2015.12/26 (Sat)
いきなりの転載です。
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「この疑い深い私がオルニチンを飲む理由」の見出しで栄養食品を勧めるコマーシャルがある。
そう語るのはクイズ番組で学生帽をかぶって素敵な脳味噌の回転力を披歴している漫画家だ。
そんなヒトの決め台詞だから真実味が増すのだろうが、このヒトはその調子で日本の安保も語っている。
「中国人が攻めてきたら戦わずに素直に手を挙げる。中国人支配の下でうまい中国料理を食って過ごした方がいい」といった内容だ。
いかにも左翼文化人らしい高みを感じさせる。平和憲法を守り、軍隊もいらない。平和を愛する者を中国人が殺すはずはないと。
いい響きだが、この文言には二つ誤りがある。
一つはうまい中国料理を食うというくだりだ。
いま北京、上海辺りで中国料理を食ってみるがいい。どぶから集めた「地溝油」を使う店ではなく、人民解放軍直営の北京国賓大飯店の飲茶だっていい。
一口目はうまい。でも二口、三口となると箸が進まなくなる。我慢して五口も食べ続けると帰国してから暫くは中国料理を食う気もしなくなる。
そうなる理由はグルタミン酸ソーダだ。あちらは鍋の底が白くなるほど入れる。
だから最初はうまいと思っても後が続かない。料理を山と残してしまう。
今は習近平の御代だ。彼はたとえ特権階級の太子党でも日本人観光客でも「光盤」をきつく命じている。
光盤の「盤」は料理を盛るお皿を言う。
「光」は日本人には馴染みない。何かを「し尽す」といった意味だ。頭髪が抜け尽して光っている状態を思えば分かり易いか。
つまり光盤は「皿の料理を残さず食い尽す」ことを言う。中国では料理を贅沢に残すのがお大尽の形だが、賄賂根絶、奢侈ご法度を言う習近平がそれを禁じた。
グルタミン酸漬けを食い尽すのは拷問に近い。
「疑い深い」漫画家は「中国人は手を上げれば殺さない」と断言する。
これが二つ目の誤りだ。
中国人は逆に無抵抗の者を殺すのが趣味だ。
蒋介石も毛沢東も村を襲って奪い、犯し、殺し尽す戦法をとってきた。
クリスチャンの蒋は毛と違って、時には村人全員の両足を切り落とすだけで許した。毛より人情味があると言いたいらしい。
ただ日本人が相手となると彼らの人情味は失せる。
盧溝橋事件直後の通州事件では中国人は無抵抗の日本人市民を丸一日かけていたぶり殺した。
中でも10歳の男の子とその母親の殺し方は凄惨だった。まず母を犯し、次に男の子の指を斬り落とし、針金を鼻に通して母の足に結び付けて、引き回した挙句に殺している。
彭徳懐は自伝でこの殺光焼光搶光(そうこう)(殺し尽し焼き尽し奪い尽す)は日本軍が実行し、三光と名付けたと言った。
しかし日本人は、「光」は満鉄の時代から新幹線までいい意味でしか使ってこなかった。
彭徳懐はそんな嘘を吐(つ)くから足を斬り落とされたりして惨めな最期を遂げた。
だから中国人に手を上げたら、その指は切られ、女は犯され、棒を突っ込まれて殺される。いい加減なデマで中国人の真実を隠すのは鬘で禿を隠すよりたちが悪い。
(以下略)
習近平の「完食の勧め」より
「習近平よ、『反日』は朝日を見倣え」(高山正之) 新潮社刊 から
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実は、前回の日記はこの文章を転載しようと思って書き始めたものでした。
文中で、「左翼文化人」と表現されている人々に共通する雰囲気。
そのことについて書こうと思ってたんですが、例のごとくに脱線して、周辺を徘徊、(なんて余裕のあるもんじゃないですね、低徊して)で、終わりでした。
ただ、まあ、周辺歩きであったことには間違いないようで、「プライド」と「面子」が何かしら関係あるんじゃないかと、思ってます。
「プライド」というのは「根拠のある自信」でしょう。何かしらの努力、研鑽の結果、得られるものが「プライド」で、だから相手がそれ以上の努力、研鑽を積んでいた、としたらこれは認めなければならない、といった風がある。勿論、これは理想的な形ですけどね。真実はともかく、理想として「騎士道」というのがありますよね。
自分の負けを認めざるを得ない時、「騎士道精神に則って」敗北を宣言、相手を讃える。口惜しいけれどもやせ我慢。それを立派だと受け入れてくれる社会がある。
「面子」というのはそうではない。努力や研鑽には直接に関係のない自身の「立場」「階級(位)」を相手によって否定された、笑われた、辱められた、という場合に「面目丸つぶれ」だ、という。
人間としての努力、修練などに関係のない、飽く迄も「社会の中での地位」そのものを「お前にその地位は似合わない」と指弾されたら、感情的になる=怒る。
