「何でツーリングをしたくなるんだろうねぇ」
これは以前に書いている。
そう、そぞろ神が憑いたからだ。道祖神の招きにあったからだ。
いやいや、「春立てる霞の空に白河の関越えん」、なんて、目的地も時期も関係ない。目的地や時期なんて浮気の言い訳みたいなもんだろう、本質はそこじゃない。
ただ、単純に一枚の絵が浮かぶ。
それは目的地か途中か、は関係ないけれど、間違いなくバイクに乗って、のことで、つまり、傍らにはバイクがある。
そこにそれなりの旅装の自分がいる。当然、現実の自分より百倍もカッコいい。
そのむちゃくちゃカッコいい自分がバイクに乗って、その世界に入っている、という絵を実現させたい。片雲の風には誘われるけれど、漂泊の思いは、さほど、ない。
そんなだから、所詮、ツーリングの中身なんて「どうでもいいこと」なのかもしれない。帰って来てメモみたいな日記つけたって、百倍もカッコいい自分はいなかったのを確認した後なんだから、結局はどうでもいい中身、いずれ忘れてしまうのだ。
・・・でも、性懲りもなく、帰って来た途端に、片雲の風に誘われるんですけどね。そして何日もしない中に、またカッコいい自分をバイクと共に絵の中に置きたくなる。
で、「カッコいい自分」、は置いといて。大事なのはバイク、なんですよ、やっぱり。
何故、「バイクと共に」一枚の絵の中に入りたいのか。
それはバイクに乗るのが「楽しい」から。楽しくないところに「カッコいい自分」を置いたって、楽しくもなんともない。
「快適」なのではない。ただ「楽しい」からだ。
「楽しい」だけのことなんだから、「別段どうでもよい」。メモなんか、日記なんか、要らない、「楽しい」だけなんだから。
で、「その時『楽しかった』、だけでいいじゃないか。何をわざわざ書き留めて置くことがあるのか」と思うのだけれど、「背伸びせずにどうする。カッコつけなくてどうする」、とも思うんです。
それに勿体ないんじゃなかろうか。「楽しかったこと」の中身を、「何が楽しかったんだろう」と「考えてみることの楽しさ」を捨ててしまって、「楽しかったこと」をいつか忘れ去ってしまうのは。
「楽しかった」と思うのは終わってからに決まってんだから、「あれが楽しかった」「これが楽しかった」と何度でも思い出す糸口はあった方が良いでしょう?
そうなると、これは行程表よりは「日記」が良い。思い出し方にいろんな面ができるから。
一人、僅か二時間余りの出雲往復で、誰と言葉を交わすこともなかったし、連休中のこと、人出を思って、出雲大社に参拝したわけでもなかった。
当然、観光客で混雑する神門通りに足を踏み入れたわけでもない。
最近、力こぶを入れて宣伝している「出雲ぜんざい」を食べたわけでもない。
羽根屋の蕎麦も、どうせ満員だろうから、と食べに行かなかった。
本当に往復しただけで、何一つ、これといったことはない。
「別段、どうでもいいツーリング」だった。
「でも、楽しくなかったか?」「楽しかった。」「何が?」「乗ってるのが。風にあたってるのが。」
風が冷たくなかった。行き来するバイクが結構いた。みんなそれなりに「旅の顔付き」をしていた。
道の駅「キララ多伎」の海寄りにSRを停めたら、いつの間にか海風が随分強くなっていて、
「同じ島根なのになぁ。三瓶に向かってたら、どんな風が吹いてたろう」
、なんて思った。
海沿いの道を走っていたら、道の駅で姿を見掛けたバイクが二台、追いついてきた。
ゆっくり走りたいし(ゆっくりしか走れないし)、と先に行くよう合図をしたら、追い抜きざまに型通りの礼のハンドサイン。
山口の西端らしいナンバープレートを見て、
「8時前に出たのかな?250みたいだけど、最近はタイヤが太くなったなぁ」
と感心し、SRのタイヤが細すぎるんだ、と可笑しくなり。
こんなことがみんな「楽しかった。」別段どうでもいいことばかりだ。
けど、このどうでもいいことを「楽しい」と感じるテンションの高さで、ツーリングの間は物事を見ているわけだ。良く言えば、全ての物事を積極的に、肯定的に見る姿勢を、この時は確かに持っている。
その時に見つけ出したことを書きとめて置けば。
そして、いつか読み返した時に、その感覚を思い出すことができれば。
書いて置かなければ「その感覚」を思い出す可能性は激減する。
ツーリングに限らないなぁ~~。
