みどりの野原

野原の便り

7月7日 久しぶりの高取城址

2022年07月07日 | Weblog

久しぶりに高取城へ。

以前には壺阪山駅から土佐街道を通り、砂防公園から七曲り、1升坂、猿石から二の門、から城内へのコースを歩いたことが何度かあるが、いつのことだったか・・
壷阪寺から五百羅漢を超えて城跡へのコースも何度か・・

今日は、城址直下ともいえるところから最短の道を登る。
このコースも何度か登っているが・・何年か前のこと。


距離は短いが、登り道は昨日雨が降ったこともあり、荒れていたところもあった。


壷阪口門跡 


城跡らしい石垣が左右に見えてくる。


大手門より高取城を望む写真が掲示してある。
左はCDによる再現の写真。右は明治20年頃、取り壊される前の写真。

高取城の歴史は波乱万丈。
『高取城が築かれたのは戦国時代。地元の豪族越智氏が本城 貝吹城の1つの支城としたのが始まり。天守もない簡単な城だったよう。
その後、織田信長による「城割」の命で大和国は郡山城を残してすべて破却となった。
しかし、筒井順慶は郡山城の詰の城として改修を行い、その後、羽柴秀長が高取城整備を継続し、家臣本多氏に大改修を命じ、再築城したらしい。
本多氏が断絶した後、寛永17年(1640)徳川家譜代の家臣 植村家政が大名として入り、高取藩初代藩主となり、高取城を任された。
以後、明治維新まで14代にわたり、植村氏による高取藩が存続した。
明治4年(1871)廃藩置県の結果、全国の多くの城郭が廃され、高取城も大部分が取り壊し、売却、移築され、残っていた建造物は自然倒壊したらしい。』パンフなどより抜粋。
移築された門や遺構が今も残っているところがある。


大手門の石垣




複雑な形状の石垣がたくさん見られる。
こんな立派な石垣が他に残っているだろうか。
石垣の管理も大変だと思う。

日本3大山城を紹介した看板があったが行ってみたいものだ。
NHKの番組の中で「日本最強の城」に選ばれたとか。

本丸跡でお弁当を食べる。
高取山頂上583mにある城跡。風が涼しい。

さて、今日は、ヤマユリを見に来たのだが・・




残念。石垣に生えたヤマユリはまだつぼみだった。


マルミノヤマゴボウがあった。

同じ道を下る。

コメント
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