2010.01/21 (Thu)
前回の「Reconsideration of the History」の続き。
今回は、no 176
「李氏朝鮮は何から独立したのか」からです。
ソウルの西大門(ソデムン)区に「独立門(トンニムムン)」という門があるそうです。何でもパリの凱旋門を模してつくったのだとか。
1963年には韓国の史跡に指定されているということです。門の名前は初めから「独立門」。
韓国民の多くは、この門が朝鮮半島を36年にわたって支配した日本からの独立を記念して建立されたと思っているのだそうですが、韓国政府はこれ(何となくそう思っているとんでもない誤解)を、積極的に正そうとはしていない。
独立門の定礎は1896年(明治29年)、完成は一年後の1897年(明治30年)。
「日本からの独立」なら、1945年(昭和20年)でなければ、話が合いません。更に、日韓併合条約は1910年(明治43年)。
一体、どこから独立したというのか。
もう、引き伸ばすのは無理ですね。そうです。「大清帝國」から、です。
1894(明治27)年、日清戦争が日本の大勝で終わった時、下関で結ばれた講和条約、その初めに、「清国は、朝鮮国を独立国として認めること」という一条があります。
司馬遼太郎をして
「自国のことを後回しにして、他国の独立を、などという条約を締結する国が他にあろうか」
みたいなことを言わしめた、まさに「坂の上の雲」の世界そのままの日本が、独立させたのです。
この条約によって、新羅の昔から、ずう~っとシナの属国として生きてくるしかなかった朝鮮が、突然に「独立できた!」のです。
大韓帝国の独立は1897年。
「独立門」建立に取り掛かったのが1896年、完成が1897年。
さて、では何故、日本に感謝しこそすれ、嫌悪感など持つはずはない、と思われる韓国が、今、「独立門」を「日本からの独立記念の門」と思っている、思い込もうとしているのか。
かつて、この場所には、全く違う目的のために建てられた門があったのだそうです。
その名は「迎恩門(ヨンウンムン)」。何となく感じはわかるでしょう。この門は清国皇帝の名代(勅使)を迎えるための門でした。
朝鮮国王は、清の家来(臣下)なのですから、名代も臣下なら自分も臣下。「同じ位」ということになります。しかし、相手はこの時、皇帝の「名代」です。
朝鮮国王は、王城を出て、町外れのここまで「名代を迎えに」来なければなりません。
そして、自分と同じ位である清国皇帝の臣下に、清国皇帝に対するように三跪九叩頭(跪いて、頭を地面に三回つける。それを三回繰り返す)の礼をしなければならない。
国では王として君臨している我が身が、町外れまで「他国」の、使節とは言え同位でしかない者を迎えに行き、更に、こんな屈辱的なことをして見せなければならない。
圧倒的な軍事力の前に、手も足も出ないどころか、組敷かれて身動きもできない、踏みつけられたままの状態が、新羅の昔から続いている。
脱線しますが、中国地方の大半を治めていた毛利氏が、関が原の合戦で敗れ、長門の国一国に押込められていた江戸時代、「毛利は馬鹿殿ばかり」と言われ、事実殿様は代々鼻毛を伸ばして、いつも口を開けていたそうです。
それが、正月の一日、毎年のしきたりとなっていることがありました。
家老が年賀の挨拶に登城した時、家老は人払いをして殿様と二人きりになり殿様にこう言う。
「殿。そろそろようござりましょうか」
すると殿様は応えて
「いや、いま少し待て」
「ははっ」。
関ヶ原の屈辱を忘れない。時機が来れば兵を挙げ幕府を倒す。
実際、長州戦争が起こり、ついに薩摩と同盟を結んで倒幕の中心的役割を果しました。大変なことではありますが、朝鮮と清の間ではとても考えられないことです。
では戻ります。
独立を記念する独立門は、どこに建てるか。
屈辱の象徴である「迎恩門」をつぶし、そこに建てるのが一番だ。これで、積年の怨みは晴れる、独立を勝ち取った(?)喜びを、常に味わえる。
