えます。
この記述でも、更に詳細が発覚すれば訂正する箇所が出て来るでしょうが、、、、(-_-;)