みどりの野原

野原の便り

2月12日 久米寺~益田池堤跡~新沢千塚古墳群 ハイキング

2016年02月12日 | Weblog
橿原神宮前駅 西出口を出発
暖かい。汗をかかないうちに上着を脱ぐ。

久米寺

 
寺の前の道標 右)おかでら たち花 左)志ん武 橿は羅(神武 橿原)

 
大塔跡 元は7重の塔があったらしい。大きい礎石が残る。   
     右)多宝塔 焼失した塔の代わりとして、京都仁和寺から移築されたもの 重文


鳥屋橋 高取川を渡る。

史跡「益田池 堤跡」
「益田池」は、推定40ヘクタールの広大な灌漑用ため池 
平安時代の初めごろ約200mの堤を築き高取川をせき止めて作られた。
池の名は「干ばつといえども田を益すの功あり」が由来。

益田池は今はなく、橿原ニュータウンはその跡地にできた。
その堤の遺構が史跡公園になっている。
 
高さ約55m 幅約30m 高さ約8mの 堤の遺構       上に登れる。

第28代宣化天皇陵
  
   宣化天皇陵 「倭彦命身狭桃花鳥坂墓(むさのつきさかのはか)」の石碑があった。
考古学では「ミサンザイ古墳」と言われているという。前方後円墳
宣化天皇については不明なことが多いらしい。

「ミサンザイ古墳って他にもあるね。どういう意味かな?」と誰かが言っているのが聞こえた。確かに堺の方にもある。
調べてみると「貴人の墓を意味するミササギが転訛したもの」との説、他にも説はあるようです。

古墳の周りの池は「灌漑用ため池 鳥屋池」とのことだが、堀ではないのか?
池を堀として利用したのか?

その堀のような鳥屋池を回りこんで少し歩いたところ。開いた門扉を山へ入る。

ここは「桝山古墳」  
『宮内庁ではこの墓を、倭彦命の「身狭桃花鳥坂墓(むさのつきさかのはか)」とよんでいる』とのこと。 
さっきの宣化天皇陵のところにも同じ「倭彦命身狭桃花鳥坂墓」の石標があったが?? 
桝山古墳と宣化天皇陵の関係がよくわからない・・


とにかく、入ったあたりは前方部と後円部の間あたりになるらしい。右側が後方部
そして、前方部と後円部の軸がずれているとのこと。
それは元あった方墳に、後で「皇族の墓は前方後円墳」との考えに基づき後円部を付け足す修復がなされたからというのだ。

そして、このころはまだ貴人の埋葬時には近習の者を生き埋めにする風習があり、陵の周りに埋められた人たちの泣き呻く声が数日たっても聞こえ(恐ろしい・・・)心を痛めた垂仁天皇が以後、殉死を禁じ、代わりに埴輪を立てるようになったとのこと。 

新沢千塚古墳群(国指定史跡)
丘陵に4世紀後半~6世紀後半の古墳が約600基集まっている。

 
整備された丘の大小の膨らみはみんな古墳 発掘調査でわかった主なものには説明板がある。


中でも金銀の装飾品やペルシャ由来のガラス椀などの豪華な副葬品が見つかった126号墳 
埋葬されていた人物は金銀の装飾品を身に着けた姿で葬られていたという。被葬者は不明。
副葬品は国の重文に指定され、東京国立博物館に納められ、橿原市博物館には精巧な復元模造品が展示されているらしいが、まだ見ていない。


橿原神宮 深田池 西の方にはマガモの群れが、入り口に近いところにはヒドリガモの群れが寄ってきた。
橿原神宮駅まで、約10キロのハイキングだった。
主なところでは説明があり、資料も準備していただいてありがたい。
コメント
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