それが、独立したと思ったら、すぐに、「日韓併合」、です。
現実問題、自分たちが指一本動かすこともできなかった「清という重石」を、簡単に取り除いてくれた日本です。「独立」はしたものの、何も十分なことのできない自分たち朝鮮民族の土地で、信じられないくらい合理的で仕事の早い日本人が、急速に朝鮮を作り変えていくことに驚いているしかありません。
「これだから清に勝てたのか」と分かった時、自分たちより下位の国と思っていた日本に、自分たちは到底太刀打ちできないという事も分かります。これは両班層には屈辱です。
日韓併合から、二度目の(まさかの)「独立」までの36年は、朝鮮民族の「独立」の思いが全国民に浸透していった時期でしょうから、「属国」時代とは別の意味での「屈辱の時代」と言えるでしょう。
この「屈辱」と感じる心は日本が教え、育てたと言っても良いでしょう。「力づく」に対する口惜しさだけだったのが、「ちから、技能、精神」全てに自分たちは劣っている、と。
だから、二度目の「独立」は明治30年の時以上にうれしいし、くやしかった。日本に世話になったという記憶を朝鮮半島から消してしまいたい。
ブログ主の結びの言葉は、忘れてはならないでしょう。以下の言葉です。
「甘やかすにしろ、厳しく接するにしろ、どちらに転んでも結果はそのまま、日本へと帰って来ます。そのことだけは充分肝に銘じておくべきと言えるでしょう。」
隣国に限らず、他国に対する時は覚悟が必要です。
甘く接すると、付け入られて命まで奪われることになるかもしれない。
それに対して「あんなによくしてやったのに騙された!」、と怒るのは筋が違う。自らが蒔いた種です。相手はただ「有難迷惑だ」と思っていただけなのかもしれない。
前回の「Reconsideration of the History」の続き。
今回は、no 176
「李氏朝鮮は何から独立したのか」からです。
ソウルの西大門(ソデムン)区に「独立門(トンニムムン)」という門があるそうです。何でもパリの凱旋門を模してつくったのだとか。
1963年には韓国の史跡に指定されているということです。門の名前は初めから「独立門」。
韓国民の多くは、この門が朝鮮半島を36年にわたって支配した日本からの独立を記念して建立されたと思っているのだそうですが、韓国政府はこれ(何となくそう思っているとんでもない誤解)を、積極的に正そうとはしていない。
独立門の定礎は1896年(明治29年)、完成は一年後の1897年(明治30年)。
「日本からの独立」なら、1945年(昭和20年)でなければ、話が合いません。更に、日韓併合条約は1910年(明治43年)。
一体、どこから独立したというのか。
もう、引き伸ばすのは無理ですね。そうです。「大清帝國」から、です。
1894(明治27)年、日清戦争が日本の大勝で終わった時、下関で結ばれた講和条約、その初めに、「清国は、朝鮮国を独立国として認めること」という一条があります。
司馬遼太郎をして
「自国のことを後回しにして、他国の独立を、などという条約を締結する国が他にあろうか」
みたいなことを言わしめた、まさに「坂の上の雲」の世界そのままの日本が、独立させたのです。
この条約によって、新羅の昔から、ずう~っとシナの属国として生きてくるしかなかった朝鮮が、突然に「独立できた!」のです。
大韓帝国の独立は1897年。
「独立門」建立に取り掛かったのが1896年、完成が1897年。
さて、では何故、日本に感謝しこそすれ、嫌悪感など持つはずはない、と思われる韓国が、今、「独立門」を「日本からの独立記念の門」と思っている、思い込もうとしているのか。
かつて、この場所には、全く違う目的のために建てられた門があったのだそうです。
その名は「迎恩門(ヨンウンムン)」。何となく感じはわかるでしょう。この門は清国皇帝の名代(勅使)を迎えるための門でした。
