みどりの野原

野原の便り

7月8日 飛鳥の道標巡り

2022年07月08日 | Weblog

飛鳥の道標巡り。26基ぐらい案内していただいた。
よく歩いている道なので、知っているものも多いが、あらためて廻ってみるとすごいな。
(ただ、道標の表記もむつかしく、1面だけでなく他の面にも文字があったりで、正確には書けません。だいたいどんなものがあったかを書くに留まります)

道標には「角柱型」「地蔵型」「自然石型」「板碑型」などがあるとのこと。

豊浦休憩所を出発。


甘樫橋のそばにある見慣れた道標3基。
岡寺や橘寺、飛鳥大仏や元伊勢(飛鳥坐神社)などを示す。
左の2基は 角柱型、右の小さいのは自然石型。

奥山

奥山の信号のそば。手前の地蔵型道標
天の香久山 岡寺 高野 よしの道
一番左の小さいのは、香久山法然寺を案内する角柱型道標。


飛鳥資料館西バス停にも、はせ いせ なら などを記した自然石型の道標。


飛鳥集落の角地に立つ道標。在所道 はせ いせ


飛鳥坐神社


鳥居の横の植え込みに隠れんぼしているような道標。


鳥居のそばの灯籠は飛鳥で2番目に古いものだとか。
1番は?聞き逃した・・


飛鳥坐神社から少し西 「右 スグ 元伊勢」の道標。
元伊勢とは、宮中に祀られていた天照大神(ご神体は八咫鏡)をお祀りする、よりふさわしい地を探すために、垂仁天皇の皇女 倭姫命が鏡を携えて各地を回られ、最終的に伊勢神宮に祀られた。
その途中に一時的に鎮座された場所を元伊勢といい、各地にある。(端折った説明です)
飛鳥坐神社もその一つで、元伊勢と言われているらしい。


飛鳥寺 門のそばの立派な標柱「飛鳥大仏」は江戸時代(寛政4年)のもので、台石は飛鳥寺創建当時の礎石を利用しているとのこと。


飛鳥寺の境内には5基?の道標がある。
これは祠の中にある地蔵型道標。2基どちらも道標。
他にも、香久山法然寺 岡寺などを案内した道標もある。


キキョウが咲いていた。


献木されたボダイジュの根元にセミの抜け穴があった。


「昭和の名鐘」
旧梵鐘は延享2年(1745)に鋳造されたものだった。
昭和18年、戦時供出の厄にあって、戻ってこなかったという。
昭和33年、新しく鋳造され、かつての名鐘がよみがえった。

参加メンバーの1人から「岡寺の鐘も供出になったが、寺に戻ってきた」という話を教えてもらった。
鐘は鉄砲の材料に使えるか調べられたらしい。
穴が7つ開けられた状態で戻ってきたという。
へえ~~。近くに住んでいたこともあるのに、全然しらなかった。
なぜ戻ってきたのかはわからないが、戻ってきてよかったよかった。
こんど行った時には穴を確認しよう。
鐘を撞いたことがあるが、いい音色ですよ。


橘寺の近くには大きい角柱型の道標がいくつかある。
これは明日香村の中では一番背の番高い道標だそうだ。


橘寺へ入るところにある「羽易の山(はがいのやま)」の碑
「羽易の山」とは三輪山を頭に竜王山と巻向山が鳥が羽を広げた翼に見立てた。


中央が三輪山です。

そばには柿本人麻呂が妻をなくした後に作った長歌の碑がある。
・・・羽易の山に(亡くなった)妻がいるというので、岩を登って行ってみたがいなかった・・という切ない歌だ。


川原寺の南西 車道沿いにある。左が道標
右おかみち 左はせみち 寛文13年(1673)に建立された。
県内の記銘のある道標の内で、2番目に古いそうだ。
1番古いのは榛原檜牧、伊勢本街道ぞいにある寛文4年のものだとか。


そして、ほとんど埋もれた道標も案内して下さった。
はせや大阪を案内しているそうだが、見えない。

飛鳥川沿いに豊浦に戻って解散となる。


帰り道、ポポーの実がついていた。

コメント
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