2015.12/19 (Sat)
四十代半ばだったから二十年近い昔のこと。ひょんなことから地元の六甲山を歩かねばならない羽目になった。
運動嫌いとはいっても、まだ四十半ば。それなりの体力はあると思っていたけれど、念のためちょっと歩いておかなければ、本当に歩けるかどうかは分からない。
大体が長距離を歩くなんて二十歳の時、大学の寮で夜行軍で35キロほど歩いたのが最高だ。それに比べたら少々の剣術の稽古に耐える程度で安心しているわけにはいかない。確実に体力は落ちている。
そう思って、休みの日、近くの登山口から少し歩いてみた。で、気がついた。
やはり、普通の運動靴よりも踝を守ってくれる靴が必要だ。バイクに乗るのとは違った意味で、それなりの靴というものは必要らしい。そんな大袈裟なものではなくともせめてハイカットの靴があった方が良いだろう。思った以上に足首に負担がかかる。
そう思って三宮にあった登山用品店に行って、
「ちょっと山を歩かなきゃいけないんで、見合った靴を見せてください」
「どこの辺りに行かれますか」
「ここの。六甲山ですけど。ハイキングみたいなものだから」
足のサイズを聞いて、店員が店の奥から持ってきた靴は、どう見たってそれと分かる本格的な登山靴だった。
「こんなちゃんとした靴でなくていいですよ」
そう言うと、店員
「六甲山ならこれくらいでないと。鎖場や梯子もあるんだから、ハイキングコースじゃないですよ」
山を舐めるな、ってところか。勿論、そんな非難めいた風ではなかったけど、成る程、そりゃそうだ。
でも、念のためにハイキング用の靴も見せてもらった。「ハイキング」とは言わないで「トレッキング」というらしい。
確かに、これは一見ジョギングシューズだけれど、触ってみると随分がっしりとした作りになっている。
けど、登山靴がハイカットになっていて踝をしっかり守るようになっているのに比べると動き易そうだ。その分、疲れて来た時にちょっと気を抜いたりすると、足場の悪いところではけがをする可能性が高くなるだろうと思った。
ということで勧められた登山靴を買った。こんな感触で歩くことって初めての経験だ。これなら疲れてからもしばらくは歩けそうだ。
「備えあれば憂いなし」
これで山歩きは大丈夫?いや、それは甘~い。「一週間で弾けるギター講座」とか「空手独習」とかいった本での独習が無理なのは言うまでもない。だから当然、それを読んだだけじゃできるわけがない。靴だって、買ってから慣らしをしなければ靴擦れができて歩けなくなる。
それで次の休日、それを履いて出ることにした。
靴擦れしないように厚手の靴下も買ってきていたし、その下に履く五本指の靴下も用意していた。我ながらこれだけちゃんと準備して何かに取り組んだということに驚いたりしたけれど。
そこまでして歩き始めたのに、やはりこれは想像以上に不具合が出てきた。昔の、皮でできた登山靴とは違って今の靴は基本的に足に馴染んでくれない。逆に足の方から馴染んでいかなければならない。
皮製品は何でもそうだが最初は違和感ばかりだ。それが体温で温まり、段々に伸ばしたり曲げたりしているうちに、身体の動きや線に沿って来る。
早い話がツンデレなわけだ。革靴のような堅い物でも、持ち主の足の形、歩き方の癖に合わせて形を変える。だから履いた後は手入れはしないまでも、木型(シューキーパー)くらい入れておかなけりゃ何ともみょうちきりんな形になってしまう。
しかし、今の登山靴は違う。新素材というものは、初めに合わなければずっと合わない。傷んできて捨てる頃になっても、合わないものは合わない。「やっと合った!」と思ったら、それはこちらが慣れただけ、というのがほとんどだろう。
つまり、「備え」があっても慣れておかなければ不都合の方ばかりが目立ってしまう。その不都合は命取りになったりする。
そして、「慣れる」ためには、それなりの努力と時間が必要だ。それもたっぷりと、だ。福沢諭吉と軍学者の話を思い出せばわかる。
大太刀を床の間に飾っていたって使用に慣れていなければ、腕に覚えのあるものは、それを飾りだと瞬時に見抜き、その人物をも見抜く。
だからといって「日々努力はしているけれど、備えはない。いざという時はその辺のもので」と、武蔵と卜伝の鍋蓋試合みたいなことを考えるのは妄想そのもの。卜伝ほどの達人にして可能なことなんであって、現実は厳しい。
やっぱり備えは要る。「伝家の宝刀」は要る。そして、「宝刀」を使える腕も要る。
最後に、一番大事なのは、「宝刀を使う覚悟」だ。
三つ揃って国家安泰!日本人に新素材はいない、と思いたい。
ん?今日もまた、何書いてんだ??? う~~、寒さであたまがやられたかな?
