CubとSRと

ただの日記

完勝(まるがち)を本気で目指すなら

2020年01月25日 | 重箱の隅
2010.01/21 (Thu)

前回の「Reconsideration of the History」の続き。

 今回は、no 176
 「李氏朝鮮は何から独立したのか」からです。

 ソウルの西大門(ソデムン)区に「独立門(トンニムムン)」という門があるそうです。何でもパリの凱旋門を模してつくったのだとか。
 1963年には韓国の史跡に指定されているということです。門の名前は初めから「独立門」。
 
 韓国民の多くは、この門が朝鮮半島を36年にわたって支配した日本からの独立を記念して建立されたと思っているのだそうですが、韓国政府はこれ(何となくそう思っているとんでもない誤解)を、積極的に正そうとはしていない。

 独立門の定礎は1896年(明治29年)、完成は一年後の1897年(明治30年)。
 「日本からの独立」なら、1945年(昭和20年)でなければ、話が合いません。更に、日韓併合条約は1910年(明治43年)。
 一体、どこから独立したというのか。

 もう、引き伸ばすのは無理ですね。そうです。「大清帝國」から、です。
 1894(明治27)年、日清戦争が日本の大勝で終わった時、下関で結ばれた講和条約、その初めに、「清国は、朝鮮国を独立国として認めること」という一条があります。 
 司馬遼太郎をして
「自国のことを後回しにして、他国の独立を、などという条約を締結する国が他にあろうか」
みたいなことを言わしめた、まさに「坂の上の雲」の世界そのままの日本が、独立させたのです。

 この条約によって、新羅の昔から、ずう~っとシナの属国として生きてくるしかなかった朝鮮が、突然に「独立できた!」のです。
 大韓帝国の独立は1897年。
 「独立門」建立に取り掛かったのが1896年、完成が1897年。
 
 さて、では何故、日本に感謝しこそすれ、嫌悪感など持つはずはない、と思われる韓国が、今、「独立門」を「日本からの独立記念の門」と思っている、思い込もうとしているのか。 

 かつて、この場所には、全く違う目的のために建てられた門があったのだそうです。
 その名は「迎恩門(ヨンウンムン)」。何となく感じはわかるでしょう。この門は清国皇帝の名代(勅使)を迎えるための門でした。
 朝鮮国王は、清の家来(臣下)なのですから、名代も臣下なら自分も臣下。「同じ位」ということになります。しかし、相手はこの時、皇帝の「名代」です。
 
 朝鮮国王は、王城を出て、町外れのここまで「名代を迎えに」来なければなりません。
 そして、自分と同じ位である清国皇帝の臣下に、清国皇帝に対するように三跪九叩頭(跪いて、頭を地面に三回つける。それを三回繰り返す)の礼をしなければならない。

 国では王として君臨している我が身が、町外れまで「他国」の、使節とは言え同位でしかない者を迎えに行き、更に、こんな屈辱的なことをして見せなければならない。
 圧倒的な軍事力の前に、手も足も出ないどころか、組敷かれて身動きもできない、踏みつけられたままの状態が、新羅の昔から続いている。

 脱線しますが、中国地方の大半を治めていた毛利氏が、関が原の合戦で敗れ、長門の国一国に押込められていた江戸時代、「毛利は馬鹿殿ばかり」と言われ、事実殿様は代々鼻毛を伸ばして、いつも口を開けていたそうです。
 それが、正月の一日、毎年のしきたりとなっていることがありました。
 家老が年賀の挨拶に登城した時、家老は人払いをして殿様と二人きりになり殿様にこう言う。
 「殿。そろそろようござりましょうか」
 すると殿様は応えて
 「いや、いま少し待て」
 「ははっ」。

 関ヶ原の屈辱を忘れない。時機が来れば兵を挙げ幕府を倒す。
 実際、長州戦争が起こり、ついに薩摩と同盟を結んで倒幕の中心的役割を果しました。大変なことではありますが、朝鮮と清の間ではとても考えられないことです。

 では戻ります。

 独立を記念する独立門は、どこに建てるか。
 屈辱の象徴である「迎恩門」をつぶし、そこに建てるのが一番だ。これで、積年の怨みは晴れる、独立を勝ち取った(?)喜びを、常に味わえる。

