CubとSRと

ただの日記

狂風には誘われぬ

2020年01月15日 | バイク 車 ツーリング
 2016.10/30

 天気が良い。今日も素敵な秋晴れだ。青空で、ちぎれ雲が飛ぶように流れていく。
 そうなると前日に引き続き、どうにも我慢ができず、「外へ出よう!」となる・・・・かと言うと、さにあらず。

 芭蕉翁ではないけれど「片雲の風に誘はれ」は、する。
 「誘われ」は、するけれど、「飛ぶように流れる雲」は、ただ眺めていたい。
 「一緒に流れて」みたくはならない。

 何故なんだろうと考えるまでもない、「飛ぶように流れる雲」と一緒に走ったって、結局置いてけぼりだ。一緒に走っていると飛ぶように流れている様子は全く分からない。取り残されて、吹き荒れている風に振り回されるばかり。で、ちぎれ雲を愛でる余裕もなくなってしまう。

 風に誘われて外に出る。バイクで風に向かう。「風に流されたい」わけじゃない。
 「風に吹かれて」歩くのも良いけれど、それをバイクには求めない。何より「バイクで風に流される」、なんて危なくってしょうがない。

 バイクは「楽しい」。車は「楽」だ。けど物事には表裏がある。
 「バイクに乗っていて楽しい」ということは、「バイクに乗っていて楽しくない、嫌だ」ということも同じようにある、ということだ。
 車は受け身の「楽」、だから、当然、代償として「あ~っ、退屈だ」、が付いて回る。

 バイクで楽しくないことは色々ある。けど、大体は対応策が確立されている。
 雨の中を走るのはたまらなく嫌だし、ブーツや揚句にはパンツの中にまで雨が浸みてくれば、もう最悪だ。けど、しっかりと雨対策をしていれば、意外にこれが楽しかったりする。(当然、パンツは濡れない)
 夏、信号待ちでは股下はストーブというより火鉢を抱えているようなものだけど、走り出した直後から、それなりの速さで走っている時の爽快感は、経験してみなけりゃ分からない。
 冬、何もしてなけりゃ凍りそうだけど、これも防寒対策次第。昔、風間某はバイクで北極点を目指した。一番は、止まった直後から攻めてくる寒気の中で身震いしながら飲む温かい飲み物のうまいこと!

 ところが色々な対応策がある中で、今でも確立されていないものが「風」への対応策。と言っても、「向かい風」も「追い風」も楽しさのうちで、嫌な風、楽しくない風というのは、「横風」だ。突風、強風に関しては「狂風」そのもの、だ。
 「横風」は正攻法を執らない。いきなり横から吹きつけて、バイクの命である「バランス」を崩させようとする。車で「横風がこわかった」なんて言っても、よっぽどのことでなければ、ハンドルさえしっかり押さえていれば、それで済む。
 バイクはいけない。ハンドル抑えたって風が吹きゃ身体はヨットの帆だ、バイクごと傾く。身体が傾けばそのまま直進はできない。引力のままに倒れようとするからそれに耐えるために進行方向を大幅に変更する。
 風の、「強さ」と「いきなり」のセット攻撃で進行方向が数メートルズレてしまえばオフコース、じゃなかった、コースアウト、だ。サメが口開けて並んで待っているようなもんだ。

 「雲の流れる中を走る」のはロマンだけれど、「突風や強風に煽られながら走る」のはちっとも楽しくない。とにかく必死で、無我夢中で風と格闘している。
 そこに「楽しさ」みたいなものがあるとすれば、突風・強風から逃れ切った時の安堵感だけだ。安堵感を「楽しい」とは言わないだろう。

 まあ、それでも、今日、出なかったのは「出るべき理由」をつくれなかった、ということが一番の理由なんですけどね。暇だけはたっぷりあるんですから。

 追い風だ、逆風だ、解散風だ、と色々聞こえてきますが、「風に吹かれて云々」というのは碌なものじゃありません。己をしっかり持たねば。

 でも、明日辺りは落ち着いた良い天気になりそうです。
 出るべき理由は簡単に作れそうな予感・・・・・。


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柿の葉茶を買いに

2020年01月15日 | バイク 車 ツーリング
 天気が良い。こんな素敵な秋晴れは久しぶりだ。青空で、いかにも秋らしい鰯雲が、実にゆっくり流れている。

 昼頃になって、じっとしているのが、もう、どうにも我慢ができなくなり、外へ出ようと思った。SRか。それともコペンか。
 もっと曇っていればコペンだが、こんな青空ならSRしか選択肢は、ない!
 「何も力んで言うほどのことではないだろう」?
 いや、ここはSRだ。そうでなければCub90だ。