変ですね、自分が努力して身に着けた「力」でも何でもない「社会的地位」を批判されただけで、自分が全否定されたように思う。で、烈火のごとく怒る。
どうも「左翼文化人」と言われる人に共通する雰囲気というのは、この辺に関係があるんじゃないか。
本人は「努力している」、「修練してきた」つもりでいる。
でも、その努力・修練というのは実力をつけるものではなく、単に「社会的地位」を得るためだけのものだったのではないか。
勿論、当人はそんなこと、思ってないんでしょうが。本人は「実力をつけて来たんだ」、と確信している。
しかし「首を垂れる稲穂かな」、じゃないけれども、普通、実力を着ければつけるほど、自身の客観視ができるようになり、逆に自身の足りないことが分かるようになる。
また、実力を着ければつけるほど、相手の長所も見えてくるようになるものなのですから、世間的に見て自分より実力がないと思える相手に対して「フン、何もわかっておらんな、このバカは」とか、相手をゴミか虫けらのように罵倒する、なんてことはこっぱずかしくて(自分でブーメラン、投げてるわけですから)できるものじゃない。
それどころか「後生畏るべし」の言葉もあるように、今は全く相手にもならないような若者にだって、とてもじゃないけど、そんなぞんざいなことは言えなくなる。ましてや、総理大臣を呼び捨て、時には「叩き切ってやる!」、などと。
・・・なのに。何故あんなことが言えるのでしょう。実力を身に着けた人間とは思えない。
そして、「疑い深い私」が疑った結果が、極々初歩的な疑い不足(?)による撃沈。
日本に於いて「左翼」と言われる人は、基本的な意味での「左翼」ではなく、「革命による新社会体制づくり」を目指す人のことです。左翼文化人は、言論の場でその実行動に取り組む人。
「新社会体制」を作るわけだから、「現社会体制」は全否定されることになる。相手を同じ人間と認めていたら否定できないから、「ゴミか虫けらのようなもの」と定義する。
「首(こうべ)を垂れる稲穂」みたいな自分は存在しないし、畏るべき「後生」も存在しない。居るのは「疑い深い自分」と否定しなければならないもの=ゴミか虫けら、だけだ。
だからあんな人を見下した目で、時には憐れむように「分からないのなら、勉強してください」、なんて言えるんでしょうかね。
・・・・また道に迷ってしまいました。
いきなりの転載です。
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「この疑い深い私がオルニチンを飲む理由」の見出しで栄養食品を勧めるコマーシャルがある。
そう語るのはクイズ番組で学生帽をかぶって素敵な脳味噌の回転力を披歴している漫画家だ。
そんなヒトの決め台詞だから真実味が増すのだろうが、このヒトはその調子で日本の安保も語っている。
「中国人が攻めてきたら戦わずに素直に手を挙げる。中国人支配の下でうまい中国料理を食って過ごした方がいい」といった内容だ。
いかにも左翼文化人らしい高みを感じさせる。平和憲法を守り、軍隊もいらない。平和を愛する者を中国人が殺すはずはないと。
いい響きだが、この文言には二つ誤りがある。
一つはうまい中国料理を食うというくだりだ。
いま北京、上海辺りで中国料理を食ってみるがいい。どぶから集めた「地溝油」を使う店ではなく、人民解放軍直営の北京国賓大飯店の飲茶だっていい。
一口目はうまい。でも二口、三口となると箸が進まなくなる。我慢して五口も食べ続けると帰国してから暫くは中国料理を食う気もしなくなる。
そうなる理由はグルタミン酸ソーダだ。あちらは鍋の底が白くなるほど入れる。
だから最初はうまいと思っても後が続かない。料理を山と残してしまう。
今は習近平の御代だ。彼はたとえ特権階級の太子党でも日本人観光客でも「光盤」をきつく命じている。
光盤の「盤」は料理を盛るお皿を言う。
「光」は日本人には馴染みない。何かを「し尽す」といった意味だ。頭髪が抜け尽して光っている状態を思えば分かり易いか。
つまり光盤は「皿の料理を残さず食い尽す」ことを言う。中国では料理を贅沢に残すのがお大尽の形だが、賄賂根絶、奢侈ご法度を言う習近平がそれを禁じた。
グルタミン酸漬けを食い尽すのは拷問に近い。
「疑い深い」漫画家は「中国人は手を上げれば殺さない」と断言する。
これが二つ目の誤りだ。
中国人は逆に無抵抗の者を殺すのが趣味だ。
蒋介石も毛沢東も村を襲って奪い、犯し、殺し尽す戦法をとってきた。
クリスチャンの蒋は毛と違って、時には村人全員の両足を切り落とすだけで許した。毛より人情味があると言いたいらしい。
ただ日本人が相手となると彼らの人情味は失せる。
盧溝橋事件直後の通州事件では中国人は無抵抗の日本人市民を丸一日かけていたぶり殺した。
