梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

自然淘汰

2011-01-05 07:50:44 | 雑記
又、無差別殺人(未遂)が起きた、此処十数年で多くの事件が起きている動機が無い、或いは余りに身勝手な事件だ、狭い檻にラットを大量に入れると最初は迷走を始めるがやがて近くの個体に攻撃を始める、此れは食料が有るとか無いとか言う事とは関係なく始まるらしい、徐々に減らしてゆくと食料の奪い合いを別にして一定の密度に成るまで其れは行われる、野生動物はエリアの密度が上がるとやはり排斥の為の戦いが起きて負けた固体は新たなエリアを探して移動しなければならない、見つからなければ死が待っている。数年前までの事件は生活を確保する為のものも有ったが昨年の秋葉原の事件や荒川沖の事件は当てはまらない、既に人間社会はその密度が限界を過ぎているのだろうか、自然界には掟と言うより摂理が有る、例えば鹿が増え続ければ食料に成る植物は減少する、その次の世代は食料が不足して個体数は減少する、鹿が減れば再度植物が増えてくる、再度鹿が増えれば鹿を捕食する例えばライオンが増加する、今度は鹿が捕食されて個体数を下げてライオンは減少する、此れが自然のバランス調整だ、しかし人間はこの自然の摂理を手に入れた知恵で弄りすぎた、絶滅危険種を言うまでも無く自然環境も食物連鎖も狂って来ている、それでも気が付かず或いは目をそむけて個体数を増やし続けてゆく、今の日本は既にこの島が維持出来る個体数を超過しているのではないのか、それでも後進国の様な食糧危機は未だ無い、餓死の替わりに秩序の崩壊が起きているのか?極論だが今までは戦争と言う調整が有った、しかしこれの持つ悲劇を人類は避ける事が出来たがその分精神的に自らを見直す機会が失われてしまった、死と向き合う事が病気か老齢でしかない事、其れも核家族で直前の瞬間しか向き合わない事で生命の重さを考える機会が減ってしまった、宗教と言うものはやはり必要なのだろうか、仏教や道教は宗教と言うより哲学と言う側面が強い、人間は弱い物だから社会と言う団体の形で行き続けて来た、其れを哲学として捉えるか、西洋宗教のように絶対神を認めて自らを律するか、いずれにしても人間が自然界で生き延びて生きたのは自然界を都合の良いように弄ってきた事より互いに寄り添うようにして来た事が重要だったと言う事をもう一度考える必要が有るだろうと思う