上ノ太子駅から竹内街道へ。そして岩屋峠を越えて当麻に抜けた。
竹内街道は飛鳥時代、大陸からの使節を迎えるためにつくられた難波の港から飛鳥の都に至る「大道」 日本で最古の官道。敷設1400年になるという。
大和と河内を往来する商人や伊勢参り西国三十三か所参りの人たちなどで賑わった。
竹内街道 聖徳太子の墓所とされる叡福寺北古墳がある太子町
マンホールにも「和を以って貴しと為す」の文字が入る。
道筋には竹内街道の幟が立ち、砂利を固めた道路が街道を示す。
地図は途中までしかなかったが、この幟と道路に導かれた。
角屋という旅籠のあった分岐 角屋の門前に左甚五郎作と伝わる馬が置かれていたそうだ。その馬を見て往来する馬が立ち止まってしまうので困り、もう1頭の馬をつくって置いたところ、馬は立ち止まらなくなったという、 右)後で行った竹内街道歴史資料館に馬が展示してあった。 右の馬が左甚五郎作
途中にはお地蔵さんや道標が多い。
大道(竹内街道)山本家住宅 4月~5月 9月~10月の土日のみ開館しているらしく、今日は外観のみ。
この辺りから町を外れ、静かな山沿いの道となる。 ハランの根元を見たら蕾と果実があった。
山肌につくられた祠 ヤブツバキが見ごろ
竹内街道歴史博物館に到着 展示を見る。 堺から竹内街道を越えて当麻町長尾へ花嫁が乗ったというお駕籠 全行程30キロの旅。早朝堺を出発して途中の茶屋で休憩しながら長尾には夕刻に着いただろうとのこと
両家とも裕福だから出来たお駕籠の旅、花嫁さんはお疲れだったことだろう。
ここで岩屋越えの地図をもらった。
こんなに立派なナンテンは見たことがない。
車道沿いの竹内街道 イタチハギの枯れた果実
道の駅から街道は竹内街道と別れ、岩屋越えの道へ。
登り始めにあったお地蔵さま ここから山道を登る。
そして樹齢数百年という「岩屋杉」の所に出た。 奈良時代の石窟寺院跡「岩屋」
雪がちらちらしてきた。岩屋峠は標高360m
岩屋峠から当麻へ下る。 この道は江戸時代には松尾芭蕉や貝原益軒も通ったという。
祐泉寺から大池と通って当麻駅へ。 大池にはヒドリガモ・キンクロハジロ・ガチョウがいた。
駅前で名物・中将もちを買っていたら、あらら・・電車が出てしまった。 今日の歩数計 24896歩
竹内街道は飛鳥時代、大陸からの使節を迎えるためにつくられた難波の港から飛鳥の都に至る「大道」 日本で最古の官道。敷設1400年になるという。
大和と河内を往来する商人や伊勢参り西国三十三か所参りの人たちなどで賑わった。
竹内街道 聖徳太子の墓所とされる叡福寺北古墳がある太子町
マンホールにも「和を以って貴しと為す」の文字が入る。
道筋には竹内街道の幟が立ち、砂利を固めた道路が街道を示す。
地図は途中までしかなかったが、この幟と道路に導かれた。
角屋という旅籠のあった分岐 角屋の門前に左甚五郎作と伝わる馬が置かれていたそうだ。その馬を見て往来する馬が立ち止まってしまうので困り、もう1頭の馬をつくって置いたところ、馬は立ち止まらなくなったという、 右)後で行った竹内街道歴史資料館に馬が展示してあった。 右の馬が左甚五郎作
途中にはお地蔵さんや道標が多い。
大道(竹内街道)山本家住宅 4月~5月 9月~10月の土日のみ開館しているらしく、今日は外観のみ。
この辺りから町を外れ、静かな山沿いの道となる。 ハランの根元を見たら蕾と果実があった。
山肌につくられた祠 ヤブツバキが見ごろ
竹内街道歴史博物館に到着 展示を見る。 堺から竹内街道を越えて当麻町長尾へ花嫁が乗ったというお駕籠 全行程30キロの旅。早朝堺を出発して途中の茶屋で休憩しながら長尾には夕刻に着いただろうとのこと
両家とも裕福だから出来たお駕籠の旅、花嫁さんはお疲れだったことだろう。
ここで岩屋越えの地図をもらった。
こんなに立派なナンテンは見たことがない。
車道沿いの竹内街道 イタチハギの枯れた果実
道の駅から街道は竹内街道と別れ、岩屋越えの道へ。
登り始めにあったお地蔵さま ここから山道を登る。
そして樹齢数百年という「岩屋杉」の所に出た。 奈良時代の石窟寺院跡「岩屋」
雪がちらちらしてきた。岩屋峠は標高360m
岩屋峠から当麻へ下る。 この道は江戸時代には松尾芭蕉や貝原益軒も通ったという。
祐泉寺から大池と通って当麻駅へ。 大池にはヒドリガモ・キンクロハジロ・ガチョウがいた。
駅前で名物・中将もちを買っていたら、あらら・・電車が出てしまった。 今日の歩数計 24896歩
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