これは以前に書いている。
そう、そぞろ神が憑いたからだ。道祖神の招きにあったからだ。
いやいや、「春立てる霞の空に白河の関越えん」、なんて、目的地も時期も関係ない。目的地や時期なんて浮気の言い訳みたいなもんだろう、本質はそこじゃない。
ただ、単純に一枚の絵が浮かぶ。
それは目的地か途中か、は関係ないけれど、間違いなくバイクに乗って、のことで、つまり、傍らにはバイクがある。
そこにそれなりの旅装の自分がいる。当然、現実の自分より百倍もカッコいい。
そのむちゃくちゃカッコいい自分がバイクに乗って、その世界に入っている、という絵を実現させたい。片雲の風には誘われるけれど、漂泊の思いは、さほど、ない。
そんなだから、所詮、ツーリングの中身なんて「どうでもいいこと」なのかもしれない。帰って来てメモみたいな日記つけたって、百倍もカッコいい自分はいなかったのを確認した後なんだから、結局はどうでもいい中身、いずれ忘れてしまうのだ。
・・・でも、性懲りもなく、帰って来た途端に、片雲の風に誘われるんですけどね。そして何日もしない中に、またカッコいい自分をバイクと共に絵の中に置きたくなる。
で、「カッコいい自分」、は置いといて。大事なのはバイク、なんですよ、やっぱり。
何故、「バイクと共に」一枚の絵の中に入りたいのか。
それはバイクに乗るのが「楽しい」から。楽しくないところに「カッコいい自分」を置いたって、楽しくもなんともない。
「快適」なのではない。ただ「楽しい」からだ。
「楽しい」だけのことなんだから、「別段どうでもよい」。メモなんか、日記なんか、要らない、「楽しい」だけなんだから。
で、「その時『楽しかった』、だけでいいじゃないか。何をわざわざ書き留めて置くことがあるのか」と思うのだけれど、「背伸びせずにどうする。カッコつけなくてどうする」、とも思うんです。
それに勿体ないんじゃなかろうか。「楽しかったこと」の中身を、「何が楽しかったんだろう」と「考えてみることの楽しさ」を捨ててしまって、「楽しかったこと」をいつか忘れ去ってしまうのは。
「楽しかった」と思うのは終わってからに決まってんだから、「あれが楽しかった」「これが楽しかった」と何度でも思い出す糸口はあった方が良いでしょう?
そうなると、これは行程表よりは「日記」が良い。思い出し方にいろんな面ができるから。
一人、僅か二時間余りの出雲往復で、誰と言葉を交わすこともなかったし、連休中のこと、人出を思って、出雲大社に参拝したわけでもなかった。
当然、観光客で混雑する神門通りに足を踏み入れたわけでもない。
最近、力こぶを入れて宣伝している「出雲ぜんざい」を食べたわけでもない。
羽根屋の蕎麦も、どうせ満員だろうから、と食べに行かなかった。
本当に往復しただけで、何一つ、これといったことはない。
「別段、どうでもいいツーリング」だった。
「でも、楽しくなかったか?」「楽しかった。」「何が?」「乗ってるのが。風にあたってるのが。」
風が冷たくなかった。行き来するバイクが結構いた。みんなそれなりに「旅の顔付き」をしていた。
道の駅「キララ多伎」の海寄りにSRを停めたら、いつの間にか海風が随分強くなっていて、
「同じ島根なのになぁ。三瓶に向かってたら、どんな風が吹いてたろう」
、なんて思った。
海沿いの道を走っていたら、道の駅で姿を見掛けたバイクが二台、追いついてきた。
ゆっくり走りたいし(ゆっくりしか走れないし)、と先に行くよう合図をしたら、追い抜きざまに型通りの礼のハンドサイン。
山口の西端らしいナンバープレートを見て、
「8時前に出たのかな?250みたいだけど、最近はタイヤが太くなったなぁ」
と感心し、SRのタイヤが細すぎるんだ、と可笑しくなり。
こんなことがみんな「楽しかった。」別段どうでもいいことばかりだ。
けど、このどうでもいいことを「楽しい」と感じるテンションの高さで、ツーリングの間は物事を見ているわけだ。良く言えば、全ての物事を積極的に、肯定的に見る姿勢を、この時は確かに持っている。
その時に見つけ出したことを書きとめて置けば。
そして、いつか読み返した時に、その感覚を思い出すことができれば。
書いて置かなければ「その感覚」を思い出す可能性は激減する。
ツーリングに限らないなぁ~~。
2014.05/19