CubとSRと

ただの日記

疑ったって騙される

2020年01月20日 | 重箱の隅
2015.12/26 (Sat)

 いきなりの転載です。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「この疑い深い私がオルニチンを飲む理由」の見出しで栄養食品を勧めるコマーシャルがある。
 そう語るのはクイズ番組で学生帽をかぶって素敵な脳味噌の回転力を披歴している漫画家だ。
 そんなヒトの決め台詞だから真実味が増すのだろうが、このヒトはその調子で日本の安保も語っている。
 「中国人が攻めてきたら戦わずに素直に手を挙げる。中国人支配の下でうまい中国料理を食って過ごした方がいい」といった内容だ。
 いかにも左翼文化人らしい高みを感じさせる。平和憲法を守り、軍隊もいらない。平和を愛する者を中国人が殺すはずはないと。
 いい響きだが、この文言には二つ誤りがある。

 一つはうまい中国料理を食うというくだりだ。
 いま北京、上海辺りで中国料理を食ってみるがいい。どぶから集めた「地溝油」を使う店ではなく、人民解放軍直営の北京国賓大飯店の飲茶だっていい。
 一口目はうまい。でも二口、三口となると箸が進まなくなる。我慢して五口も食べ続けると帰国してから暫くは中国料理を食う気もしなくなる。
 そうなる理由はグルタミン酸ソーダだ。あちらは鍋の底が白くなるほど入れる。 
 だから最初はうまいと思っても後が続かない。料理を山と残してしまう。
 今は習近平の御代だ。彼はたとえ特権階級の太子党でも日本人観光客でも「光盤」をきつく命じている。
 光盤の「盤」は料理を盛るお皿を言う。
 「光」は日本人には馴染みない。何かを「し尽す」といった意味だ。頭髪が抜け尽して光っている状態を思えば分かり易いか。
 つまり光盤は「皿の料理を残さず食い尽す」ことを言う。中国では料理を贅沢に残すのがお大尽の形だが、賄賂根絶、奢侈ご法度を言う習近平がそれを禁じた。
 グルタミン酸漬けを食い尽すのは拷問に近い。

 「疑い深い」漫画家は「中国人は手を上げれば殺さない」と断言する。
 これが二つ目の誤りだ。
 中国人は逆に無抵抗の者を殺すのが趣味だ。
 蒋介石も毛沢東も村を襲って奪い、犯し、殺し尽す戦法をとってきた。
 クリスチャンの蒋は毛と違って、時には村人全員の両足を切り落とすだけで許した。毛より人情味があると言いたいらしい。
 ただ日本人が相手となると彼らの人情味は失せる。
 盧溝橋事件直後の通州事件では中国人は無抵抗の日本人市民を丸一日かけていたぶり殺した。
 中でも10歳の男の子とその母親の殺し方は凄惨だった。まず母を犯し、次に男の子の指を斬り落とし、針金を鼻に通して母の足に結び付けて、引き回した挙句に殺している。
 彭徳懐は自伝でこの殺光焼光搶光(そうこう)(殺し尽し焼き尽し奪い尽す)は日本軍が実行し、三光と名付けたと言った。
 しかし日本人は、「光」は満鉄の時代から新幹線までいい意味でしか使ってこなかった。
 彭徳懐はそんな嘘を吐(つ)くから足を斬り落とされたりして惨めな最期を遂げた。
 だから中国人に手を上げたら、その指は切られ、女は犯され、棒を突っ込まれて殺される。いい加減なデマで中国人の真実を隠すのは鬘で禿を隠すよりたちが悪い。

                  (以下略)

 
           習近平の「完食の勧め」より

      「習近平よ、『反日』は朝日を見倣え」(高山正之) 新潮社刊 から


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 実は、前回の日記はこの文章を転載しようと思って書き始めたものでした。
 文中で、「左翼文化人」と表現されている人々に共通する雰囲気。
 そのことについて書こうと思ってたんですが、例のごとくに脱線して、周辺を徘徊、(なんて余裕のあるもんじゃないですね、低徊して)で、終わりでした。
 ただ、まあ、周辺歩きであったことには間違いないようで、「プライド」と「面子」が何かしら関係あるんじゃないかと、思ってます。

