CubとSRと

ただの日記

花見ツーリング 新緑ツーリング (後)

2020年01月13日 | バイク 車 ツーリング
 四月十日。
 怠け者の所有者の整備不足と、海岸ゆえの強烈な潮風と、路面凍結防止剤による塩害と、で、フロントフォークをはじめとして色々な部分が錆びた(というより腐食した)状態で、それこそ海から百年ぶりに引き揚げられた幽霊船よろしく、フジツボこそついてなかったけど真っ白になっていたSRを、化粧し直してもらっていた。

 三月の初めに預けて一ヶ月余り。受け取りに行ってみると、フロントフォークの錆を落とし、透明な塗料でしっかりと塗装され、すっかり落ち着いた姿になったSRが待っていた。このSRでどこへ行こう。

 先日の雨上がりの午後。
 やっと雲の切れ間から陽が射し始めた。新緑の萌え始めた山々が目の端に入って来る。これを見てしまうと、全くじっとしていられない。「そぞろ神のものにつきて心を狂わせ」、だ。

 どうにもそわそわとしてしまって辛抱することができず、
 「ダムを見に行くくらいなら今からでも」
、と思いついて、いそいそと準備を始め、出発する。

 で、「やっぱりな」、と実感したこと。
 車は屋根を開け、ドアガラスも下して走ると、間違いなくバイクより「余裕を持って」周囲の景色を楽しむことができる。
 新緑を眺めながら車を走らせるのも、花吹雪の中で風に吹かれるのも、いつも車はゆったりとしている。バイクはぼんやりしていたら眺めの方にバイクが向かっていこうとする。
 「軽しか乗ったことのない者が断定するか?」
、と笑われそうな気もするけれど、軽も普通も関係ない。おそらく車は多かれ少なかれ同じことを感じるんだろう。スポーツ走行でない、飽く迄も「ツーリングとして」の話なんだけど。

 初めから屋根もドアもないバイクだ。
 周囲の景色を楽しむ余裕以前に、走り出した途端に否応なく景色の中に放り込まれる。「余裕を持って」、なんて「余裕」はない。「余裕」というクッション自体がない。
 「座り心地のよさそうなソファーだなぁ」と思っておもむろに座ってみるんじゃなくて、バイクのシートは、つい座ってしまって「座り心地、いいなぁ」。

 片道三十分足らずの山間のダムへの道は、新緑の真っただ中を走る道だ。
 その新緑を、そういうわけで余裕を持って眺めることもなくダムの展望駐車場へ向かう。新緑を眺めてはいないけれど新緑に包まれている自分がいる。

 錆を落として化粧し直したSRが単気筒の鼓動と共に新しい緑を拓いて自分を載せて走っている。
 帰って残ったものは、「景色の中にいた」、という実感だけだ。
 車で、見渡して焼き付けた景色と、ただ景色の触感だけが残るバイクと。

 「還暦、過ぎたんだ。余裕を持って辺りを見渡す方が大人なんだろう」とは思う。
 でも、
 「辺りを見渡す余裕より、景色の中に入る方が、ずっと気持いいよなぁ」とも思う。


2016.04/26
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花見ツーリング 新緑ツーリング (前)

2020年01月13日 | バイク 車 ツーリング
 「逃がした魚は大きい」
 実は本当に逃がした魚は大きかったのかもしれない。
 要は大方のことは「こちらの受け取る時の気持ち次第」、ということを考えに入れなければ、ということです。感受性を大事に、というけれど言葉通り「感受する」(受け取る)ばかりじゃなくて(受け身じゃなくて)、こちらからが感じ取ろうとする。

 島根に帰っていた間、何度かツーリング(と言っても車ですが)に出掛けた。
 9号線は京都から下関まで山陰海岸を走る長大な国道だが、海沿いを走る部分は実はそんなに多くない。
 けれどたまに山間から姿を見せる山陰の海には、瀬戸内の海岸線とは違った美しさがある。
 陽光の反射の中に浮かぶ春の瀬戸内海はどこまでも輝いているけれど、陽の光と同じ方向から見る日本海は、本来の海の色のままだ。冬の海と違って穏やかで静かな、しかし寒色の青さが水平線まで続いている。波はほとんどない。

