CubとSRと

ただの日記

百人切りの真偽

2020年01月28日 | 重箱の隅
2010.02/10 (Wed)

 「南京攻略までに敵兵を百人以上斬る。どちらが先か競争だ!」
 片桐部隊の向井、野田の両少尉は、こんな約束を交した。

 攻略の後、両少尉は刃こぼれした日本刀を片手に対面。
 野田「俺は105だ」
 向井「俺は106だ」
 「引き分けか。じゃ、今度は150でやろう」

 昭和22年、向井少尉、東京軍事法廷に召喚されるが、事実ではないと釈放。
 しかし、2ヶ月後、中国軍事法廷に再召喚され、
「獣行により、日本女性の欲心を買わんとしたことは現代人類史上聞いたことがない」と死刑判決。
 翌23年1月28日、両少尉、南京にて処刑。(同時に300人斬りをしたとされる田中大尉も処刑)

 「日本女性の欲心を買わんとした」?
 この意味は取材を受けた当時、手足に重傷を負っていた向井少尉が冗談に、記者に「嫁さんを世話してくれ」と言ったら「戦功を挙げたら、候補者はいくらでも出てくる」と返されたことがもとになっているらしい。100人斬りの案も、対談するかのような記事も記者の作文であることが明らかになっている。

 100人斬り裁判は有名になった。弁護に立ったのは、あの稲田朋美弁護士(現衆議院議員)。
 事実無根の事件であるから、と故人の名誉回復、出版社のお詫び広告の掲載などをあげて戦われた裁判は、敗訴。

 初出の毎日新聞は、戦闘時の100人斬りを標榜し、「あり得ない」となった。
 数十年後、朝日の本多記者は「捕虜を虐殺(据え物切り、斬首)」と書く。これならできるだろう、というわけだ。
 裁判所は「刀で百人を切ることは甚だ疑わしい。が、そのような事実が全くなかったとは考えられない」と。
 
 つまり、
「戦闘時の百人斬りは、甚だ疑問である」
「捕虜を坐らせて置いて、百人切るのも疑わしい」
「しかし、切ってないという証拠はない」
「一人も切ってないという証明もできない」
「百人斬りがなかったとは言えない」
だから、出版物を差し止めたり(回収ではない)、お詫びの広告を載せる必要はないし、本人、遺族の名誉毀損も不問、なのだそうだ。

 この論理は、
 「百人斬り」という名称が世に出た以上、その名の下で、一人でも死者が出たならば「百人斬り」は「あった」、ということであり、百人斬殺されたかどうかは大して意味はない。
つまり(?)、「百人斬殺されたのである!」
と似ています。

 「数千であろうが数万であろうが、虐殺という事実があったことが、問題なのであって、我々の心には三十万人が虐殺されたという記憶が事実となって残っているのだ。今は四十万人となっても、虐殺されたという事実(?)は消えない!」

 南京大虐殺、それにからむ百人斬り競争。
 「一件でもあったなら、あったという事実は消えない」
 だから、他国人は猛追する。そして、賠償を要求し続ける。

 しかし、向井、野田両少尉の遺族は、今も戦犯の子として、世間から蔑視され、行き続けねばならない。敗訴、というのは、そういうことです。

 蛇足になりますが、刀で100人殺すことは、可能です。
 それは、棍棒、木刀、包丁、タオルでも可能というのと、同レベルです。
 剣術の或る程度以上の腕の人なら、間違いなく
「百人?可能ですよ」と答えるはずです。
 しかし、
「同じ刀で百人を斬首することは可能ですか」
と聞けば、ほぼ全員が不可能と応えるでしょう。

 頸部の骨は、一番細いところで指の太さほどだそうです。
 それでも、煉瓦の数十倍と言われる硬さの骨ですから、幾ら切れ味の鋭い日本刀であっても、よほどうまく斬り込まねば硬度の高い切っ先はすぐ傷んでしまいます。(刀は切っ先三寸が命です。特に斬首の場合は。)

 中国軍事裁判はその判決理由から、「処刑のための裁判」ということが分かります。(日本女性の歓心を買う為に、人命をないがしろにした)
 が、遺族の起こした裁判は、裁判所によって「疑わしきは罰せず」の正反対、「百人斬りはなかったと証明できないから、あったことにする」といった判決です。

 我々は、素朴な疑問の声をもっと上げなければならないようです。
 「日本刀ってそんなに切れるの?」
 「人を毎日十人ずつ切れるもの?」
 「刀を持って切り込む、なんて本当にあったの?」


