2015.11/16 (Mon)
社報「靖國」11月号からの部分転載、後半です。
「左翼的な県民性だ、と思っていたがそうではなかった。それどころか敬神の念に篤く、剛毅・純朴な人々だった」
こんな人々が、あれだけ猛烈な基地反対運動などするだろうか、と私の疑念を書いたのは、先祖祀りと、社会批判・革命運動とはつながらないからです。
革命はこれまでのすべてを否定する。先祖を祀ることさえ否定する。当然でしょう、これまでの社会を支えてきた人々なのですから。社会を否定する、ということは支えるという行動をも否定するということです。ということはその社会の人々の先祖もみんな否定することになる。先祖否定=先祖祀りの否定です。
先祖は否定するのに、先祖祀りはする、というのは変でしょう。社会を否定するということは、先祖祀りも肯定「してはならない」。
だから孔子の墓だって暴かれたんだし、そんなことをされたらたまらん、ということで周恩来は墓を作らせなかった。
脱線しました。
「基地反対運動は革命ではない。大和と琉球は国が違うのだから当然のことだ」
という人もいるかもしれない。でも、それはまやかしだ、基地反対運動は革命(独立)運動のために利用されているし、沖縄県は間違いなく日本だということを、今回、改めて思わされました。
明治の「琉球処分」を批判する人があるけれど、先述した通り、「処分」に冷たい意味はありません。
江戸時代、沖縄は「琉球国」と名乗って島津藩の支配下にありました。日本>島津藩>琉球国です。
それが新しい国家体制を作るために、明治政府は琉球も同じく一つの県、とした。鹿児島に支配されていたのに、鹿児島と同列に置いた。だから明治天皇を恨んではいない。恨んでいないからこそその明治期の琉球処分を思い、敗戦後の一日も早い本土復帰を願うために明治天皇の顕彰を、と銅像を建立した。そう思うのが妥当ではないでしょうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「沖縄のこころ」
~県民憧れの宮・沖縄総鎮守 波上宮を通して見た沖縄~
<天照大御神を祀る浮島神社>
さて、昔の那覇は、海に面し、国場川・安里川・久茂地川と三方を川に囲まれた謂わば浮島のようなものであった。そこで、明国の冊封使が那覇の港に到着し、首里に向かうまでには、どうしても、川を渡る必要があった。
時に琉球国第一王朝・金福王の時代、那覇に石の橋、堤を築いて冊封使をお通しするようにとの王命が国相の懐機に下った。
川底は深く、両岸は離れており、どのようにして石堤を築けばよいかと、懐機は途方にくれた。そこで、彼は、福州の人であったが、大和で最も尊い「天照大御神」を祀り、二夜三昼の間、祈り続けた。
すると、徐々に潮がひき始め、七日の間、再び満ちてくる事が無かったという。懐機は多くの部下を使い石堤を造り上げた。
それが、のちに琉球八景の一つに称えられる長虹堤である。懐機は、この石堤築造の大工事が無事完了したのは天照大御神の御蔭であるとし、自らの邸宅をこの神に捧げ、そこに「長寿宮」(ウイシノミヤ=御伊勢の宮)を建てた。
一昨年、伊勢神宮の御遷宮が行われた事は記憶に新しいが、まさに、琉球王朝の最盛期に、伊勢の皇祖神・天照大御神がこの地に祀られた事は特筆大書すべきであろう。
(大和であればごく自然のことであろうが、当時は「琉球国」だったのである。)
現在、このお宮は土地問題の為に波上宮の境内に「浮島神社」として祀られているが、今も那覇市松山一丁目五番地には、その石碑が残っている。浮島神社には土地問題、経済的問題もあるが、早く元のお姿に御復興申し上げる事が私共の悲願である。
<琉球の王様は日本人>
さて、一四五二年、今の那覇市松山から崇元寺迄の石堤「長虹堤」が完成し、大和の皇祖神・天照大御神が祀られた。しかもそれを祀ったのは、国相・懐機である。当然、王家の許しなくそのような事はできないし、必ずや王家の理解あっての事であろう。
そこで、尚王家に就いては、「尚」という姓から、中国大陸系統か朝鮮半島系統かと思われがちだが尚姓は明国から第一尚王家の祖「尚巴志」が戴いた外交上の姓である。
そして元を辿れば「尚巴志」の祖父は鮫川大主、その親は屋蔵大主であって、日本人なのである。
(やや長くなりましたので、ここまでを中として、次回を最後にします)
