みどりの野原

野原の便り

9月21日 近江京跡を訪ねて

2007年09月21日 | Weblog
里山クラブから 近江京跡を訪ねるバスツアーに参加

バスに乗ってすぐ「皆さん、今日は観光旅行ではありませんよ」お世話役のNさん
からご注意が。

おっとそうだった。

歴史・クラフトの達人、話題豊富なNさんがお隣の席で、2時間もあっという間に、
目的地へ到着。

大津のボランティアガイドさんが待っていてくださり、宮跡の遺跡を案内してくだ
さる。

不勉強の上、もともと歴史に疎い私は近江京についても全く知らなかったので、
少しは勉強になった。かな?

近江大津宮は飛鳥時代の中で、天智天皇が、初めて飛鳥から遠く離れたところに造
営した都。
天智天皇崩御の後に起こった壬申の乱の敗戦により、たった5年余りで廃都となり、
所在地さえも長い間不明であったが、発掘調査が推定地一帯で進み、遺跡の一部が
発見され、ここが大津の宮であることがわかった。ということだ。


住宅地の中の遺跡には柱跡などが木の杭で示されていたが、発掘調査は民家の建
て替の時にしかできないので、なかなか進まない。
そのために遺跡は飛び飛びの断片だ。
大津宮錦織遺跡第1号地点・第2号地点などとなっている。


    大津宮錦織遺跡 第2地点(内裏正殿推定地)   


         近江京の模型(大津博物館で)

その上、琵琶湖沿岸の狭い土地で、近江京と言うほどの規模にもならないようだが、
この地独特の配置などがある可能性もあるとのことだった。

大津宮に関係のある南滋賀町廃寺跡というところも訪ねた。
瓦などが出土したらしい。
空き地にヒガンバナが数本咲いて、わびしい寺跡だった。

壬申の乱で敗れた大友皇子(弘文天皇)が自害したと言われる場所、埋葬したと言
われる茶臼山古墳も案内してくださった。

近江の地は悲劇の地のようだ。

天智天皇をご祭神とする近江神宮は、皇紀2600年を記念して昭和15年に創建された。
(橿原神宮も同じ時に創建されている)


               近江神宮

大津京に作られたという漏刻(水時計)の模型があった。

6月10日の「時の記念日」は大津京で漏刻が時を打った日(太陽暦換算)との日本書紀
の記述によるという。


               漏刻模型

実際には飛鳥水落遺跡の漏刻の方が先であったが、発掘が少し遅れたとのことで、
先を越された形である。残念!

5年余で廃都となった後、又、都は飛鳥に移る。

夢・幻のような近江京。少しずつ少しずつ歴史が現れてくることだろう。
遠く離れていても飛鳥とのつながりも感じた。
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2 コメント

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コメントデビュー (明日香の女優)
2007-09-24 13:28:59
飛鳥時代を語る上で切り離せない大津宮、私も一度は行ってみたいと思っていたので、写真等楽しみに拝見しました。歴史を少し勉強すると、時代は違うけれど思いを馳せてその地に行きたくなり暇を見つけては車を走らせています。

コメント初めてですがこれからのブログ楽しみにしております。       

                         
返信する
明日香の女優さんへ (みどりの野原)
2007-09-25 00:11:16
コメントありがとうございます。
飛鳥から大津へまた飛鳥へと 都を移すって大変なことでしょう。
もっと勉強すれば、人々の暮らしぶりもよくわかるんでしょうね。
返信する

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