 それが、独立したと思ったら、すぐに、「日韓併合」、です。
 現実問題、自分たちが指一本動かすこともできなかった「清という重石」を、簡単に取り除いてくれた日本です。「独立」はしたものの、何も十分なことのできない自分たち朝鮮民族の土地で、信じられないくらい合理的で仕事の早い日本人が、急速に朝鮮を作り変えていくことに驚いているしかありません。
 「これだから清に勝てたのか」と分かった時、自分たちより下位の国と思っていた日本に、自分たちは到底太刀打ちできないという事も分かります。これは両班層には屈辱です。
 日韓併合から、二度目の(まさかの)「独立」までの36年は、朝鮮民族の「独立」の思いが全国民に浸透していった時期でしょうから、「属国」時代とは別の意味での「屈辱の時代」と言えるでしょう。
 この「屈辱」と感じる心は日本が教え、育てたと言っても良いでしょう。「力づく」に対する口惜しさだけだったのが、「ちから、技能、精神」全てに自分たちは劣っている、と。
 
 だから、二度目の「独立」は明治30年の時以上にうれしいし、くやしかった。日本に世話になったという記憶を朝鮮半島から消してしまいたい。

 ブログ主の結びの言葉は、忘れてはならないでしょう。以下の言葉です。

 「甘やかすにしろ、厳しく接するにしろ、どちらに転んでも結果はそのまま、日本へと帰って来ます。そのことだけは充分肝に銘じておくべきと言えるでしょう。」

 隣国に限らず、他国に対する時は覚悟が必要です。
 甘く接すると、付け入られて命まで奪われることになるかもしれない。
 それに対して「あんなによくしてやったのに騙された!」、と怒るのは筋が違う。自らが蒔いた種です。相手はただ「有難迷惑だ」と思っていただけなのかもしれない。
 (尤も、普通は迷惑だ、なんて口にしないし、恩義には感じているものですが。呆れるしかないような国もある、かもしれない。)
 だからと言って(良かれと思って)厳しく接するだけなら、煙たがられて距離を置かれるかもしれない。
 「親しくされないから寂しい」、なんて言うヒマがあったら自国の発展に力を注ぐことが一番の近道なのかもしれません。



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2020年01月25日 | 重箱の隅
2010.01/19 (Tue)

 「Reconsideration of the History」というブログに、
 no,210
 「コリアンに問う!!民族固有の名前を捨て去ったのは自分たちではなかったのか?」
という小論文があります。

 意外と知らないことではないかと思ったので、ちょっと紹介してみます。


 その前に。
 まず、この題名から分かるように、学校では
「日韓併合時、韓国は日本になったのだからと、名前を日本風のものに『直す』政策が採られた。これを『創氏改名』と呼ぶ。学校では日本語を教えた。結果、韓国の文化は途切れ、衰退していった。」

 こんな授業が行なわれた筈です。

 これ、間違いではありません。「そのとーーり!」なのです。
 そして我々は罪の意識に悩む。
 「名前も文化も奪うなんて、我々は韓国、朝鮮に対してなんてひどいことをしたんだ。いくら謝っても足りない、万死に値する。我々の先祖の罪は我々が償っていかねばならない!」

 大和民族というのはなんて素晴らしい民族!そして、百万回死んでも直らない「お人好し」民族!。
 あほらしさを通り越して、感動しすぎて泣けてくる。こんな神様か仏様のような民族の存在は人類の奇蹟だ。日本人に生まれて本当に良かった。
 
 取り乱してしまいましたが、本題に戻ります。

 これを習った時、「?何か変だぞ?」とは思っていたのです。でも、何が変なのか分からなかった。

 私の子供の頃、隣の家も、そのまた隣の家も(と言っても、その二軒だけですが)朝鮮人の家でした。長屋の一軒と、大きな、邸宅とまではいかないけれど裕福そうな家の違いはありましたが、両家とも通称(日本名)を名のっていました。勿論、ごく普通に近所づきあいをしていたし、彼らの方も地元民として普通に生活をしていた。そして、結婚式などは朝鮮式のもので、旧来の文化をなくしたわけでもない。
 何よりも、当時の(私の周囲の)日本人にも、彼ら朝鮮人にも、「名前、文化を奪った」とか「名前、文化を捨てさせられた」とかいった意識は全く感じられなかったのです。
 