 もう一つ。これは事実です。
 三人の処刑時の写真が、本に載せられていて、そこの説明文には
「三人の殺人魔は『軍国主義のスローガン』を叫んでいた。執行の兵士は彼らの後頭部に向かって銃を発射し、三人は直ちに倒れて命が消えた。群集からは(略)歓呼の声がとどろいた」
 (ちなみに、この本は1998年刊。処刑は国民党軍がやっている)
 三人が叫んでいた「軍国主義のスローガン」。
 それは
「中国万歳 日本万歳 天皇陛下万歳」
だったことが明らかになっている。 


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言葉の優劣

2020年01月28日 | 重箱の隅
2010.01/30 (Sat)

 いつも何となく不満に感じていたこと。
 「これから日本人も世界に出て活躍しなければならないんだから、英語くらいはできなけりゃ」
というやつ。

 いいですよ、その通りだと思いますよ。
 でも、
「何で英語なんです?」
と聞いたら、
「だって英語は世界で一番多く遣われているでしょ?」
と返ってくる。
 「何で一番多いんです?」
「英語が優れているから、じゃない?」
 これ、英語教師の言葉ですよ。
 じゃ、日本語は劣っているのか!

 でも、
「シナ人が一番多いんだから、英語よりも、、、。」
これは駄目です。
 漢字を遣っているというだけで、発音も語句も北と南、チベットに近い辺り、と全く違って、通訳がなけりゃ話にならないって聞きました。

 確かに、英語が一番多く遣われているというのは、間違いない。英語なら何とか通じるところが多い。

 けど、ドイツ語なんかに比べて文法だって例外みたいなのが多いし、表記と発音の関係だって、日本人から見たって
「訛ってるんじゃないか?」
と感じるくらい綴りと発音が違う。

 単に「通用する場所が多い」、というだけで、「優れている」なんて決め付けられたんじゃ、たまったもんじゃない。

 早い話、「英国が一番多く植民地を持っていたから」。
 理由なんてそれだけですね。宗主国の言葉を分からなければ、生きていけないから。
 その伝でいけば、アフリカはフランスを宗主国とする国が多かったので、未だに公用語はフランス語、というところもあるみたいですし。以前よくテレビに出ていたオスマン・サンコンさんはフランス語が公用語だと言っていたように思いますが。

 それぞれの国で「英語でなけりゃ駄目」とか「我が国の公用語はフランス語」と命令が出されたわけではない。台湾で日本語を公用語にする、としたわけではない。ただ、自然の流れでそうなった。

 言葉に優劣はないけれど、通用する度合いは確かに違う。

逆に、音楽をやるならイタリア語、絵ならフランス語、医学ならドイツ語を習わなければ、と言われた時代もありました。
 音楽の世界はイタリアが最先端をいっており、絵画ならパリが舞台、医学はドイツが一番進んでいたから、「それを分らなければ生きていけない」。そんな時代があったんです。
 
 今、日本の「カワイイ」文化が、ヨーロッパで流行っている、と聞きました。
 そのための言葉は全て日本語。
 だから、その方面の話や研究は日本語なしでは成り立たない。

 さて、時代に追いつき、追い越すために、日本は明治時代、先進各国から多くの言葉、概念を学び、遣おうとしました。だから、翻訳語、意訳語をつくったのです。

 哲学も物理学も化学も、みんな日本にはなかった概念です。美術、藝術だってそうです。全て新造語です。

 「人民の人民による~」の「人民」も、
「デモス」と「クラシー」を「民主主義」(ただ、これは誤訳だそうですが)としたのも、
「パブリック」を「共和」(これもちょっと苦しいとか)としたのも、日本の仕事。


 「知ってるよ」?

 日本がこれらの語を日本語に訳した、漢字で表記した。

 そのおかげで
「中華人民共和国」や
「朝鮮民主主義人民共和国」という国名が生まれた、ということ。

 日本語(日本の学者による翻訳語)がなければ、上記の二国は、まだそれだけの実力がなかったので、国名は一体どうなっていたでしょうね。

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「やちまた」  ②

2020年01月28日 | 心の持ち様
2010.04/29 (Thu)

 前回「しっかり見詰める姿勢と教養があれば、他に抜きん出たことができる好例」、として書き始めました。そちらから続けて見ていただければ、助かります。

 父、宣長はその成長に期待していました。
 ところが、いよいよ本格的に学者として、となる頃。三十二歳。
 学者なら、本の一冊も書き上げていておかしくない年齢。
 いよいよこれから、という時に、春庭は失明します。
 