 「プライド」というのは「根拠のある自信」でしょう。何かしらの努力、研鑽の結果、得られるものが「プライド」で、だから相手がそれ以上の努力、研鑽を積んでいた、としたらこれは認めなければならない、といった風がある。勿論、これは理想的な形ですけどね。真実はともかく、理想として「騎士道」というのがありますよね。
 自分の負けを認めざるを得ない時、「騎士道精神に則って」敗北を宣言、相手を讃える。口惜しいけれどもやせ我慢。それを立派だと受け入れてくれる社会がある。

 「面子」というのはそうではない。努力や研鑽には直接に関係のない自身の「立場」「階級(位)」を相手によって否定された、笑われた、辱められた、という場合に「面目丸つぶれ」だ、という。
 人間としての努力、修練などに関係のない、飽く迄も「社会の中での地位」そのものを「お前にその地位は似合わない」と指弾されたら、感情的になる=怒る。
 変ですね、自分が努力して身に着けた「力」でも何でもない「社会的地位」を批判されただけで、自分が全否定されたように思う。で、烈火のごとく怒る。

 どうも「左翼文化人」と言われる人に共通する雰囲気というのは、この辺に関係があるんじゃないか。
 本人は「努力している」、「修練してきた」つもりでいる。
 でも、その努力・修練というのは実力をつけるものではなく、単に「社会的地位」を得るためだけのものだったのではないか。
 勿論、当人はそんなこと、思ってないんでしょうが。本人は「実力をつけて来たんだ」、と確信している。
 しかし「首を垂れる稲穂かな」、じゃないけれども、普通、実力を着ければつけるほど、自身の客観視ができるようになり、逆に自身の足りないことが分かるようになる。
 また、実力を着ければつけるほど、相手の長所も見えてくるようになるものなのですから、世間的に見て自分より実力がないと思える相手に対して「フン、何もわかっておらんな、このバカは」とか、相手をゴミか虫けらのように罵倒する、なんてことはこっぱずかしくて(自分でブーメラン、投げてるわけですから)できるものじゃない。
 それどころか「後生畏るべし」の言葉もあるように、今は全く相手にもならないような若者にだって、とてもじゃないけど、そんなぞんざいなことは言えなくなる。ましてや、総理大臣を呼び捨て、時には「叩き切ってやる!」、などと。

 ・・・なのに。何故あんなことが言えるのでしょう。実力を身に着けた人間とは思えない。

 そして、「疑い深い私」が疑った結果が、極々初歩的な疑い不足(?)による撃沈。

 日本に於いて「左翼」と言われる人は、基本的な意味での「左翼」ではなく、「革命による新社会体制づくり」を目指す人のことです。左翼文化人は、言論の場でその実行動に取り組む人。
 「新社会体制」を作るわけだから、「現社会体制」は全否定されることになる。相手を同じ人間と認めていたら否定できないから、「ゴミか虫けらのようなもの」と定義する。
 「首(こうべ)を垂れる稲穂」みたいな自分は存在しないし、畏るべき「後生」も存在しない。居るのは「疑い深い自分」と否定しなければならないもの=ゴミか虫けら、だけだ。
 
 だからあんな人を見下した目で、時には憐れむように「分からないのなら、勉強してください」、なんて言えるんでしょうかね。

 ・・・・また道に迷ってしまいました。

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隷 (後)

2020年01月20日 | 重箱の隅
2016.01/10 (Sun)

 「隷」という文字を使った語句、というと、奴隷の他には「隷従」とか「隷書」くらいしか浮かばない。
 で、「隷従」というと、きっと「奴隷のように従う」みたいな意味なんだろう、とこれまで目にした色んな文章から想像できる。
 けど、「隷書」というのは能く分からない。ならばネット検索だ!!

