花、着物、時々ハンドメイド

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2014年3月にお引っ越ししてきました

祖父の牛~ダブダブ姐さんの聞き書き

2021-01-13 18:42:59 | ダブダブ姐さんの聞き書き

久しぶりにダブダブ姐さんからの便り。

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新年おめでとうございます

この年がいい年になりますよう

 

今年は丑年。

牛で思いだしました。

祖父は牛を一頭飼っていました。

離れたところに小屋がありました。

ササをやるとむしゃむしゃと食べていました。

父によると

牛を世話したり躾けるのは子どもの役で

子牛が少し大きくなると鼻輪をつけてひもをつけて歩かせ、

右や左に回るのを

鼻輪一つで従うようにさせたと。

鍬を曳かせて畑を耕したが、貸すこともあった。

礼は芋の葉を一抱えとかエサになるものだった。

牛を飼っていると耕せるし、糞で畑も肥えるしと、

その家は豊かになった。

地区ごとに牛を遊ばせる(放牧?)ところがあった。

そこでは暇つぶしに、アヒルを仕込んで遠くへ飛ばせて遊んだ。

島には牛の市もあったそうです。

豊かな生活に思えます。

2021年元旦

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躾けるのが子どもの役割だったというのがすごいですね。

昔の子どもは小さいうちから家の仕事を支えていたんですね。

 


Kさんの経歴

2011-04-30 19:28:12 | ダブダブ姐さんの聞き書き
ダブダブ姐さんからの便りが届きました。

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三月はじめにお便りしたあと「東日本大震災」がおこりました。
胸が痛くなるような状況です。

そのとき和歌山沿岸にも大津波警報が発令されました。
串本でも養殖のいけすに被害が出ました。

串本町は、病院を高台に移転する計画を持っていますが、
町の中心は低地なので心配です。

警報が出たとき、我が家にはヘルパーさんが来ていて、
その方は海岸近くに住んでおられて、
母が早く帰るよう言っても、大丈夫といって
仕事を済ませて帰られたそうです。

みなさまいかがお過ごしですか?

Kさんの経歴

女学校に入れてもらったが、勉強について行けなくてやめた。

自分では工場に働きに行くといっていたが、
お姉さんの友達が「看護婦になれ、看護婦になれ」といった。

その人のきょうだいに女医さんがいて、
そこの病院(和歌山にあった)に見習いに行って、
看護婦になった。

看護婦になって、和泉砂川の保健所に勤めた。
尾崎の家から遠かったので住み込んだ。

そこに疎開してきている先生がいた。
婦人科の先生だった。
その先生について、帝王切開などの手術介助をした。

その先生が今度はまた「産婆になれ、産婆になれ、僕のところにこい」といわれた。

それで大阪市東区(行政区再編成で現在は大阪市中央区)にあるカシハラ病院に行った。
先生は隠居されて、息子さんがされていた。
カシハラ長光と書いてたけひろと読んだ。

そこで働きながら、学校へ通った。

緒方洪庵先生の学校で、その頃の校長は祐正(すけまさ)といったが、
学生たちは、ユウショウと呼んでいた。

緒方の学校には看護婦になるのと、産婆になるコースがあった。
また、院内生と院外生があって、
私は、カシハラ病院で働きながら、緒方に通う、院外生だった。
(2011年4月28日)

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追記

昭和8年の緒方病院院長・緒方助産婦学会会長・大阪府産婆会会長の名前として
「緒方祐將」さんというのが文献にありました。

「ユウショウ」さん、この人のことでしょうか?
代々よく似たお名前かもしれませんが。


文献
年報社会科学基礎論研究>第4号
出産の正常と異常をめぐるポリティックスと胎児の生命観(大出春江)


追記その2

緒方洪庵さんについてググってみました。
お子さんはたくさんおられたようですが、
医学に進んだ方はおられなかったのかな?

緒方洪庵ー緒方拙斎 (養子)明治20年緒方病院,22年大阪慈恵病院を設立した(明治44年没)ー緒方正清(養子)緒方病院の産婦人科長となり,35年大阪今橋に緒方婦人科病院を設立した。(大正8年没)


緒方病院は今「くりにっくおがた」という名で産婦人科病院として開業しているようです。
緒方洪庵さんの記念館もあるとか。


Kが薬を手に入れた話(2)

2011-03-08 19:41:13 | ダブダブ姐さんの聞き書き
ダブダブ姐さんからお便りが届きました。

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地元では今、梅林祭りがされていて、今日行ってきました。

今年は寒さが長く残るようですので、あたたかくしていてくださいね。

R子さんから、前のはがきへの返事を頂いたので転載します。

(R子さんはNさんの妹)

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私もおぼえています。薬を頼んだ話は。

串本ではもう、薬も、注射もないということでした。

空爆があって、
病室にも機銃掃射のバラバラという音が
しばらくは聞こえるのです。
先生も防空壕に走っていきました。

私らは、母の布団にもぐりこみました。
母が「防空壕に行かな危ないで」と言うから、
撃たれて死ぬか、病気で死ぬか
どっちかで死ぬんやなと思ったものです。
あたらへん、あたらへんと口では言いました。