四十代半ばだったから二十年近い昔のこと。ひょんなことから地元の六甲山を歩かねばならない羽目になった。
運動嫌いとはいっても、まだ四十半ば。それなりの体力はあると思っていたけれど、念のためちょっと歩いておかなければ、本当に歩けるかどうかは分からない。
大体が長距離を歩くなんて二十歳の時、大学の寮で夜行軍で35キロほど歩いたのが最高だ。それに比べたら少々の剣術の稽古に耐える程度で安心しているわけにはいかない。確実に体力は落ちている。
そう思って、休みの日、近くの登山口から少し歩いてみた。で、気がついた。
やはり、普通の運動靴よりも踝を守ってくれる靴が必要だ。バイクに乗るのとは違った意味で、それなりの靴というものは必要らしい。そんな大袈裟なものではなくともせめてハイカットの靴があった方が良いだろう。思った以上に足首に負担がかかる。
そう思って三宮にあった登山用品店に行って、
「ちょっと山を歩かなきゃいけないんで、見合った靴を見せてください」
「どこの辺りに行かれますか」
「ここの。六甲山ですけど。ハイキングみたいなものだから」
足のサイズを聞いて、店員が店の奥から持ってきた靴は、どう見たってそれと分かる本格的な登山靴だった。
「こんなちゃんとした靴でなくていいですよ」
そう言うと、店員
「六甲山ならこれくらいでないと。鎖場や梯子もあるんだから、ハイキングコースじゃないですよ」
山を舐めるな、ってところか。勿論、そんな非難めいた風ではなかったけど、成る程、そりゃそうだ。
でも、念のためにハイキング用の靴も見せてもらった。「ハイキング」とは言わないで「トレッキング」というらしい。
確かに、これは一見ジョギングシューズだけれど、触ってみると随分がっしりとした作りになっている。
けど、登山靴がハイカットになっていて踝をしっかり守るようになっているのに比べると動き易そうだ。その分、疲れて来た時にちょっと気を抜いたりすると、足場の悪いところではけがをする可能性が高くなるだろうと思った。
ということで勧められた登山靴を買った。こんな感触で歩くことって初めての経験だ。これなら疲れてからもしばらくは歩けそうだ。
「備えあれば憂いなし」
これで山歩きは大丈夫?いや、それは甘~い。「一週間で弾けるギター講座」とか「空手独習」とかいった本での独習が無理なのは言うまでもない。だから当然、それを読んだだけじゃできるわけがない。靴だって、買ってから慣らしをしなければ靴擦れができて歩けなくなる。
それで次の休日、それを履いて出ることにした。
靴擦れしないように厚手の靴下も買ってきていたし、その下に履く五本指の靴下も用意していた。我ながらこれだけちゃんと準備して何かに取り組んだということに驚いたりしたけれど。
そこまでして歩き始めたのに、やはりこれは想像以上に不具合が出てきた。昔の、皮でできた登山靴とは違って今の靴は基本的に足に馴染んでくれない。逆に足の方から馴染んでいかなければならない。
皮製品は何でもそうだが最初は違和感ばかりだ。それが体温で温まり、段々に伸ばしたり曲げたりしているうちに、身体の動きや線に沿って来る。
早い話がツンデレなわけだ。革靴のような堅い物でも、持ち主の足の形、歩き方の癖に合わせて形を変える。だから履いた後は手入れはしないまでも、木型(シューキーパー)くらい入れておかなけりゃ何ともみょうちきりんな形になってしまう。
しかし、今の登山靴は違う。新素材というものは、初めに合わなければずっと合わない。傷んできて捨てる頃になっても、合わないものは合わない。「やっと合った!」と思ったら、それはこちらが慣れただけ、というのがほとんどだろう。
つまり、「備え」があっても慣れておかなければ不都合の方ばかりが目立ってしまう。その不都合は命取りになったりする。
そして、「慣れる」ためには、それなりの努力と時間が必要だ。それもたっぷりと、だ。福沢諭吉と軍学者の話を思い出せばわかる。
大太刀を床の間に飾っていたって使用に慣れていなければ、腕に覚えのあるものは、それを飾りだと瞬時に見抜き、その人物をも見抜く。
だからといって「日々努力はしているけれど、備えはない。いざという時はその辺のもので」と、武蔵と卜伝の鍋蓋試合みたいなことを考えるのは妄想そのもの。卜伝ほどの達人にして可能なことなんであって、現実は厳しい。
やっぱり備えは要る。「伝家の宝刀」は要る。そして、「宝刀」を使える腕も要る。
最後に、一番大事なのは、「宝刀を使う覚悟」だ。
三つ揃って国家安泰!日本人に新素材はいない、と思いたい。
ん?今日もまた、何書いてんだ??? う~~、寒さであたまがやられたかな?