 宣長の落胆振りは想像するに余りあるのですが、実際に何も見えなくなって将来の道を断たれた気分になった、当の春庭の受けたショックはいかほどだったでしょうか。
 運動選手の身体が、ほんの少し思い通りにならなくなれば、その選手生命は断たれたと言う事になります。
 耳が聞えなくなったベートーヴェンがどれだけ苦しんだか。
 文献を読んで、比較研究することを重要手段とする学者が、「失明」する、というのは、普通に考えれば学究生活の終焉を意味します。

 宣長は医者です。落胆はしたけれども、これがどうにもならないことも十二分に承知しています。誰にも文句はつけられない。何もしてやれない。でも、将来を嘱望していた、自慢の我が子、です。
 落胆している気配を表に出したら、一番苦しむのは、我が子、春庭です。だから、平静を装わなければならない。苦しい。
 春庭も同じです。こんな病気になって、折角、父が期待してくれていて、自分も、学問の道を、本気で歩むつもりでいたのに。口惜しい。
 父にすまない、と思う。いっそ、父が、残念だとでも言ってくれたら、と思うが、父は、落胆している素振りさえ見せない。でも、自分には父の気持ちが痛いほどわかる。今だって、世の中には、こういう家庭は、たくさんあるのかもしれません。

 春庭は悩みました。そして、どうしたか。
 学問の道を諦めることはありませんでした。
 「本は家人に読んでもらえば良い。一度で覚えてしまえば良い。集中したらできる筈だ。」

 塙保己一(はなわほきいち。ほきのいち、とも)という盲人の学者は、一度読んでもらったら、全て覚えてしまった、といいます。
 そして、その抜群の暗記能力を活かして、「群書類従」という六百七十冊近い大部の古典全集をつくっています。
 「彼は彼、我は我。できる何かがある筈だ」

 そして、父宣長が研究していた国「語学」、言葉(詞)の一つ一つの変化についての考えを深めていくことにしました。
 父は物の形、姿(容)に関する言葉(詞)の変化についての研究をしていたのですが、春庭は物の「動き」に関する言葉(詞)の変化に関しての研究を進めました。
 つまり、父宣長は「形容詞の活用」ということを考え始め、子春庭は「動詞の活用」を整理したのです。
 これは、日本語文法の体系作りの初め、となります。

 はるか鎌倉の昔、藤原定家によって、仮名遣いの大筋が明らかにされました。
 定家式仮名遣いと呼ばれたその仮名遣いは「旧仮名遣い」として、今でも「新仮名遣い」よりも正確なもの、とされていますが、文法の中心となる「用言の活用」についての概念ができたのは、数百年後、この宣長、春庭父子から、です。
 現代の日本語文法の中心は、江戸時代、この親子二代の国学者によって立てられた、と言えるでしょう。

 春庭は、「詞八衢(ことばのやちまた)」という動詞研究の本を書き上げました。
 「活用の法則」を、日本で初めて著わしたものでした。
 32歳で失明して、12年。44歳の時でした。
 「一途に思い続ける」というのは、言葉で言うほど簡単なものではありません。「彼は彼、我は我」も同じです。
 でも、やらなければ前には進めない。
その気になっても、才気に溢れていても、こつこつと「努力」の二文字を刻み続けなければ、先に進めない。 
 誰も見ていなくたって、やらなければ。


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「やちまた」  ①

2020年01月28日 | 心の持ち様
2010.04/29 (Thu)

 「やちまた」という言葉があると知ったのは、三十近くになってからだったでしょうか。
 何となし、「八岐大蛇(やまたのおろち)」みたいな言葉だなあ、と思って、いくつにも分かれているのかなと考えていました。当たらずと雖も遠からず。「八衢」と書く、この言葉の意味は、色々な方向に分かれていくことを指すのだそうです。

 さて、或る時、書店で目に留まったのが、この「やちまた」という題名の本でした。書名は誰でも工夫をするのでしょうが、背表紙に平仮名で「やちまた」は結構目立ちます。
 開いてみると、随分真面目そうな本です。相当な厚さで、また、中味も学術書かと思うくらい堅苦しそうな文が並んでいました。どうも、本居宣長のことが書いてあるらしい。

 で、「やちまた」って、何だ?