 すると、やっぱりあんまり良い意味ではないらしいことが分かる。
 正式な文字が篆書(てんしょ)で、それを簡略化した、早い話が「取り敢えず」の文字が隷書だ、みたいなことが書いてある。
 「篆書に属する、簡易文字」が隷書。比べて漢字に対する平仮名や片仮名。漢字に対する朝鮮文字。
 まあ、平仮名や片仮名は出生の瞬間から属することはなかったし、数百年かかって「おとこもすなる日記といふものを~」と、「隷従」することもなくなってきたみたいだけど。
 本家の「隷書」も、今は「隷従」どころか、立派な一家。朝鮮文字なんかはすっかり「主人」で、「漢字なんか要らん!」と豪語している。

 いきなり脱線しました。

 ギリシャ・ローマの昔、「奴隷」は戦利品で、風采も良く、学識もあったりすると、これはとても自慢できる。
 「そんなことして、隙を衝かれて殺されたり、なんてことはないのか?」
 とつい心配してしまうのだけれど、「都市国家」内でそんなことをしたって、逃げ場はどこにもない。自分のいた国は既に滅ぼされているのだから全く行くところはない。叛旗を翻そうと思ったって常に「主人」の監視下にあって、自由な行動など一切できない。
 政治で「敵は身近に置け」というのと一脈通ずるところがある。
 何より、そんな扱い(厚遇に見える)を受けているのを衆人は見ているのだから、そんな裏切り行為をすればライオンの餌になるしかない。

 「奴隷」とは何か。人間の形をした貴重「品」ということになる。「品」、「物」、でしかない。
 「物」だからぞんざいに扱うか?主人の心次第?
 ところがこれは自慢できる「貴重品」なわけで、「ぞんざいに扱う」なんてことはない。貴重品だから大切にする。
 でも、「物」だ。人間としての自由な行動や発言、時には主人と口喧嘩して言い負かしたり、なんてことはできない。「物」だから。
 生かすも殺すも主人次第。

 こう書いたら「つい人間として見てしまう」アメリカ人の方が人情があって、などと思ってしまうのだけれど、はっきり言ってたかだか300年の国。奴隷を持つだけの「文化」「教養」(決して良い意味ではない)が育ってなかっただけ、のことだ。
 「つい、人間として見てしまう」、程度の差別「能力」しか持たないのに「奴隷」を所有したからだ。

 アメリカ人は奴隷を「物」=「貴重品(鑑賞物)(贅沢品)」としてではなく、「物」=「道具(使用する物)(実用品)」として見ることしかできなかった。「黒人奴隷」は、だから「こき使う道具」であって、こき使えなければ意味はない。
 貴重品なら「愛でる」「賞する」ためにあるのだから。誰も実用なんか考えもしない。

 高山氏はアメリカを「奴隷の国」だと書いている。
 何故?今「は「黒人奴隷」なんかいないのに??

 で、やっと分かったわけだ。アメリカでは、主人は奴隷に全てのことをさせる。奴隷は「道具」だから。自分はしない。
 たとえば野球選手は「奴隷」だ、ということになる。大金を出してよそから連れて来る。買ってくるわけだ。その報酬を選手が受け取るかどうかは大した問題ではない。
 少なくともアメリカ人は野球選手という「労働力(道具)」を、とにかく金を出して買ったのだ。
 使えなくなったら価値はない。それを「能力主義」というらしい。「成果主義」ともいうらしい。
 例えば学者は「奴隷」だ、ということになる。
 少なくともアメリカ人は「優秀な頭脳」という「労働力(道具)」を、とにかく金を出して買ったのだ。
 そうして、原爆を作らせ、戦闘員ではない無辜の民の頭上で試させた。

 何でもかんでも爆買いする(食い尽す)「中華思想」とは全く反対のやり方で。
 正反対でありながら、両方ともとんでもない差別思想。

 さて。ではヨーロッパ諸国はどうか。奴隷の国だろうか。
 アメリカ式の奴隷の国、ではないように見える。金に飽かせて世界中から「道具」を買い集めようとはしない。(そんな金、ないし)
 その代わり、「有色人種は道具だ」という歴史観、そして「同じ人間」とは認めようとしない感性は変わらない。
 勿論、千人か万人に一人くらいは例外もあるだろうけれど。
 