朝鮮国王は、清の家来(臣下)なのですから、名代も臣下なら自分も臣下。「同じ位」ということになります。しかし、相手はこの時、皇帝の「名代」です。
朝鮮国王は、王城を出て、町外れのここまで「名代を迎えに」来なければなりません。
そして、自分と同じ位である清国皇帝の臣下に、清国皇帝に対するように三跪九叩頭(跪いて、頭を地面に三回つける。それを三回繰り返す)の礼をしなければならない。
国では王として君臨している我が身が、町外れまで「他国」の、使節とは言え同位でしかない者を迎えに行き、更に、こんな屈辱的なことをして見せなければならない。
圧倒的な軍事力の前に、手も足も出ないどころか、組敷かれて身動きもできない、踏みつけられたままの状態が、新羅の昔から続いている。
脱線しますが、中国地方の大半を治めていた毛利氏が、関が原の合戦で敗れ、長門の国一国に押込められていた江戸時代、「毛利は馬鹿殿ばかり」と言われ、事実殿様は代々鼻毛を伸ばして、いつも口を開けていたそうです。
それが、正月の一日、毎年のしきたりとなっていることがありました。
家老が年賀の挨拶に登城した時、家老は人払いをして殿様と二人きりになり殿様にこう言う。
「殿。そろそろようござりましょうか」
すると殿様は応えて
「いや、いま少し待て」
「ははっ」。
関ヶ原の屈辱を忘れない。時機が来れば兵を挙げ幕府を倒す。
実際、長州戦争が起こり、ついに薩摩と同盟を結んで倒幕の中心的役割を果しました。大変なことではありますが、朝鮮と清の間ではとても考えられないことです。
では戻ります。
独立を記念する独立門は、どこに建てるか。
屈辱の象徴である「迎恩門」をつぶし、そこに建てるのが一番だ。これで、積年の怨みは晴れる、独立を勝ち取った(?)喜びを、常に味わえる。
それが、独立したと思ったら、すぐに、「日韓併合」、です。
現実問題、自分たちが指一本動かすこともできなかった「清という重石」を、簡単に取り除いてくれた日本です。「独立」はしたものの、何も十分なことのできない自分たち朝鮮民族の土地で、信じられないくらい合理的で仕事の早い日本人が、急速に朝鮮を作り変えていくことに驚いているしかありません。
「これだから清に勝てたのか」と分かった時、自分たちより下位の国と思っていた日本に、自分たちは到底太刀打ちできないという事も分かります。これは両班層には屈辱です。
日韓併合から、二度目の(まさかの)「独立」までの36年は、朝鮮民族の「独立」の思いが全国民に浸透していった時期でしょうから、「属国」時代とは別の意味での「屈辱の時代」と言えるでしょう。
この「屈辱」と感じる心は日本が教え、育てたと言っても良いでしょう。「力づく」に対する口惜しさだけだったのが、「ちから、技能、精神」全てに自分たちは劣っている、と。
だから、二度目の「独立」は明治30年の時以上にうれしいし、くやしかった。日本に世話になったという記憶を朝鮮半島から消してしまいたい。
ブログ主の結びの言葉は、忘れてはならないでしょう。以下の言葉です。
「甘やかすにしろ、厳しく接するにしろ、どちらに転んでも結果はそのまま、日本へと帰って来ます。そのことだけは充分肝に銘じておくべきと言えるでしょう。」
隣国に限らず、他国に対する時は覚悟が必要です。
甘く接すると、付け入られて命まで奪われることになるかもしれない。
それに対して「あんなによくしてやったのに騙された!」、と怒るのは筋が違う。自らが蒔いた種です。相手はただ「有難迷惑だ」と思っていただけなのかもしれない。
(尤も、普通は迷惑だ、なんて口にしないし、恩義には感じているものですが。呆れるしかないような国もある、かもしれない。)
だからと言って(良かれと思って)厳しく接するだけなら、煙たがられて距離を置かれるかもしれない。
「親しくされないから寂しい」、なんて言うヒマがあったら自国の発展に力を注ぐことが一番の近道なのかもしれません。
「親しくされないから寂しい」、なんて言うヒマがあったら自国の発展に力を注ぐことが一番の近道なのかもしれません。