 主となるものは、本居宣長と、その子、春庭(はるにわ)の話。
 「へえ~、子供が居たのか。別に居ても不思議じゃない、か。」

 今日、これを書こうと思ったのは、いつも通り、
「情報が新しい物でなくとも、しっかりと見詰める姿勢と、教えられることによって培われた教養があれば、十分とはいかずとも、他に抜きん出たことができるという好例」、と思ったからです。

 本居宣長が高名な学者であることは御存知の通りです。
 我が国では、漢学は昔から盛んに取り組まれて来ましたが、そこから分かるのは漢民族の優秀なことばかり。
 では、日本人は優秀ではないのか。そんなことはない。それどころか、日本には漢学に劣らないものがあるではないか。
 漢学の中心が漢文、唐詩なら、日本には万葉集がある。
 続けて古今、新古今、源氏物語のような名作もある。
 では、それを研究することで日本を知ろう、日本の良さを見出そう。
 いつしか、そういう人が世に出てくるようになりました。

 漢民族の物の見方から見える「心情」を「漢心(からごころ)」、我々の物の見方から見える「心情」を「大和心(やまとごころ)」。
 「大和心」をさぐれば必ず「漢心」が大きく影響していることに気付きます。
 その、漢心に影響されたらしい部分を取り除き、取り除き、していくことが、「大和心追求の旅」となり、それは、「漢学」に対し、「国学」と言われるようになりました。

 国学者。
 初めの方は荷田 春満(かだのあずままろ)、契沖、賀茂 真淵、辺りですが、何と言っても「国学」、と言えば、本居宣長。国学の巨人です。国学を集大成した大学者です。

 医業の傍ら、小さな二階の書斎に籠って研究に耽り、長時間の勉学に疲れた時は、柱に懸けてあるいくつもの鈴がついた紐を揺すって鈴の音を聞き、疲れを癒した、と言われています。
 この、鈴が好き、ということから、書斎につけた名前が「鈴乃舎(すずのや)」。
 それで、宣長のことを「鈴乃舎大人(すずのやのうし)」と言います。

 さて、「松阪の一夜」の後、ますます研究に精進した宣長は、「国学」のあらゆる方面について研究するようになり、国「文学」のみならず、国「語学」の研究もするようになります。
 そこで、「言霊の研究」と言ってもいいのでしょうか、「言葉、そのもの」の研究も、始めます。
 
 漢学のための「漢文」と我が国の「文(ふみ)」は、全く違う特徴を持っている。
 漢文は漢字を必要に応じて並べるだけだが、我が国の場合は、並べられる言葉そのものが、必要に応じて、形を変える。これは我が国だけの特徴らしい。
 そして、面白いのは、物の動きをあらわす言葉と並んで、物の様子(容、形)をあらわす言葉が、随分と大きな働きをしていて、漢文にはないダイナミックな文をつくるらしい、というところまで、明らかにします。

 つまり、和歌、古事記、源氏物語等の研究から「文法」の存在に気付いた、というわけです。
 「文法を習って、文法を理解する」のではない、
 「文を読んで、文法の存在に思い至る」のです。現在、一般に行なわれている学問の、逆です。
 普通は整理され、まとめられたものを説明を受けることによって理解し、覚え、実際に応用して、我が物にします。

 宣長の時には、教科書はありません。整理も、まとめも自分でしなければならない。

 「研究ってのは、そういうもんだよ」と言われそうですが、「決して参考書に頼れない」、今で言えば「ネットで検索、ができない」ということが、どれだけ大変なことか、ということには、思いを致すべきでしょう。

 宣長は、ごく当たり前に、自然科学的手法を以って学問を深めたと言えます。


 春庭は、宣長が、三十三のときの子供です。考えてみれば、医業を営む傍ら、とは言え、家業よりも国学に熱中していた、と言われる宣長の子、です。
 普通なら、仕事より、趣味に一所懸命、というのはあんまり尊敬されない気もしますが、そうでもないようです。
 それが生き方ならば、趣味であっても没頭しているお父さんを男の子は尊敬するみたいです。

 春庭も、研究者としての、父の背中を見て育ったためか、とても利発で、宣長も自分の研究を、純粋に尊敬の念で見詰めてくれる我が子を、可愛がったのでしょうか。幼少期から、付きっ切りの家庭教師のようにして、写本などをさせていたようです。現存する、鈴乃舎の写本はほとんど、春庭が書いた、と言われています。

 「家業と合わせて、国学の研究も後を継いでくれるようだ」。

 宣長の気持ちはどんなだったでしょう。

 一つだけ、気になるのは眼病を患い、視力が落ちてきていたことです。

(次回に続きます)
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