 こうやって見てきて思った。「隷従」とか「隷属」とか「奴隷」とか言われる言葉の感じ。
 これを感じることのできないのは日本人だけなのかもしれない。
 日本人は精々「服従」どまりだろう。
 「服従」までしか分からない日本人が、人格どころか「生きる」ことまで否定される世界とつきあう。
 実力不足は否めない。
 しかし、それは大いなる誇りでもあるんじゃないか。 


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隷 (前)

2020年01月20日 | 重箱の隅
2016.01/09 (Sat)

 子供の頃、本を読むのが好きだった。
 田舎であることは関係なし、今とは違って車は全く通らなかったから、道を歩きながらでも本を読んでいた。

 じっと椅子に座って読む、などということは、まずない。寝っ転がっているか、歩いているか、立ったままか。
 あんまり夢中になって、口が半開きになって涎が垂れて慌てて拭いて、真っ赤になって、誰かに見られたんじゃないか、と辺りを見回して、なんて不細工な思い出もある。

 勿論読むのは子供向けの物語ばかり。決して図鑑や参考書ではない。
 田舎のことだから、学校の図書室にある易しいものを読んでしまうと、ちょっと難しいものを、となるしかないのだが、そんな本は、ない。
 大体、物語というのは「やさしい」、と「難しい」の二通りしかなく、その間は大きな溝があって、とても渡れない。
 小学校の三、四年生が「吾輩ハ猫デアル」なんて、ふざけた題名だと思うだけの頭もない。だから開くはずもない。
 第一、大人の読む本だ、開いたってやっぱり訳が分からん。

 で、「世界児童文学全集」、なんて名の、とっつきにくい、みんな同じ見てくれの、ごつい本を引っ張り出してみる。
 そんなものの中に「ギリシャ神話」とか「ローマ神話」も入っていて、全く児童文学じゃないんだけど、読み易くなるように振り仮名までつけられて易しく書かれている。

 描かれている絵から、西洋の昔の様子を想像する。そこから始まって神話だか伝説だか能く分からない話を読んでは、色々なことを思う。
 日本の神様もギリシャ・ローマの神様も多分に人間臭くって、何となく西洋の神様の方に親近感を持って、でも、
 「日本の神様の方が上品だな」
 なんてことを思っていた。
 そりゃあ、まあ一番偉い神様が、天照大神と女にだらしないゼウス、となると同等に思えないのは、子供の潔癖観だろうけど。
 でも「同等には思えない」というのは、子供なりに何だか釈然としないものを感じていたからなんじゃないかと思う。

 いつまでも妙に気になっていたのが、「奴隷」のことだった。
 大きくなるにつれて、ギリシャ・ローマの「奴隷」と、アメリカの「黒人奴隷」が全く違う扱いをされているのが分かってきた。
 その延長線上にあるのが、悪意さえ感じる「性奴隷」という新造語だ。
 これは間違いなく「黒人奴隷」に対する「アメリカ人の自虐史観」の裏返しで、
 「オレ達だけがやってたんじゃない!いや、オレ達は『それだけは』やってない!」
 という意識が投影されている。
 「悪いのは全てナチスがやったのだ」、と狡猾に言い逃れるドイツの強かさを持っていない。

 ところがギリシャ・ローマの「奴隷」というのは些か様子が違う。
 談笑しながら散歩をしている男二人。全く同じ背格好に年恰好。服装まで同じなのに一方が主人で、もう一方は奴隷。
 これはポリス(都市国家)同士の戦いで負けた方が捕虜となり、奴隷となっているのだそうだ。
 普通に考えたら、「勝ったんだから」、と捕虜になった者を痛めつけそうなものだが、それはやらない。
 何故か。
 「それでは見てくれが悪いじゃないか。こんなに立派な『奴隷』なのに。粗末な服なんか着せたら私の恥になる」

 「敵ながら天晴だった」、と相手を尊敬してそうするのではなく、「戦利品」、それも「貴重品」として扱っている、ということが分かったのは、高校生の頃だったか。
 それでも何だかしっくりこなかった。頭では分かっても、何だか腑に落ちない。