 その青さを右に見ながら下関方向に西進する。
 海に近い筈なのに山間(やまあい)の道を進む。すると急峻な、でも小さな左右の山々の中腹に山桜が見える。
 瀬戸内の山々は意外に大きく、そのわりに低灌木が山肌を覆っていて桜は滅多にないのだが、9号線は間近の小山の連なりに必ずと言っていいほど山桜が見える。平地の桜並木と違ってそれはまた別の美しさを見せてくれる。
 並木の華やかさと違って山肌の一本桜からは凛々しさを感じる。
 そういえば「敷島の大和心を 人問はば 朝日に匂ふ山桜花(本居宣長)」という歌があった。あれはどう考えたって並木じゃないな。

 田舎に帰っている間、山口県も下関に近い角島大橋を見に行こうと思い立った。ちょうど桜の時期だった。
 遠く角島(つのしま)まで海上に細い高架橋が延々と伸びていた。写真では何度も見た景色だけれど、実際にそこへ行ってみると格別なものがある。
 それから数日後、今度は改めて桜を見に、江津(ごうつ)の桜江(さくらえ)から三瓶山を回って斐伊川の桜並木を目指した。
 更に数日後、今度は三瓶へ、遅れて咲く高山(たかやま)の桜を見に出掛けた。
 都合三回、車で花見ツーリングをしたことになる。
 ちゃんとその都度弁当を作って持って出たし、運転中、半分以上屋根を開けていたから、ドライブというより、ここはやはり気分はツーリング、だ。
 だから、神戸に戻ってきたらできるだけ早く日記にしようと思っていた。
 それが熊本の大地震発生、だ。機会を逸して今になった。

 ・・・・ということなのだが、それにしてもどうしてこんなに遅くなってしまったのだろう。
 SRは神戸にあるのだから、車での花見ツーリング。それぞれに桜は美しかった。
 けど、何か物足りない。何が足りないのだろう。

                      (後半へ続く)
 
 2016.04/24
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皿蕎麦十枚

2020年01月13日 | バイク 車 ツーリング
 天気を見誤り、進路を間違え、それでも景色の中で、風にあたる心地良さに我を忘れてひたすら進む。
 そして何とか目的地に着き、夢に描いた景色や味と、現実のそれ、とのギャップに驚く。多くは失望が胸に広がる。
 早い話が、素晴らしい景色は安っぽい新造の土産物店や傍若無人の神様連中(お客様、とも言う)のせいで色褪せ、期待していた食べ物は、「?」が頭の周りをぐるぐる巡り続けるような味だったりする。

 帰途。同じく風を割いて走りながら、左右に飛び去る景色の中で味も景色も忘れていく。そして帰り着いた時には失望感はすっかり失せて、帰り着いた気の緩みと疲労感だけが残っている。

 夢の方がいいか。
 一歩も出ないで、想像だけする。がっかりしたり嫌悪を感じたり、疲労感だけが残ったりするツーリングより、実感はないけど「良いこと尽くめ」の、想像するだけの夢の方がいいか。
 がっかりしても、嫌悪を感じても、疲労感だけが残っても、それらは全て「路上を走る、風の中にいる快感」に包まれていた。
 笑顔で「がっかりだぁ~」、「ヤな感じ」、と言っているようなものだ。心と体は裏腹だ。根底に充足感がある。
 確かに風の中に居る快感は何よりも大きい。何ものにも代え難い。
 フェラーリに乗ってのドライブを夢想するより、衆目を集めるド派手なハーレーでのツーリングを夢見るより、軽トラに荷物を放り込んで、そうでなければスーパーカブに雨具を括り付けて、目的地に向かって走り出してみる。そうやって全身で手応えを感じ取る。ツーリングが見せてくれる「将来を切り拓くヒント」はそこにあるのだろう。