 そうです。罪の意識を持つようになったのは、学校で教えられるようになってから、なのです。

 上記のブログには「創氏改名」の締め切り(?)が近い、と改名を勧める(命令、促す等でなく)宣伝ビラが載せられています。
 「これを過ぎると改名はできませんよ。」とは書いてあるけど、改名をしなかったら、罰が与えられるというものでもないらしいのです。
 意地の悪い見方をすれば、「そう(改名)せざるを得ない状況に追い込んで行っている」とも言えます。そうとっても不思議ではない。ただ、帝国議会にも、帝國陸軍にも、朝鮮名の国会議員、将官は多数居たそうですから、やはり「強制して改名させた」と言うのは無理がある。

 更に、改名しなかったからと言って、日本に不利益になるわけではないし、改名したからと言って日本に利益があるわけでもありません。意識の低い、日本人一般庶民がいじめの対象にする可能性はありますが。
(ただ、そんな人々は改名してもいじめるでしょう?「あいつは朝鮮人のくせに日本人名をつけて」って。)

 実は、問題は、ここではない。創氏改名は日韓併合の後、初めて行なわれたのではない、のだそうです。
 日韓併合時の場合が、強制ではないように、朝鮮民族は唐の時代から、それまでの朝鮮固有の名前を捨てているのです。

 新羅は唐の力を借りて朝鮮半島を統一しました。統一後、独立国として生きようとしたのですが、唐が許す筈もなく、その強大な軍事力の前に破れ、属国となったのです。それ以来、高麗も、李氏朝鮮も、シナの属国として生きることを余儀無くされた。元の時代にはモンゴル風、だったのが以降はシナ風の一字姓が当たり前になり、大韓帝国の時代まで続いたのだそうです。
 
 ということは、
「日本が我々朝鮮民族の大事な名前を奪った」
という以前に、はるか昔に、自らが名前を捨てた過去をどう捉えているのか、ということこそが問題なんです。
 気の毒なのは分かっています。大陸につながる半島の住民でなければ、千数百年にわたって属国だなどという理不尽な歴史は持たずに済んだのかもしれません。日本のような島国だったらとは思います。
 でも、だからと言って、偽りの歴史を持とうとすれば、過去はともかく肝腎の「未来が歪んでしまう」ことを、考えなければならないし、我々も偽りを受け入れてしまえばどうなるのかということを、考えなければと思うのです。

 我々もまた、偽りの歴史を持てば(受け容れたなら)、未来を歪めることになる。
 天皇陛下が、どこの国とも公平、平等に接するよう勤められるのを思い出すまでもなく、人間の尊厳を認めるなら、国と国との間は発展の度合いに関係なく常に対等であるべきで、土下座外交も朝貢貿易もあってはならないのです。
 偽りの歴史は、押し付けることも受け入れることも、歪んだ未来を拓くことにつながります。それは当事者の二国間にとどまらず、世界を歪めることにもなりかねません。


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武士は食わねど、、、、。

2020年01月25日 | 重箱の隅
2010.01/11 (Mon)

 2回続けて福澤諭吉のことを書きましたが、今回で終わります。
 終わるにあたって。
 
 私は福澤諭吉を好きなわけではありません。嫌いとまでは言いませんが。どちらかといえば、、、、。
 ただ、尊敬している部分があるから書いたのです。
 
 「できなくて、気持は焦るけれども、それを表(面)には出さず、こつこつと正しいことを積み重ねていく」
 
 おそらくは彼が武術修業で得たであろう感覚が、実際の「行きかた(あえてこう書きます)」にそのまま出ている。
 「瘦せ我慢の説」で勝海舟や榎本武揚を批判している、「武士(士)の在り様とは」という観かたが、彼は少しも揺るがない。

 「江戸の城、街を戦禍から救ったのは立派だ。だが、貴方の幕臣としての在り様は何だ。刀も抜かず、戦いもせず、それでも武士か。武士とは主君のために命を捨てるもの(瘦せ我慢)、ではないのか。」
 「正義に付くのをいけないと言うんじゃない。しかし、貴方を信じて箱館(函館)で命を捨てた者に対して、新政府に出仕することを、貴方はどう言い訳するのだ。(なぜ瘦せ我慢をしないのか)」

 今、平静に考えると、この「瘦せ我慢」、言葉通りに、「堅苦しい」を通り越して意固地なくらいの融通の利かなさです。しかし、当時の社会を考えるとどうでしょう。
 我々日本人の心の拠りどころは当時、一体どこにあったのでしょうか。

 今の我々には、世界でもトップクラス(いや、トップかもしれない)の、多方面にわたる技術、そして高度の文化があります。何より、世界で最も古く、類例のない天皇陛下と皇室の存在。心身両面にわたって、これだけのものを持つ国民が我々です。

