先ずは、明治15年作図の迅速図です。
トテモ 農地が多いのが目立ち、寂れた観光地の雰囲気です。
更に鎌倉に入り込むには道路が貧弱で、街並みの様子から出入りには極楽寺坂経由が定番で在った様です。
下図は大正10年の地図で、地図の作図は丁重で土塁も記録されています。
3,40年で、観光地として街並みが出来上がったのを感じます。
坂の下の土塁の状況を写した画像が有ります。成就院の高みから写した写真です。
山の上からの写真なので真っ白い砂浜に対して、土塁は黒いラインとして写っています。
土塁と家屋の間は広い空き地とななり、人が点のように写っています。
よって、家屋を保護する土塁では無いと考えられます。
稲瀬川の先には 家屋が少ないのに土塁が在る。
住居民には、、意味の無い土塁と言う事から存在理由は「元寇妨塁」と考える訳です。
大正10年の地図の家屋と土塁の間は 写真からも確認できる訳です。
これが震災前の状況です。