▲輪廻転生という考え方が甦る時代
「生まれ変わり」を認めていた西洋古代思想。古代のエジプト人が「あの世とこの世との間に大きな隔たりはない」と考えていたよう に、太古から私たちは死と死後のことを意識してきた。
西洋哲学の出発点と言われるギリシャでは、「生まれ変わり」の観念はオルフェウス教(密儀宗教の一種)から始まったとされ、哲学においても魂や形而上的世界の実在が想定されていた。
古代ギリシャの数学者として知られるピタゴラスは前世の記憶を持ち、「不滅の霊魂」 「霊魂の輪廻転生」「修養による霊魂の浄化」を弟子たちに唱えていた。
「魂の不死を信じて平然と死ぬことができる心の訓練が哲学の使命である」と弟子たち に教えていたソクラテスにとって、自らの死は永遠の生、人間の魂の永続性を象徴するも のであった。
ピタゴラスの世界観を継承したプラトンも、著書「パイドン」「国家」などの中で「死者の魂は一定期間を過ぎると生まれ変わる」と主張している。
古代ギリシャ思想においては、死によって霊魂と肉体は分離し、前者は不滅とされてい た。
例外はソクラテスと問答を行った当時のソフィスト(知恵ある者)たちだった。彼らは現代人のような唯物論的な考え方を有していた( 樫尾直樹他「人間に魂はあるのか?」国書刊行会、2013年。以上引用止め)
輪廻転生と言えば、三島由紀夫の最後の四部作の主要テーマである。
『春の雪』の松枝清顕は『奔馬』で飯沼勳となり、『暁の寺』ではジンジャン姫に転生していた(らしい)。最終巻の『天人五衰』の安永透は、輪廻転生とは無縁だったことが示唆されている。
嘗て筆者がローマ憂国忌での講演を依頼されたおり、イタリアの知識人達と懇談の機会があったが、三島『豊饒の海』への最大の関心は輪廻転生だった。カソリックが強いイタリアにおいてすら、人生の模索の思想に、仏教的東洋的死生観が横たわるのである。
かくして多死社会となる日本で、精神的安らぎの希求や看取るというシステムが、嘗ての大家族制という伝統に近付くことができるか、どうかが今後の論議になるだろう。
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一遍に挙げるには、ちょっと長いかなと思ったものだから、4回に分けました。
スクロールしないで、一回分ずつ目を通していただくほうが良いのではと思います。