 対して、諭吉が「瘦せ我慢の説」を書いた頃の明治初期の日本は?
 幕末までは、少なくとも江戸の町民は、天皇陛下なんて知らない。
「天子さまって、どれくらい偉いんだい?」
「お稲荷さんの幟(のぼり)が一位って書いてあるだろう?」
「ああ、知ってるよ」
「その位は天子さまが下さるんだとよ」
「へえ~。じゃ、神様より偉いんだ」
「そうだよ。」
「じゃ、公方さまよりも偉いんだ」
「そうだよ」
 どこかで聞かれたことがあるでしょう、小噺みたいなこの説明。
 
 その上に西洋諸国は、技術だって、文化だって、見聞するありとあらゆるものが、当時の日本より、はるか高いところにあった。いくら手を伸ばしたって届かない。

 本当のことを言うと、少しでも教養のある人は、彼我の格差の尋常でないことを見せつけられ、絶望のどん底であえいでいた筈なんです。
 何一つ勝てるものがない。「これはどうだろうか」と持ち出してみても、西洋の文物の前では途端に色褪せ、みすぼらしく見えてくる。

 ここです。「福澤諭吉はえらい」と思うのは。
 彼は劣等感に苛まれるギリギリのところで踏みとどまって
「焦るけれども、表(面)には出さず、正しいこと(できること、しなければならないこと)をこつこつと積重ねて」いったのです。

 「力がないのだから、それは素直に認めよう。同時に努力を重ねよう。」
というのが正しい態度でしょうが、そんな余裕は普通、持てるはずはありません。
 でも、焦る気持を何食わぬ顔で隠し、今まで通りのことをする(瘦せ我慢)。これならできます、あれです、「武士は食わねど高楊枝」。

 諭吉はこれを押し通します。徹底して、自分は瘦せ我慢を通します。
 
 
 さて、今、我々はどうでしょう。
 さっき、「天皇陛下、皇室、高度な文化、高い技術がある」と書きました。でも、それは我々の一人ひとりが努力して手に入れたものではありません。我々の先祖、先達、先輩がつくり上げ、磨きあげ、伝え続けてこられたものです。
 
 今度は我々の番です。テレビ、新聞、雑誌は言うまでもないこと、ネットにだって振りまわされてはならない。状況は、幕末、維新の頃と本質的にはあまり変っていません。分かっているようで分からないことだらけ。調べれば調べるほど答えがぼやけていきます。

 あの頃は「和魂洋才」と唱えました(「せめて心は」です)。究極の「瘦せ我慢」です。
 
 今こそ和魂を奮い立たせる時です。
 「正しいこと」を「真っ直ぐ」に。
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「見る力」

2020年01月25日 | 重箱の隅
 前回に続き、福沢諭吉のことです。

 慶応義塾をつくり、教育界の重鎮となり、又、啓蒙家としても大きな仕事を成し遂げた諭吉も、晩年を迎えると、さすがに身体の調子も悪くなります。
 ついに、このままではいけないとなった時、諭吉の弟子で、今は立派な医者となった人が診察をすることになりました。
 
 その医者は諭吉の身体を丹念に診て
「先生も、もうお歳なんですから、あまり無理をしない様になさってください。特に、力仕事は身体に堪えますから」
と言ったそうです。
 すると諭吉は
「そりゃ、困ったな。私は毎日、自分の食い扶持は唐うすで搗いているんだが。それに居合いの稽古も日課だ」
と応えました。
「それはいけません。おやめなさい。」
「そういうわけにはいかん」
「それじゃ、負担の大きい方をおやめになったらいかがですか。」
「どっちだ?」
「米を搗くのは大変だから、そちらを止められたらどうでしょう。」

 「何だ、お前は、わかったようなことを。米を搗くのと居合いとでは、居合いのほうが数倍大変なんだ。藪医者め」

 結局、米を搗くことも、居合いの修練も続けたのだそうです。

 福澤諭吉は、滴塾で蘭学(というよりオランダ語、でしょうか)を学び、英語の必要性を痛感して、猛勉強をし、ついには英語学校をつくったのですが、滴塾に居たとはいえ、この弟子の医者以上の、医学、医術に関する技量を持っていた、とは考えられません。
 それが、弟子だったとは言え、医者の診療方針を聞かない。
 頑迷なただの老人ではありません。そこには「推論」でなく(誤解を恐れずに言えば)、実証主義的な物事への対面姿勢があったようです。