 還暦過ぎた独居老人だって、かまうことはない、Cubならサロペットにデッキシューズで出発進行、だ。
 ただ、Cubは原付と間違えられて煽られる恐れがあるから、やめとく。黄色ナンバーはピンク以上にマイナーだ。

 さて。暇はあるけど金はない。だから外に出るにはそれなりの理由が必要だ。
 「外に出る」、「天気が良いから散歩」ったって、歩いて行きたいわけじゃない。給油の必要はないだろうけど、ただ走るだけ、じゃ、益少なし。
 「走る」以外にも目的がなければ、何となく後ろめたくて走れない、元通勤ライダー。
 で、思いついた。
 「そうだ!柿の葉茶がなくなりそうだったんだ。これは何としてでも買いに行かなければ!」
 血圧高めの独り者に、柿の葉茶と生姜酢は必需品だ。生姜は一昨日買ってきた。黒酢は昨日買ってきた。(・・・ん?毎日口実作って出歩いてるのに気が付いた。でも柿の葉茶は買わなければ!)

 というわけで、下半身が冷えるといけないから、中綿のウィンドブレーカーを穿き、ジーンズを穿き、首にはバンダナ、でなく大袈裟なことにフリースのネックウォーマーまで巻いて出ることにした。
 秋の陽射しは強く、時折り、痛いくらいだが、走り始めると少し冷たくなった風が棘のような痛みをすぐに吹き飛ばしてしまう。いつの間にかはっきりとした秋の風になっている。
 市街地を抜けると、十月も終わろうとしているのに、まだ稲刈りをしてない田圃が広がっていく。平日だから、バイクは滅多に見掛けない。気分が落ち着くような、でも、見掛けないのも寂しいような。

 丁字(ていじ)路の信号待ちで、見るともなく対向車を見た。
 若い女性が所在なさ気に、というか手持無沙汰というか、視線をハンドルから離した手元に落として、指先をいじっていた。スマホを見ているわけではないらしい。
 信号が変わって走り出すと、あちらも走り出したけれど、擦れ違う際、見るとハンドルに手は添えていたものの、視線は下向きのままだった。「心、ここにあらず」、というやつか。何だか見たことのあるような光景だった。

 それで何となく何かが分かったような気がした。
 バイクに乗っている時は、みんな前を見ている。けど、車の運転をしている時は、視線は前に向けていても意識は前に向いてない人が、結構いる。その理由だ。
 ガラス越しに、他のことを思っているらしいことは、これまでに度々感じていた。
 勿論、バイクだって、ぼんやりしていても、意識が前に向いていなくても、乗れる。慣れ親しんでいるのだ、無意識にアクセル、クラッチ、ギヤチェンジくらいは操作している。車だってMT車を無意識の裡に操っている人がほとんどだろう。

 ひねくれ者が「スクーターなら右手だけだから、AT車とそんなに変わらない」と言うかもしれない。
 けど、その「無意識」の中に、「バランスをとる必要」、がスクーターにも絶対あって、それが「前方を見ること」に大きく係わってくるという違いがある。これに関してはAT車とスクーターは全く違う。
 「バランスをとる必要」があるから、バイクやスクーター乗りは「とにかく前を見る」しかない。
 「危険察知のために前を見る」・「景色を見るために前を見る」、に加えてバイクには「バランスをとるために前を見る」という理由が加わる。そしてそれが「景色を見るために前を見る」ことの楽しさを倍増させている。

 バランスを取らなければ立ちごけをする。こけたら160キロ(場合によっては300キロ)以上もある鉄の塊を一人で引き起こさなきゃならない。そんなマイナス要素のおかげで、却ってそれがバイクの魅力を際立たせている、といっても良いのかもしれない。
 変態かもしれない。でも考えてみれば、世の中の進歩(=色々な欲求の果て)なんて、こんな「偏執狂っぽい、ものの取り組み方」に、多くを支えられているんじゃないか。

 ひとくちに「前を見よ」、「前を見ることが大事だ」と言ったって、認識の度合いは人それぞれだ。いや、それどころじゃない、雲泥の差があるのが通常だ。これは政治や国事も同じことだろう。
 車の自動運転が現実のものになりつつある。事故はなくならないだろうけど、激減するだろう。けど、運転する楽しさは「激減」ではなく、「消滅」するわけだ。

