もう何年も前のことだけれど、二輪雑誌だったろうか、こんな記事を読んだことがある。
家族連れをターゲットに各地に作られたレジャーランド。
特に変わったものがあるわけではないけれど、小動物に触れたり、遊び場があったり、と休日を楽しく過ごせるように色々なアイデアが詰め込まれていた。
中には車で入り、好きなところで車を停めて、その場で食事をしたり、遊んだりできるという所もある。
それが、あるところで、車は(当然)良いけれど、バイクは入園禁止ということになった。何故?
理由は、バイクは不安定だから、停めていても子供がさわって、倒れたり下敷きになったりする。マフラーやエンジンに触れると火傷をする。
だからだ、という。危険なのだ、と。
何だかありそうな話だけれど、「あったから」ではない。
どこかしら、おかしい。
「起こるまで待つべきだ」と言っているわけではない。それでは、人が犠牲にならなけりゃ、と言っている事に等しい。
電車の中で子供が騒ぐ。「静かにしなさい」と子供を叱る。
本来なら、
「他のお客さんに迷惑だから静かにしなさい」
と言うのは親の仕事です。ところが全く知らん顔をしている親が増えて来た。
で、見かねて注意をする。
そこで、親は初めて子供を諭(さと)す。
「おじちゃんに叱られるからやめようね」
最近では
「お金払って乗ってんのよ。何よ少しぐらい!」なんてのも。
全く正反対のこともある。
「車が居ないから、横断歩道を渡ろうとしたら、『ママ、信号が赤でしょ』と子供に言われた。反省しなけりゃ」
という「負うた子に浅瀬を教えられ」の典型みたいな話。
また、
「子供は自由にのびのびと育つのが一番。しつけなんて。大らかな方がいいでしょう?」
「小さなおとな。同じ人間なんだから。話せば分かるんだから」
「子供の時、よく叩かれた。とても嫌な思いをした。だから、子供には手を挙げない。」
状況も事由も違うものをズラズラと書き並べたけれど、実はこれ、共通していることがあります。
全て、これまでの日本文化にはなかったもの。日本人の特性とは違った発想と意思からのものだ、ということです。
ここにあるのは「傲慢」と「思い込み」。
「お金を払ってるんだから」「赤信号なんだから」「子供だって同じ人間」「私はよく叩かれたから」
これ、みんな「自分の思い込み」が判断基準です。
そして、相手のこと周辺のことを、全く「思い遣って」いない。
ここにあげた中で、「?」と思われるだろうことを一つ。
「赤信号で渡ろうとしたこと」も傲慢?社会ルールを守ってるのに?
バイク乗りは思います。(歩行時ですよ、飽く迄も)
「赤信号で車は停まる。青信号で車は走る。青信号で横断歩道を歩いて、車にはねられた。悪いのは車だ。その通り。でも、死んだ人は生き返らないよ」
大事なのは、青信号でも車が来ないかどうか確かめることです。
制限50kmの道を70kmで車が流れている。頑なに50kmで走行するとどうなる?悪いのは70kmで流れている車全体だ。みんな交通違反で検挙する?
そのやり方は実社会で可能か?
車道は危なくて仕方がないから、歩道を自転車で走る。違反で検挙する?極力スピードを抑えれば、日本では道を譲ってくれますよね?「ありがとうございます」の一言で笑顔だって返って来る。
ルールというのは、みんなのために良かれと思って作られたものだから、その基本には「思い遣り」があるはずです。(他のために良かれと思う)
二十代の頃、伊丹十三のエッセイをよく読んだのですが、
「イギリス人は忍耐強くよく並ぶ。全く文句を言わない。日本人はどうだ」
みたいなことが書いてありました。
少なくとも「北京の五十五日」が作られた頃の日本人というのは、今の、隣国ほどではないにせよ、並ぶということがあまり得意ではなかったようです。
つまり、行儀が悪かった。
最近は団体でやって来て電化製品(主に電気釜?)をいくつも買い込んでいく大陸旅行団が有名ですが、同じように数十年前は、札束持って小旗を先頭にゾロゾロやって来てブランド品を買い漁る日本人を、西欧の人々は「ノーキョー」と呼んで冷笑していたことをご存知ですか?