母がうちに帰りたいというので、
手当の方法もないから、
家の舟に乗せてギッチラ、ギッチラと大人が漕ぎました。

幾日かは生きました。
生きているのに手が冷たくて、
おじいさんが息を引き取っても
体は温かだったのを思い出しました。

兄にも知らせて、一時、軍から帰ったときは、
とても元気が出て、隊に帰ってしまうとまた元に戻ってしまい、
親心やなあと思いました。

家の者が何人もまわりに集まっていました。
慶応生まれのおばあさんがいました。
母のSには、言いたい放題の人でした。

その祖母が、母が亡くなったとき、
声を上げて泣いたのです。

「この年寄りをおいて何で先に逝ってしまうだよう」と
涙を流して取りすがる姿は、
このおばあさんは優しい人やったんやと
思わされたと言うことなのでした。

(R子さんより)

2011年3月6日

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Kが薬を手に入れた話

2011-02-03 19:55:56 | ダブダブ姐さんの聞き書き
ダブダブ姉さんの聞き書き7

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寒中お見舞い申し上げます。


「Kが薬を手に入れた話」


戦時中のこと。

S(Nの母)さんは肝臓を患っていた。

夫のK太郎さんは肝臓によいというシジミを手に入れてSさんに食べさせた。

医者先生は「薬があれば」と言った。

K太郎さんは「親戚に看護婦がいるから」と薬の名前を聞いた。

先生は「医者でも手に入らんから」とはじめは言ってくれなかったが、
何とか聞き出し、それをKに連絡した。

Kは尾崎のH口さんの繋がりの人で、
ご主人が S製薬の研究室にいる人を
紹介してもらったのか、知っていたのか頼んだ。

ある日、会社に行きなさいと言われ、訪ねていったら、
薬が準備されていた。

それを持って串本に行った。

薬は2種類あった。

先生は「これが手に入るとは!」とびっくりしたが、もう遅い、と言った。

薬が使われたかは知らない。薬がどうなったかも知らない。

(2009年夏 Kより)
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昭和20年5月25日、母親の具合が悪いというので
軍隊から一時帰郷した。

そのときKが家にいた。薬を届けに来ていた。

小康を得て、いったん帰隊したが、母は亡くなった。

気分が変わるかも、と松山の部隊に異動になって終戦を迎えた。

(2010年暮れ Nより)
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K太郎さんがシジミを入手…。

シジミは淡水や汽水に生息する貝、

串本は太平洋に面した海辺のような所。

シジミを入手するにはさぞ苦労されたことでしょうね。

健康保険もない時代、しかも戦争のさなか。

さぞかし大変だったことでしょう!

今の時代に生きていられることに感謝、です。


樽井でたぬきを飼っていた話

2010-12-08 19:00:51 | ダブダブ姐さんの聞き書き
ダブダブ姐さんの聞き書き6
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もう師走ですね。
ぼちぼち正月準備をしたいですね。
前にアヒルの話を書いたところ、
『たぬきを飼っていたと聞いた』と情報をもらいました。
ええっと思いましたがありました。


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樽井でたぬきを飼っていた話(K)

樽井でたぬきを飼うのがはやったことがあった。
Uの家でも飼っていた。
浜の近くに飼育小屋があった。
Uの嫁さんがついてきてくれと行ったので一緒に行った。

たぬきは2匹いて、一匹ずつ仕切りがしてあった。
お兄さんが出征したので嫁さんが餌やりをしていたが、
おとろしがり(怖がり)の人だったので餌をやるのも辛いようだった。

貝塚の業者に頼んで、毛皮にしてもらった。一つはいい毛皮になったが、
一つはあんまりよくなかった。

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では皆様よいお年をお迎え下さい。
来年もよろしくお願いします。(2010.12.6)


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樽井:大阪府泉南市樽井
貝塚:大阪府貝塚市



いわし売りの話

2010-11-09 21:00:49 | ダブダブ姐さんの聞き書き
ダブダブ姐さんの聞き書き5

いわし売りの話

尾崎(*)でイワシがたくさんとれたとき、
ある人が和歌山まで、自転車に積んで売りに行った。
山を越えて岩出(*2)まで来たとき、
そこらの人が「そのイワシはなくか」と聞いた。
訳がわからないので「なかへん」と言ったら、
誰も買わずに、家の中へ引っ込んでしまった。
イワシはぜんぜん売れなかった。
次に行ったとき、また言われたので、どうでもいいと思い、
「なく!なく!」と答えると、どんどん人が寄ってきて、
イワシがすぐに売りきれた。

*  尾崎:大阪府阪南市尾崎のこと
*2 岩出:和歌山県岩出市

泉南と紀北は峠でつながっているんですね。

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補足として地図紹介

阪南市は大阪湾に面した海辺の町。
岩出市は海から離れた紀ノ川沿いの地域。

昔のこととはいえ、自転車で行くってすごいですね。
距離的には直線で10数キロ。
だけど峠を越えていくんですから…。

Nの8月15日(続き)

2010-10-20 21:48:44 | ダブダブ姐さんの聞き書き
ダブダブ姐さんの聞き書き4

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Nの8月15日(続き)