 道の駅で、予定通り、柿の葉茶を買い、戻ってきた。一時出発、三時帰宅。往復二時間ほどの、例によって、いつもの「ショートツーリング」。
 着込み過ぎて少々暑かったけれど、逆に薄着だったら「肌寒さ」を通り越していただろう。
 着込み過ぎを
 「準備が良過ぎて間が抜ける、とはこのことだ。『総括』すべきだ」
 、なんて言うのは愚の骨頂だ。

 


2016.10/28
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十月は十月の風

2020年01月15日 | バイク 車 ツーリング
 コペンで行ってたら、どうだったろう。
 手の冷たさは言うまでもなく、いつもの腕に当たる風の冷たさ、それも袖の表側だけにじわっと浸み込んでくる寒さなんかも当然、ないわけだ。
 車だったら全く快適で、気分が後ろ向きになる、なんてことは金輪際ないんじゃないか。

 そう思った瞬間、気づいたことがある。
 「それはないわ、な」。
 足元からは温風が吹いてくるし、シートヒーターはあるし。
そんなものなくたって、吹きっさらしなんてことはないわけで。

 気づいたのは「風」のことだ。風が違う。車にあたる風は単調な風だ。
 夏の暑い時、大汗かきながら長袖のジャケットを着て、「ゆでだこ製造機」みたいなヘルメットをかぶる。
 けれど、そうやって走りはじめた時の爽快感は「サウナの後の生ビール」どころではない。それに、オープンカーのような「頭上だけの爽快感」ではない、道の変化につれて、全身の爽快感が風と共に続く。
 手の冷たさ、腕の冷たさがない、という快適さと引き換えに、爽快感を失う。
 快適さには変化がないから、次第に当たり前のものになり、いつしか神経は鈍麻していく。バイクに乗っていると、道の変化につれて変化し続ける風は、爽快感も変化させ続ける。

 もう一つあった。
 カーブで遠心力に耐えることを意識させる車と、受け身で「耐える」のではなく、カーブの内側に前傾した上体を倒し込んでいくバイクと。
 どちらが能動的、主体的かは言うまでもない。

 ブログを書けば日記を書かず。日記を書けばブログを書けず。
 四苦八苦して「文章」を書くのに比べたら、その日の出来事をただ記録するなんてどうってことはない。
 けど、その「毎日、記録しておかねばボケる」から、との理由だけでつける日記に時間を取られると、四苦八苦する集中力(神経体力)が失せてしまう。
 自分にとって本当に大事なのはどちらだろうか。そりゃ四苦八苦した方が良いに決まっている。何たって、それは「鍛錬」なんだから。

 一日、家で寝っ転がって、もやもやと物思いにふけるか。
 それとも日暮れを気にしながらも道に迷ってみるか。
 「黴の臭いのしない快適さの中」でなら、本当に「考えることだけ」、に集中できていたろうか。
 車の快適さの中にいて、積極的な文句、不満を感じたろうか。
 
 五月に予定していたツーリングが、今頃になってしまったけれど、前回書いたように、それは全く別のツーリングなんだと気づいた。
 五月は五月のツーリング、十月は十月のツーリング、だ。
 同じ、物寂しく、ちょっと冷たい程度の風だけど、春の風と秋の風は全く違う。
 いや、そう感じるのは自分の思い込みだ。「前傾した上体を倒し込んでいく」自分の積極的な気持ちが、そう捉えようとするのだ。

 いつものように道に迷い、いつものように一抹の心細さと、うら寂しさを感じながら、日のあるうちに帰ってきた。
 ちょっと冷たい程度の風の中を、一日、走り続けてみると、
 「やっぱり『書を捨てよ。街に出よう』、なんだな」
 、と思う。

 安住している暇はない。日暮れは確実に近づいてきている。
 同じ風に翻弄されるのなら、翻弄されていると気が付き、抗う方がいい。どMみたいだけど、充実感がある。
 現実の快適さに気づかず、また気づこうともせず(積極的に向かおうともせず)、受け売りの不満を口にするだけ、日暮れを失念するだけ、なんて我慢がならない。
 
 う~ん、そうか!それで街頭インタビュー見てると腹が立つのか。
 国会での野党の質問にも腹が立つから、同じようなものがあるのかな???