 新聞等のマスメディアの報道を鵜呑みにして、考えたつもり(夢見ただけ)でデモに参加する。それはスーパーバイクに跨っただけだ。エンジンをかけたことにはならない。ましてや「ツーリング」には絶対にならない。カブでツーリングに出掛けることにも、金輪際、ならない。
 (「盗んだバイクで走り出す~(^^♪」 ことは隣の大国のマネにしかならないから、絶対にやめよう)

 何度も道を間違えて、十年ぶりに何度も通った店に入り、皿そばを十枚ほど食べて、そのまま帰ってきた。いつも通り美味しかったから、それでいい。
 他には何もしなかった。
 今、久し振りに出石蕎麦を食べた記憶が、フロントフォークが錆びて真っ白になったSRで風に向かっていった記憶と共に、ある。
 フジツボこそついていないけれど、カリブの伝説の海賊船「黒真珠号」みたいになった、フロントもドラムブレーキのSR。
 「夢」では、こうはいかない。


2015.10/24
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迷いながらも

2020年01月13日 | バイク 車 ツーリング
 雨が降れば、
 「こんな時期にツーリングに出られないなんて、なぁ~~。残念だなぁ~~。良い季節なのに」
 、と思う。
 晴れていれば、
 「好い天気だなぁ~。こんなになるんだったら、早起きしてツーリングに出るんだったなぁ~」
 、と思う。
 で、
 「よし、これだけ好い天気なら、明日こそどこかへ行こう」
 、と思って、早くから寝ようとする。
 けど、早く寝ようというのは気持ちだけで、却ってワクワクして、つい寝るのが遅くなる。いつも通りの夜更かしをする。
 そして翌朝、
 「あ~~、眠い。これじゃ眠くなりそうだからもう少し」

 七時を回って起き出してもごもごしていたら九時になる。
 「あ~~っ、今から出てもなぁ~~っ」
 夜になって
 「明日も好い天気みたいだから、明日こそ行こう」
 翌日が休日とは限らない。そうしていたずらに日が過ぎる。

 車に乗るようになって、バイクはただ一台、となった。二者択一になった。
 これまでは数台のバイクを眺めて「どれにしようか」、だったんだけれど、今はバイクと車一台ずつ。(カブ90は買い物専用)
 選択は容易くなったか、というとさにあらず。ますますツーリングが遠のいてしまう。
 バイクだけなら二回思いついたら一回は行く。でも車だって二回に一回なわけで。それぞれが二分の一だから四回思いついて一回しか行かなくなってしまうなんてこともある。

 出なかった日は、空想、想像だけしている。そうして「行っときゃ良かったな~」と後悔している。
 でもガソリン代を初めとして諸費用は全くかからなったわけで、「想像」しているだけだから、安上がりだ(安上がりも何も、無料だ。当たり前だけど)。
 想像しているだけ、夢を見るだけなら何の実害もない。益ばかりだ。大言壮語は無責任で良い。

 ああだこうだと思いながらも、今回のように何とか出発することもある。
 けれど、出発して数百メートルも行かないうちに、後悔が始まる。
 「しまったなぁ。思ったより寒いぞ。こんなことならもう一枚、着てくるんだった」
 引き返して着替えてくると、更に三十分以上おくれるのは経験で分かっている。
 だから、寒いと思ったその瞬間から、後悔しつつ走り続ける。基本、それは帰って来るまで続く。

 通り慣れた道をしばらく進むと当然のことながら、目的地までは滅多に通らない、或いは全くの初めて、の道に入る。
 以前通った道であっても、改修してあったりすると雰囲気がすっかり変わってよそよそしい顔になっている。
 そして私のような方向音痴は道の曲線に簡単に騙される。気がついたら見当違いの方向に、それも時には数十キロということがざらにある。
 「また間違えたぁ~っ」

 後悔の念は更に強まる。



2015.10/23
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