中でも10歳の男の子とその母親の殺し方は凄惨だった。まず母を犯し、次に男の子の指を斬り落とし、針金を鼻に通して母の足に結び付けて、引き回した挙句に殺している。
彭徳懐は自伝でこの殺光焼光搶光(そうこう)(殺し尽し焼き尽し奪い尽す)は日本軍が実行し、三光と名付けたと言った。
しかし日本人は、「光」は満鉄の時代から新幹線までいい意味でしか使ってこなかった。
彭徳懐はそんな嘘を吐(つ)くから足を斬り落とされたりして惨めな最期を遂げた。
だから中国人に手を上げたら、その指は切られ、女は犯され、棒を突っ込まれて殺される。いい加減なデマで中国人の真実を隠すのは鬘で禿を隠すよりたちが悪い。
(以下略)
習近平の「完食の勧め」より
「習近平よ、『反日』は朝日を見倣え」(高山正之) 新潮社刊 から
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
実は、前回の日記はこの文章を転載しようと思って書き始めたものでした。
文中で、「左翼文化人」と表現されている人々に共通する雰囲気。
そのことについて書こうと思ってたんですが、例のごとくに脱線して、周辺を徘徊、(なんて余裕のあるもんじゃないですね、低徊して)で、終わりでした。
ただ、まあ、周辺歩きであったことには間違いないようで、「プライド」と「面子」が何かしら関係あるんじゃないかと、思ってます。
「プライド」というのは「根拠のある自信」でしょう。何かしらの努力、研鑽の結果、得られるものが「プライド」で、だから相手がそれ以上の努力、研鑽を積んでいた、としたらこれは認めなければならない、といった風がある。勿論、これは理想的な形ですけどね。真実はともかく、理想として「騎士道」というのがありますよね。
自分の負けを認めざるを得ない時、「騎士道精神に則って」敗北を宣言、相手を讃える。口惜しいけれどもやせ我慢。それを立派だと受け入れてくれる社会がある。
「面子」というのはそうではない。努力や研鑽には直接に関係のない自身の「立場」「階級(位)」を相手によって否定された、笑われた、辱められた、という場合に「面目丸つぶれ」だ、という。
人間としての努力、修練などに関係のない、飽く迄も「社会の中での地位」そのものを「お前にその地位は似合わない」と指弾されたら、感情的になる=怒る。
変ですね、自分が努力して身に着けた「力」でも何でもない「社会的地位」を批判されただけで、自分が全否定されたように思う。で、烈火のごとく怒る。
どうも「左翼文化人」と言われる人に共通する雰囲気というのは、この辺に関係があるんじゃないか。
本人は「努力している」、「修練してきた」つもりでいる。
でも、その努力・修練というのは実力をつけるものではなく、単に「社会的地位」を得るためだけのものだったのではないか。
勿論、当人はそんなこと、思ってないんでしょうが。本人は「実力をつけて来たんだ」、と確信している。
しかし「首を垂れる稲穂かな」、じゃないけれども、普通、実力を着ければつけるほど、自身の客観視ができるようになり、逆に自身の足りないことが分かるようになる。
また、実力を着ければつけるほど、相手の長所も見えてくるようになるものなのですから、世間的に見て自分より実力がないと思える相手に対して「フン、何もわかっておらんな、このバカは」とか、相手をゴミか虫けらのように罵倒する、なんてことはこっぱずかしくて(自分でブーメラン、投げてるわけですから)できるものじゃない。
それどころか「後生畏るべし」の言葉もあるように、今は全く相手にもならないような若者にだって、とてもじゃないけど、そんなぞんざいなことは言えなくなる。ましてや、総理大臣を呼び捨て、時には「叩き切ってやる!」、などと。
・・・なのに。何故あんなことが言えるのでしょう。実力を身に着けた人間とは思えない。
そして、「疑い深い私」が疑った結果が、極々初歩的な疑い不足(?)による撃沈。
日本に於いて「左翼」と言われる人は、基本的な意味での「左翼」ではなく、「革命による新社会体制づくり」を目指す人のことです。左翼文化人は、言論の場でその実行動に取り組む人。
「新社会体制」を作るわけだから、「現社会体制」は全否定されることになる。相手を同じ人間と認めていたら否定できないから、「ゴミか虫けらのようなもの」と定義する。
「首(こうべ)を垂れる稲穂」みたいな自分は存在しないし、畏るべき「後生」も存在しない。居るのは「疑い深い自分」と否定しなければならないもの=ゴミか虫けら、だけだ。
だからあんな人を見下した目で、時には憐れむように「分からないのなら、勉強してください」、なんて言えるんでしょうかね。
・・・・また道に迷ってしまいました。