 「それに比べればアメリカの『奴隷』というのは、ともすれば「同じ人間」と思ってしまうから、敢えて動物扱いをしてきたのだ」
 と説明をされた。
 「なるほど!それじゃアメリカの方が人間的、というわけか」
 なんて感心したのだけれど。

 とんでもない。
 ギリシャ・ローマの昔も、アメリカの奴隷も、これだけの年月が流れていても全く進歩なんかしていない、あの頃と同じ「差別のかたまり」のままなんだ、と。この歳になって気がついた。

 いや、「気がついた」んじゃない。「気づかせてくれた」んだ。
 先日から何度も日記に書いている高山正之氏が。

                    (後半へ続く)
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大嫌いだった感想文だけど

2020年01月20日 | 重箱の隅
2015.12/29 (Tue)

 田舎に戻っていた、この八年間。時間はたっぷりあるのだから、と読みかけの本をはじめとしていろいろなものを持って帰っていた。
 その上、振り返ってみれば帰ってから買った本も数十冊。
 ところが、みんな(、は言い過ぎだけど、半分以上は)読みさしのまま今日になってしまった。一体何をしていたんだろう、と思う。

 そうは思いながらも、田舎に帰ってから始めたブログのおかげで、ボケ始めていた頭がそれなりに動き出してきたようにも思う。
 また、ともすれば塞ぎ込みそうになるのを、頭を使うことで回避できたし、戴いたコメントが支えになる、なんてこともあった。
 やはり、話す相手を限定して、自分なりにその相手を意識して文章を書く、ということに勝る脳の訓練はないのではないか。
 これは他人様のブログを拝見しているだけでは遂に実感することはなかったろうと思う。
 自分もそれなりの(自分で日記を書いてみるということ)活動をしなければ。自分を変えるのは自分しかいないんだから。

 多くのブログに、優れた意見は一杯ある。素晴らしいブログもたくさんある。
 だから、それらを見て「なるほど!」、と納得する場合も一杯ある。
 「納得する」、「賢くなった」、と思う。そうなれば他の人にも知らせたいと思う。。
 それで実際、自分のブログで紹介をする。うまくいけばそれこそ「燎原の野火」のごとくにあっという間に広がっていく。仕掛けたのが自分だと思うと何だか誇らしいような気持ちになる。
 低次なレベルで一過性のものを「炎上」というのだろうけれど、少なくともそれによってなるほどと思い、考えを深めていく人も現れるようになるだろう。

 それはそれで良い。けど「賢くなった」と思うのと、「他の人にそれ(そのような意見)を知らせた」ということは別の問題。「知らせることで自らが賢くなる」わけではない。
 「知らせる」ために、素晴らしいブログの文章を、まとめる、要約する等、自分からの働き掛けがあってこそ、「脳の訓練」と言える。

 では、「知らせた」のではなく、「素晴らしいブログや意見でいろんなことを深く納得した」ら、「賢くなった」と言えるのか。
 それはないだろう。
 何度も書いている通り、「知って」、「倣って」、「修練し」なければ、何事につけ、身にはつかない。
 頭だって「身」の一部なんだから、「考え」だって同じだ。「知って」「倣って」「修練」しなければならない。
 「賢くなる」というのは「考え『方』」が身に付く、ということなのだから。

 「考え『方』」が身に付くということは、色々な問題を表面、或いは平面的に見ることができる、ということではない。
 立体的に、そして構造までも見通せる力を持つ、ということだ。
 一例を挙げるなら、歴史的に物事を見る力なんかは、そうだろう。力がなければ現時点での出来事ばかりが視野を塞ぎ、そのことの構造を見ることができず、本質などとてもとても、ということになる。

 「身に付く」、「身に付ける」ためには、「倣い」、「修練」しなければならず、「一読しただけ」で、「成る程と思っただけ」で、賢くなる(考え方が身に付く)のなら、俗悪なマスメディアがこんなに蔓延るわけがない。
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世間からすればただの笑い者

2020年01月20日 | 日々の暮らし
2016.01/14 (Thu)