8月16日は給与日だった。
一人ずつ名前を呼ぶと兵隊は「はい」といって、受け取りに来るのだ。

すると、ほかの人の名前のときにも
何度もはいと言って給与を受け取る人がいた。
兵長が見つけた。
「ちょっと待て」といって調べたら、
服の中から何人もの給与袋が出てきた。
戦争に負けたというのでさっさと帰ってしまった人がいて、
名前を呼ばれて返事がない人がいたら、答えて受け取っていたのだ。

一段落して、決算して銀行へ下士官が戻しに行った。

米が残っていた。
下士官と上等兵が10人ほどで分けた。
16日の夜みんなで温泉に泊まった。
当時、宿に泊まるとき米は自分持ちだったので、
最初の晩と思ってNが自分の米を出してしまった。
しかし翌日はみんな別れてしまった。
Nは水を飲みながら宇高連絡船、岡山を経て郷里まで帰った。
痩せてしまっていたが「よく帰ってきた」と喜んでくれた。

その後ラジオや新聞で「○○以外の隊は(原隊に)帰れ」とあったので、
松山に9月になって行った。

給与1か月分と少しの米をもらった。
また、9月1日付で兵長に任ずると言われた。

少しの米も貴重品で、秋の収穫まで、芋などに少しづつ混ぜて食べた。

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9月2日が降伏文書調印だったので9月1日付で昇格人事をしたんですね。
by ダブダブ姐さん

Nの8月15日(その1)

2010-09-30 07:09:07 | ダブダブ姐さんの聞き書き
ダブダブ姐さんの聞き書き3

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Nの8月15日(その1)

終戦の時、愛媛県松山海軍航空隊主計課にいて給与計算をしていた。
隊も疎開していて梨畑に事務所と宿舎を建てていた。

8月15日重大放送があるというので聞いた。負けたことはわかった。

放送が終わると付近の住民が宿舎にものを盗りに来た。
宿舎には兵隊の衣囊(衣服を入れた袋、リュックのようなもの)がおいてあった。
取り返して、監視、見張りをした。

16日が給与日だった。銀行に行って、袋詰めをするだけに準備していた。
翌日銀行に行って、昼から支給した。

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いろんな事があっても給料は粛々と支給されたんですねえ。

はずかしながら最近知ったこと。

8月15日は終戦の日ではないと言うこと。
9月2日ミズーリ号で降伏文書に調印してはじめて戦争終結だったと言うことです。
8月15日は国民にポツダム宣言受諾するよと知らせた(玉音放送)日にすぎないそうな。


Kの花嫁支度

2010-07-27 20:21:26 | ダブダブ姐さんの聞き書き
ダブダブ姐さんの聞き書き2

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Kの花嫁支度

Kさんには二人の姉と一人の兄がいた。
Kさんは末っ子だった。
Kさんの母のTさんが死別した夫の子たちを郷里に預けて
再婚して産んだ子どもだった。

長女は養子をもらった。
長男は養子に行った。
次の姉は嫁に行ったが、夫が戦死したので戻ってきた。
嫁入り道具も戻されてきた。
当時、端布一枚でも手に入れるには
衣料券がいる時代だったので貴重だった。

長姉は、これをKさんの嫁入り支度においておこうと思った。
しかし、空襲でいつ丸焼けになるかわからない。

そこで、しっかりした箱に入れて、砂浜に埋めた。

湿気たものもあったが、立派な支度になった。
紫のを祝言の時に着た。
長姉が決めたことに誰も口をはさまなかった。
着物はいまもKさんの家にある。

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Kさんの嫁入りは今から61年前。
Kさんはダブダブ姐さんの母上です。

「アヒルはかしこい動物」

2010-06-29 19:19:02 | ダブダブ姐さんの聞き書き
「姐さん」さんからの文書を転載します。
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両親から聞いた昔話
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聞き書き「アヒルはかしこい動物」

60年ほど前、嫁に来たころ
夕方になると、つじつじで、
ガアガアがあと、アヒルの鳴く声がした。
田んぼから帰ってくるアヒルたちだ。

アヒルたちは自分の飼い主の門にくると、
ガアガアといって、別れていくのだ。

我が家は、辻の一番奥にあったが、
アヒルは帰ってくると、勝手口でまた、ガアガアとなく。

私たちはアヒルが帰ってきたのを知り、
菜の刻んだのにぬかを混ぜた餌をバケツに入れて、
庭から一歩降りたところにある小屋に持っていったものだ。

アヒルは一日中田んぼで草取りをする。
誰が田んぼに連れて行ったのか、また連れて帰ったのか、それは知らない。

ある日、わたしは田んぼで言うことを聞かないアヒルを
竹竿で追ったことがある。
それから後、そのアヒルはわたしのいうことを聞かなくなった。

アヒルは頭がいい。そう思った。
(2009年9月23日)

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昔はアヒルが草取りをするのが当たり前だったんですね。
いまは「合鴨農法」なんて特別なことのようですが。
お年寄りに昔のことを聞いておかないと、
そういった記憶はなくなっていきますね。

聞き書き記録、期待しています!