CubとSRと

ただの日記

久々のツーリング(日帰りだけど)考

2020年01月09日 | 神社
 これでおしまいにします。長々と世間話ばかりで、ちっともツーリングではなかったけれど、お付き合いいただき、有難うございました。

 ・・・・・なんて、この日記自体が終わりそうな書き出しでしたが、そういうわけではありませんので。
 ツーリングの色々は書きません。一つ二つ印象に残ったことだけ、書きます。

 今回は目的地であった出雲大社から。
 一つ目は、改修中の出雲大社本殿のこと。
 前にも少し書きましたが、大社本殿は桧皮葺(ひわだぶき)です。
 檜の皮を均等に切り揃え、一枚一枚竹釘で留めて行きます。多くの古い神社は瓦ではなく桧皮で葺かれています。それが、また社殿を立派に見せてくれます。
 この檜皮の葺き替えが専門家でも大変難しいのだそうで、大概は、一度葺いたら、上から銅板を被せてしまい、檜皮が傷まないようにする。
 けれど、本来の形を守ろうとする出雲大社のような神社は、そういうことはしない。元の形に戻そうとする。出雲はそれが60年という周期(式年)で行われます。
 
 対して伊勢は、というと、二十年に一度の式年遷宮。出雲大社の三倍の速さで、(それも、全て)造り替えられます。改修ではなく、新しく造営されます。
 伊勢神宮は桧皮葺ではありません。茅葺きです。棟持柱も台石の上ではなく「掘立て柱」。
 だから屋根も柱も傷みが激しい。二十年に一度が妥当でしょう。

 今回、改修のほぼ終わった出雲大社本殿を遠くから見て、その桧皮葺の屋根と、破風の金具、その塗装等から伝わってきたのは、(まだ、鉄骨の覆屋に半分以上隠れていたけれど)おそらくは室町時代の、この神域の気配でした。
 その色合い。本殿の後ろ、かつては、御神体そのものであったろう若葉で萌え上がるような小山と合わさって、ここは大国主の陵なんだなと実感しました。
 
 四十年近い昔、遷宮間近の伊勢神宮の新御正殿を見たことがあります。
 白木の建物と茅葺きの屋根、要所に遣われてある金色の金具以外に全く装飾のない御正殿は鎮座されてからほとんど変わらないのだそうです。
 でも、千数百年前の景色が、伝わって来ない。いや、伝わって来ないのではない。今と同じなんです。逆に言えば今の景色が千数百年前と同じものなんです。

 「伊勢神宮を見れば、昔の日本の景色(心の景色)が分かる」
 と聞いたことがありますが、出雲大社の、この本殿改修の景色を見て初めてその言葉とつながったようです。出雲大社を見なければ、太古の日本と今をつなぐ筋が見えなかった。
 「日本の景色」というのはあまりにも古く、同時にあまりにも新しい。何も変わっていないように見える。
 だから、その道筋がつい忘れ去られてしまう。

 二つ目は神楽殿入り口の注連縄。
 注連縄に、「刺されば縁起が好い」などと、占いのつもりでお金を投げる人が多いからか、網が掛けてありました。
 「無粋だなあ」、と思いました。神社に、ではない。参拝客に、です。
 神社の方としては何かの拍子に刺さっている硬貨が落ちて、歩いている人に当たったら危険だから、と、そうせざるを得なかったのです。

 折角お参りに行ったのに、怪我をしたら、意味がないだろう。怪我をしなくても、身も心も穢れを祓って帰るつもりだったのに、注連縄に刺さった硬貨を見たら嫌な気分になるだろう。
 人の我欲を見せ付けられたようで、嫌悪を感じました。

 その時です。
 ふっと枯れた藁の匂いが漂い、一遍に気持ちが変わりました。
 勿論、この頭上の太い注連縄からでしょう。

 硬貨を投げて突き刺してやろうとするのも我欲。
 そんなのを見て嫌な気分になるのも、同じ、我欲。
 それを、注連縄の匂いが、一瞬に消し去ってくれました。

  今回は割子(わりご)蕎麦をたらふく食べ、美味しいコーヒーを飲んで帰りました。


2012.05/12


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久々のツーリング(日帰りだけど)考➂

2020年01月09日 | バイク 車 ツーリング
 速度計は30ちょっとを指している。50キロほどなんだろうけど、異常に遅く感じる。吹け上がりがぎこちないからだろう。まだ、本調子ではないみたいだ。