 不細工なことをした。真っ暗な中、階段を下りて床に足を着けたつもりが、床がなかった。
 空踏みと言うんだろうか。階段一段分、身体が傾き、上から見れば時計回りに半回転しながら転倒(落下?)。
 
 転びながら、何が起こったのかすぐに気が付いたのだが、気付いたってどうしようもない。
 「気づいた」の「た」の時にはすっかり仰向けになっていて、背中は廊下にぶつかっていた。
 反射的に首をすくめたので、頭は打たなかったものの、首筋に痛みがあった。

 取り敢えず、海舟じゃないけれど、すぐには起き上がらず、どこか別なところに痛みはないか、異常はないかと確認して、それから起きる。
 僅かに左膝の痛み、左腰の痛みがあるが、首筋ほどではない。
 しかし、どういうふうに転んだら下りて来た階段と向き合うのだろう。交通事故の現場検証みたいなことを思った。
 
 振り返ってみると、左足が床に着かなかったためバランスを崩し、身体が傾いたところで、初めて左足先が床に触れたようだ。でも、その時はもう遅かった。
 ということで、ゆっくりと左膝が床に当たり、、そのため投げ出されるように左腰がぶつかり、最終的に首筋に力を入れて首をすくめたため、両足を5、60センチ跳ね上げて受け身を取ったような形になったということらしい。

 釣竿入れ(実は木刀入れ)と一緒に倒れたものだから随分大きな音がしたんじゃないか。朝が早かったため、近所の人はまだ寝静まっていたのは幸いだった。
 それにしても自己嫌悪、だ。こんなことではいつまた転倒して「独居老人 孤独死 階段を踏み外して」なんてことになるか分からない。

 これではいけない。「自己嫌悪だ」とか「もうちょっとちゃんと稽古していたら」とか、後悔でグダグダ言ってたってしょうがない。「階段の歩き方教室」なんてないんだから。
 即物的だが「個別自衛権」の執行(下りる時、階段の灯りをつける)、をしなかった自分が一番問題なのだ。
 「まさか床や階段が攻めて来るわけもない」から、とボケてたら、こうやって自滅するのだ。
 これに懲りて
 「階段を下りるときは必ず灯りをつける」
 、で、万全か?もう攻撃された後で多大なダメージを被っている。
 それに、スイッチを入れ忘れることは、また、必ずある。あと数段、というところまで降りて、スイッチを入れに戻る筈がない。それよりも急に足を止めてバランスを崩す方がもっと危険だ。
 「注意一秒 怪我一生」、というけれど、ホントのところは、事故は一秒ではなく「一瞬のためらい」で起きるのだから、裏を返せば「一秒の注意」なんか却って危険なのだ。あ、脱線。

 階段を下りるときは「最終確認」をすればいい。でも、ともすればやってしまうのがミスなんだ。
 それならば、これは他者の存在を意識する方が効果がある。「点検は必ず複数でやる」とか「指差し確認」さらに「指呼確認」が独り暮らしでできないのなら、器具を使え!

 というわけで、センサー付き照明具を買うことにした。これなら階段の灯りのスイッチを入れ忘れても最後の一段を瞬時に照らしてくれる。薄明りでも事故は十分に防げる。一種の集団的自衛権。転倒するのを受け止めてはくれないけど、注意はさせてくれる。

 
 というわけで、買ってきた。
 道路歩いてて突然探照灯当てられると、なんだか泥棒扱いされたみたいでムッとするけれど、家の暗闇の中で突然明かりがつくわけだから、ハッとするだけで腹は立たない。
 ただ、昼間だって関係なく点くわけだから、時には「ああめんどくさい!」と思う。
 でも、便利になればなるほど不便も増えるもの。それぞれの合計を秤にかければ後戻りしようとは思わない。
 間違いなく危機回避のメリットの方が大きいのだから。

 「そんなおおげさなことを。ちょっと用心してりゃ何も起こらないよ。無駄なことに金掛けて。バカなの?」

 世間は嗤うだろうけれど、死んでまで笑われたかぁねえや。
 国防とはこういうことだ。




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