チタンの素晴らしさと、使い方や感想、
そして、「よくある質問とその回答」などを書き綴って行きたいと思います。
ミラクルチタン(チタンオンラインショップ 店長日記)
2010.01.17 母の屠蘇器(阪神大震災15周年記念日、【ブログ第600話目】)
今日は、「阪神大震災15周年記念日」です。
そして、今回で、私のこのブログは丁度「600話目」となりました。
その600話目に、あの大震災を乗り越えた、母の朱塗りの屠蘇器に付いて書かせて
頂きます。
(1)
これは、私の母が大切にしていた漆塗りの屠蘇器です。
母は、大層、物を大切にする人でした。
私は、母が亡くなってからは、この屠蘇器は仕舞ったままにして、別に、手入れの楽
な陶器の屠蘇器を買って来て、毎年のお正月に使っていました。
しかし、その陶器の屠蘇器は、震災で割れてしまいました。
震災後は、まるで、ままごとの様なミニお屠蘇器を手に入れ、使っていました。
「2010.01.15 私のミニお屠蘇器」
(2)
2年前のことです。
私が今の家に転居した後、2年間空き家になっていた家を、いよいよ引き払うことに
なった時、この母の大切にしていた屠蘇器を見つけました。
母が亡くなってから、20年以上経って、初めて見ました。
もう,忘れかけていた、その屠蘇器を見た時、私は、強く打たれました。
何と美しい朱色だろう!手放したくない!と思いました。
ところが私の言葉は、心と反対のことを言っていました。
丁度その時手伝いに来てくれていた妹に、「これを、持って帰って使いなさい。」と。
(「私には、ミニお屠蘇器がある!」…、と自分に強く言い聞かせながら。)
案の定、その後、これを思い出して、心が痛むことになりました。
あんな美しい朱色があったであろうか?それはもう、今では出せない色かもしれない。
それを、もっと多くの人に見て貰うべきではないか?この美しさを、これから毎年、
お正月に私のブログで、皆さんに見て貰うことが、母への供養になるのではないか?
私は、そう思いました。
物に執着の強い私は、眠れない日が続き、思い切って妹に屠蘇器を返してくれる様に
頼んでみました。
でも、すでに彼女は、使い始めている由だったので、あきらめました。
それでは、せめて写真に撮らせてもらいたいと思い、新年早々の1月4日、妹の家を
訪ねて、これを撮影したのでした。仲良しの友人二人と一緒に行きました。
そして、妹が、この屠蘇器を大切にしてくれている様子を見て、有難く思いました。
(3)
それにしても、少しは剥げたり傷んだりしているものの、あの震災に割れもせず
ほとんど損傷無く、こんなに美しく原型を留めて残った「塗りの屠蘇器」が、神戸で
他にもあったでしょうか?
我が家の様に、全壊とは言え、基礎がしっかり残った為、界隈で1軒だけ修理を施して
住むことが出来た家は、奇跡と言われた程で、ほとんどの家は、倒壊した訳ですから、
何もかも失われたのが現状であり、かろうじて残った家でも、まさか塗りの屠蘇器が、
無傷に近く残ったところは、皆無に近いかも知れません。
(神戸より被害の少なかった甲子園の兄の家でも、屠蘇器が壊れて、後に輪島まで修理に
出したことを聞きました。)
ところで、我が家は、あの大震災の時、周りの家々が、取り壊すしかなかった程の
壊滅的な被害を受けた中で1軒だけ残ったことには、やはり大きな原因が、いくつも
あったと思います。
偶然残った…と言う様な、単純なものではなかったことに、日を追って気付かされます。
(それらについては、項を改めて、いつか書きたいと思いますが、具体的なことでは、
我が家にはシロアリがいませんでした。当時勤めていた私が、日中留守である自宅を
どうやってシロアリの居ない家にすることができたか?なぜ、そうしようと思ったか?
それらを、早くお知らせしたいと思っていますが、多忙で追いついて行きません。)
(4)
最初に書きました様に、今日は、「阪神大震災から15年周年記念日」です。
そして、私のこのブログにとっては、丁度「第600話目」の投稿となりました。
(ブログを始めて2年半弱で600話ということは、相当密度が高かったかと思います。)
この日にあたりまして、「母の屠蘇器」のお話が出来ましたことを、とても嬉しく思います。
これからも、どうぞ、よろしくお願い申し上げます。