 ツーリングに出ると、それが一週間以上の場合も、日帰りの場合も、いつもその日のうちに日記をつけるようにして来た。
 今回もそうする筈のところ、齢のせいか、遂に眠気に負けてしまった。
 まあ、先日同じコースを辿ったからなあ、という気持ちは少なからず障壁になっている。
 けれど、日記をつけなかった大きな理由は
 「ツーリング日記なんか書いたって、しょうがないだろ?」
 という気持ちが、最近、段々に強くなって来ていることだ。

 「百聞は一見に如かず」、だ。
 ツーリングの楽しさをここにいくら苦心して書いたって、バイクに乗らない人がそれを見て楽しさなんて分かるはずもない。
 勿論、私の文章表現能力が超一級品なら、その楽しさを脳裏に思い浮かべることができるかもしれない。
 けどそれだって、ハンドルを握った(バイクの、ですよ)ことのある人と、そうでない人では、共感の度合いが天と地ほども違うだろう。

 反対に、相当に乗ってる人からすれば、
 「何ともまあ、ありきたりな、凡庸なツーリング記録だなぁ。読むだけ時間の無駄だったよなぁ」
 となるだろう。
 いっそ行程だけ書けば数行で済む。それなら、バイク乗りにだって参考になるかもしれない。どこで何を食べたとか、どこの入場料はいくらだったとか。

 また、乗る楽しさだけ書けば、乗ってない人も、一度くらいは読んでみようかな、という気になるかもしれない。

 
 帰り道でふと思った。先日に書いた「風の中に居る」ということ。

 バイクに乗って走っている。時速50~60キロの風の中にいる。
 今、確かに移動している、と感じ続けている。

 歩いている時はどうだろう。時速50~60キロの風の中を歩く時、一体何を考えるのだろう。
 大概の人は、歩くのに一所懸命で、考える余裕なんかなく、風が強いな、としか思わないんじゃなかろうか。
 そんな風の中で、散歩気分、なんて人は滅多にないだろう。
 バイクの時速50~60キロの風の中、歩かないんだから歩くのに一所懸命になる必要はない。

 「帰り道で思った」と言うより、「感じた」と言うべきかも知れない。
 歩いてはいないけど、それに、走ってるのはバイクだけれど、乗ってるんだから、散歩している時みたいに考えながら、というわけにはいかない。
 走りながら考えることはできない。
 当然、「思い」は浮かんでいるだけで、堂々巡りすらできない。

 それを帰ってから思い出していた。

 物事を「考える」とは言うけれど、実際のところ、本当に普段色々なことを考えて生きているのだろうか。
 そんなつもりでいるだけで、現実には「常識」とか、「世間体」とか、「浮世の義理」とかいうものに、知らず、縛られ、それを「考えている」、と「ぼんやり思っている」だけではないだろうか。
 でなければ、毎日流れるニュースや、政治の動向にこんなに振り回されることはなかろう。
 却って意識的に(或いは無意識に)「考える」ことをやめてしまっている時の方が、本当は「考えている」ことにならないか。
 坐禅なんかそうかもしれない。念仏や題目を唱えることも。

 稽古事等に、無心に取り組んでいる時、ひたすら「それ」、に取り組んでいる時には、「考える」ことはできず、常識や世間体や浮世の義理に縛られて「考える真似事」をしている暇はない。
 しかし、その稽古事等に懸命に取り組んでいるうちに身につく考え方で、筋の通った考えができ、考えが深まる。
 「そのこと」に関する僅かな約束事の中で、最善の形、行動、考え方を提示されそれを倣うしかないからだ。

 ツーリング中の「走る」ということは、その境目のところに居るような気がする。

 勿論、そこで、「考えられないから」といって、無心になって、題目、念仏、坐禅となってしまうと、当然、「即刻、あの世行き」なんだけれど・・・。


 あっ!ツーリングのこと、書くの忘れてた!!


2012.05/10
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