 「何を、思いっきり推論を言ってるんだ?」と失笑されるかもしれません。
 反対に、
「うん、そうだろうな、きっと」
と思われる方もあるでしょう。

 簡単な理由です。若い時から「居合い」を学んでいること、それを生涯続けていること。そして、相当な腕前だったこと。これが証拠です。
 居合いは、相手に対して行うものですが、ほとんどの流儀は通常、一人稽古です。立身流も、居合いに関して言えば基本は一人です。

 戦うための「武術」なのだから、練習相手が居る方が良い。
 けれど、武術は自分の身捌きが全てを決定してしまうのだから、身捌きをつくりあげるためには、なまじ相手などは、ない方が良い。
 居合い、抜刀の術は精緻な身捌きが要求されます。表現するのは、自分であり、教えたり、修正したりするのも自分です。自分が感じたり考えたりしたことが、全てを決定します。
 
 前回、書いたように、諭吉は相当な腕前です。
 「正しいことをこつこつと積み重ねるしか方法はない。」
 居合いも、オランダ語も、英語も、同じ方法で手に入れています。

 他所から持ってきた知識ではない。聞きかじりでも、知ったかぶりでもない。「愚直なまでに」、と見えます。
 
 ただ、諭吉は「信じて」行なうのではなく、「(手ごたえを)感じて」行なって
いた。

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まずは生兵法

2020年01月25日 | 重箱の隅
2010.01/10 (Sun)

 昔、福沢諭吉が、知人の軍学者を訪ねた時のことです。

 まあ、幕末当時の軍学者、といえば、今の軍事評論家、とはちょっと違って、国の在り方から、外交、政治、軍事等、色々なことに詳しくて、よく言えば啓蒙家、悪く言えば煽動家。その分、熱心な信者もいれば、論敵もいて、命を狙われるおそれもあったのだそうです。

 さて、諭吉が部屋に入ると、床の間に、刃渡り三尺を優に超えるであろう大刀があった。
 普通の刀は刃渡り二尺二寸から二尺四寸(66センチから72センチ)です。三尺(90センチ)を超える大刀、というのは、腰にした状態から抜く、ということになると、相当な修練が必要です。

 驚いた諭吉が、
「これを遣えるのか」
と聞くと、軍学者は
「何、用心のためだ。これを置いておけば、そう簡単には誰も手を出すまい」
と笑って答えた。
 それを聞いた諭吉は「そうか」と頷いて、その刀を手にし、続けざまに二、三度、抜刀、納刀をやって見せた。

 その刀捌きに、軍学者が驚いて何も言えずにいると、
「この程度(自分の腕前)では、とても、実際の時には遣えない。却って、危険だから、貴殿は片付けられた方が良かろう」
と、忠告した。

 実は、福沢諭吉は立身(たつみ)流という居合い(抜刀術)を、豊前中津藩藩士時代から修練しており、記録から見る限り、かなりの腕前だったようです。
 立身流自体は定寸の刀(二尺四寸前後)を使いますから、三尺の刀を抜き差しするということは、おそらく初めてのことだったでしょう。
 その刀を少なくとも雑作なく(自然に)扱って見せた。相当な技量です。

 当然、諭吉はこう言いたかったのです。
 「普通の刀でさえ、満足に、遣えない者が、これ見よがしのことをすれば大怪我をする。」
 身の丈に合わぬ大法螺を吹くのはやめろ、と言いたかったのかもしれません。

 「まずは、確実に、こつこつと正しい取り組みをしよう。そうすれば、分からないことも少しずつ分かるようになり、できなかったことも、少しずつ、できるようになる。」
 「できないことがあっても、焦っていることを外に見せず、こつこつと、ひたすら努力し続ける。」

 「痩せ我慢の説」で勝海舟、榎本武揚を批判した諭吉の考えがここに見えます。

 
 この軍学者は、確かに、この幕末を余りにも大拍子(大雑把)に生きている。自分の命はもっと大事に考えなければ。
 いや、現代も同じだ。この軍学者と同じく啓蒙の姿勢は必要だ。同時に、そこには煽動家の側面もある。
 そして、諭吉が武術修業で身に着けた「焦っていても外には見せず、ひたすら精進を続ける」姿勢。

 初めは「生兵法」でしかありません。格好だけです。でも、それは仕方がないことです。格好だけで中身がないのを、気にして焦る。焦りながら、外には見せず、こつこつと努力をする。
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