2016.10/13


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今年の「成人の日」は終わったけど

2020年01月15日 | 重箱の隅
 二年前に書いた日記なんですが、もう一度見直してみます。
 ・・・・・・・・・・・・・
 世間話 「成人式」   2018.01/10

 一月八日に、いつも何かと話題になる「成人式」が各地で行われた。
 今回は成人式がらみの全国規模の詐欺(窃盗事件かも)事件ばかりが報道されていたけれど、ルーティンのようになってしまった新成人のバカ騒ぎは大方が影を潜めたような。
 沖縄なんかはあんまり静かで、「一体どうしたんだ?いよいよ独立か?」なんてネットで話題になっていたけど。

 それにしても一月八日が成人の日、だなんて未だにピンと来ない。
 ずっと「成人の日」は一月十五日、と決まっていた。それが「ハッピーマンデー」とやらで、第二月曜日になったんだとか。「大事な祝日を!ふざけとる!」
 ・・・・なんてことを思ったんだけど、じゃ、「何で一月十五日だったんだ?」となると、これがはっきりしない。それで何となく小正月に関係があるんだろう、くらいに思っていた。

 30年くらい前だったか、ひょんなことからこれ(成人式)が戦後に生まれたものだと知った。
 それも埼玉県の蕨市が戦後に「新しい日本をつくっていく若者たちにエールを送るため『成年式』をやろうではないか」と言い始めたのが発端らしい。(当時は青年祭という名だったそうだ)
 この話を聞いて「そりゃ、いいことだ」、と全国で倣う自治体が続出、「それならばいっそ国民の祝日にしようではないか」、となった。
 「新生日本」らしい、何とも軽いフットワークだ。それはそれ、清新の気に溢れている感じがして良いものだ、とは思う。

 ただ、問題はそうやって思い遣りから至れり尽くせりのことをやっていると、それが当たり前のことになってしまい、いつしか本来の目的が忘れ去られてしまいがちになる、ということだ。「祝ってやりたいと思う」側も、「心遣いを喜ぶべき」側も、だ。
 祝うのは「新しい仲間ができる。これから地域を支える力となって頑張ってくれよ!」という激励の気持ちからだ。
 祝ってもらう側は「まだ何もできないのに、一人前の大人として認めてくれるんだ。期待に応えるため、頑張ります!」と決意表明をする。
 双方の気持ちが一緒になって、感動し、意気に感ずるから、社会が栄える。

 けれど、最初に行った蕨市や、それに倣った市町村はともかく、いきなり「国民の祝日」となって
 「うちの町もその日に成人式、やらなきゃまずいだろ。式なんだから、式次第考えて、会場を押さえて、来賓は誰を呼べばいいんだ?準備は他に何をすればいいかな?ええと、それから・・・」
 、なんて、多くの市町村の役所・役場がバタバタしたであろうことは容易に想像できる。
 本来の「新成人に期待する!これからの我が町の発展のために頑張ってくれ!」
 と、プレッシャーをかける気迫が主催者側に薄く、ただの「行事」として「こなそう」というやっつけ感が生れる。祝ってもらう方も「成人式ぃ~?めんどくせえ~!」、なんて。

 どの地域にも昔から「成人式」みたいなものはあった。でも、それは一様に「大人になることを覚悟する」「大人になる意志表明をする」新成人達に対して、その心意気を祝ってくれる、というものだったと思う。
 漁師町の若衆宿での荒っぽい肝試しみたいなことは立派な成人式だし、武士の元服や、江戸期以前からの郷士や地侍の集落での「名替え式」、「烏帽子式」などは厳粛なものだった。
 「ここから大人の仲間入り」ということだから、大人としての仕事が配分されることになる。できない、では済まされない。
 だから「ちゃんと命がけで取り組みます」と決意表明をしなけりゃならない。そんな場所で他人に迷惑かけての乱痴気騒ぎ、なんてのは言語道断、即刻手討ちもの、の所業だ。そんなのは「決意表明の場をぶち壊す」ことでしかないからだ。

 大体、新成人の「意志・覚悟の有無」が分からない段階で、大人側から一方的に祝ってやる、なんて考えてみればおかしな話だ。
 それに加えて成人式だから振袖着ていかなきゃなんねえ、なんてのは全くナンセンスな発想だし、そんなバカな文化は日本にはなかった。
 そう考えると、今の成人式なんて機動隊を動員したり、警備体制を厳重にしたり、で。そこまでしてしなきゃならない物なのかな、と思ってしまう。

 いや、別に「地域住民として、地域発展のために尽くすことを誓います」と、誓詞血判を提出すべきだ、とまでは言いませんけどね。
 でも、「日本人として恥ずかしくない生き方をしたい」と胸中で誓うくらいは当然のことと思います。
 日本に生まれ育った日本人なんだから。

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