社報「靖國」11月号からの部分転載、後半です。
「左翼的な県民性だ、と思っていたがそうではなかった。それどころか敬神の念に篤く、剛毅・純朴な人々だった」
こんな人々が、あれだけ猛烈な基地反対運動などするだろうか、と私の疑念を書いたのは、先祖祀りと、社会批判・革命運動とはつながらないからです。
革命はこれまでのすべてを否定する。先祖を祀ることさえ否定する。当然でしょう、これまでの社会を支えてきた人々なのですから。社会を否定する、ということは支えるという行動をも否定するということです。ということはその社会の人々の先祖もみんな否定することになる。先祖否定=先祖祀りの否定です。
先祖は否定するのに、先祖祀りはする、というのは変でしょう。社会を否定するということは、先祖祀りも肯定「してはならない」。
だから孔子の墓だって暴かれたんだし、そんなことをされたらたまらん、ということで周恩来は墓を作らせなかった。
脱線しました。
「基地反対運動は革命ではない。大和と琉球は国が違うのだから当然のことだ」
という人もいるかもしれない。でも、それはまやかしだ、基地反対運動は革命(独立)運動のために利用されているし、沖縄県は間違いなく日本だということを、今回、改めて思わされました。
明治の「琉球処分」を批判する人があるけれど、先述した通り、「処分」に冷たい意味はありません。
江戸時代、沖縄は「琉球国」と名乗って島津藩の支配下にありました。日本>島津藩>琉球国です。
それが新しい国家体制を作るために、明治政府は琉球も同じく一つの県、とした。鹿児島に支配されていたのに、鹿児島と同列に置いた。だから明治天皇を恨んではいない。恨んでいないからこそその明治期の琉球処分を思い、敗戦後の一日も早い本土復帰を願うために明治天皇の顕彰を、と銅像を建立した。そう思うのが妥当ではないでしょうか。
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「沖縄のこころ」
~県民憧れの宮・沖縄総鎮守 波上宮を通して見た沖縄~
<天照大御神を祀る浮島神社>
さて、昔の那覇は、海に面し、国場川・安里川・久茂地川と三方を川に囲まれた謂わば浮島のようなものであった。そこで、明国の冊封使が那覇の港に到着し、首里に向かうまでには、どうしても、川を渡る必要があった。
時に琉球国第一王朝・金福王の時代、那覇に石の橋、堤を築いて冊封使をお通しするようにとの王命が国相の懐機に下った。
川底は深く、両岸は離れており、どのようにして石堤を築けばよいかと、懐機は途方にくれた。そこで、彼は、福州の人であったが、大和で最も尊い「天照大御神」を祀り、二夜三昼の間、祈り続けた。
すると、徐々に潮がひき始め、七日の間、再び満ちてくる事が無かったという。懐機は多くの部下を使い石堤を造り上げた。
それが、のちに琉球八景の一つに称えられる長虹堤である。懐機は、この石堤築造の大工事が無事完了したのは天照大御神の御蔭であるとし、自らの邸宅をこの神に捧げ、そこに「長寿宮」(ウイシノミヤ=御伊勢の宮)を建てた。
一昨年、伊勢神宮の御遷宮が行われた事は記憶に新しいが、まさに、琉球王朝の最盛期に、伊勢の皇祖神・天照大御神がこの地に祀られた事は特筆大書すべきであろう。
(大和であればごく自然のことであろうが、当時は「琉球国」だったのである。)
現在、このお宮は土地問題の為に波上宮の境内に「浮島神社」として祀られているが、今も那覇市松山一丁目五番地には、その石碑が残っている。浮島神社には土地問題、経済的問題もあるが、早く元のお姿に御復興申し上げる事が私共の悲願である。
<琉球の王様は日本人>
さて、一四五二年、今の那覇市松山から崇元寺迄の石堤「長虹堤」が完成し、大和の皇祖神・天照大御神が祀られた。しかもそれを祀ったのは、国相・懐機である。当然、王家の許しなくそのような事はできないし、必ずや王家の理解あっての事であろう。
そこで、尚王家に就いては、「尚」という姓から、中国大陸系統か朝鮮半島系統かと思われがちだが尚姓は明国から第一尚王家の祖「尚巴志」が戴いた外交上の姓である。
そして元を辿れば「尚巴志」の祖父は鮫川大主、その親は屋蔵大主であって、日本人なのである。
(やや長くなりましたので、ここまでを中として、次回を最後にします)