今は昔、の話です。あの頃より今の人々の方がよっぽどルールを守るし、マナーもエチケットもある。けれど、「謙虚さ」とか「思い遣り」となると、どうだろうか、と・・・・・。
初めの「バイク入園禁止」の話に戻ると、
「倒れて来るかもしれない」「下敷きになるかもしれない」「マフラーで火傷するかもしれない」
だから禁止?それ、「思い遣り」でしょうか?ということなんです。
子育ての段階で、「思い遣り」という感性は、教えていくものです。言葉で、とは限りません。感性(感受性)、感情ですから。
「思い遣り」は日本人の国民性。そして、教えられなければ「国民性」というものは身につくものではありません。
「国民性」というのは感性を基盤とする文化そのものです。
子供がバイクに近づこうとしたら、いきなり
「危ないよ!下敷きになるかもしれない」
「危ないよ!やけどするよ」
などと言わず、まず、子供を安全な所に留め、それから一緒に眺めることをすればいい。そこで子供が手を伸ばしたら、初めて何らかのアクションを起こす。
そういうことをしない親。クレームを回避したい経営者。
結果、バイク入園禁止。
引き換えに多くの教育チャンスを無にしてしまっている。
あの・・・・・・・。ツーリングについて書いているつもりなんですが。
「バイク乗りの心の裡を」、と思っていると、なかなか本題に入れません。
「心の在りよう」が分からないと、たとえば「バイク乗り」に関して言えば、
「ただのバカ」
としか思ってもらえないと、思うものですから。
家族連れをターゲットに各地に作られたレジャーランド。
特に変わったものがあるわけではないけれど、小動物に触れたり、遊び場があったり、と休日を楽しく過ごせるように色々なアイデアが詰め込まれていた。
中には車で入り、好きなところで車を停めて、その場で食事をしたり、遊んだりできるという所もある。
それが、あるところで、車は(当然)良いけれど、バイクは入園禁止ということになった。何故?
理由は、バイクは不安定だから、停めていても子供がさわって、倒れたり下敷きになったりする。マフラーやエンジンに触れると火傷をする。
だからだ、という。危険なのだ、と。
何だかありそうな話だけれど、「あったから」ではない。
どこかしら、おかしい。
「起こるまで待つべきだ」と言っているわけではない。それでは、人が犠牲にならなけりゃ、と言っている事に等しい。
電車の中で子供が騒ぐ。「静かにしなさい」と子供を叱る。
本来なら、
「他のお客さんに迷惑だから静かにしなさい」
と言うのは親の仕事です。ところが全く知らん顔をしている親が増えて来た。
で、見かねて注意をする。
そこで、親は初めて子供を諭(さと)す。
「おじちゃんに叱られるからやめようね」
最近では
「お金払って乗ってんのよ。何よ少しぐらい!」なんてのも。
全く正反対のこともある。
「車が居ないから、横断歩道を渡ろうとしたら、『ママ、信号が赤でしょ』と子供に言われた。反省しなけりゃ」
という「負うた子に浅瀬を教えられ」の典型みたいな話。
また、
「子供は自由にのびのびと育つのが一番。しつけなんて。大らかな方がいいでしょう?」
「小さなおとな。同じ人間なんだから。話せば分かるんだから」
「子供の時、よく叩かれた。とても嫌な思いをした。だから、子供には手を挙げない。」
状況も事由も違うものをズラズラと書き並べたけれど、実はこれ、共通していることがあります。
全て、これまでの日本文化にはなかったもの。日本人の特性とは違った発想と意思からのものだ、ということです。
ここにあるのは「傲慢」と「思い込み」。
「お金を払ってるんだから」「赤信号なんだから」「子供だって同じ人間」「私はよく叩かれたから」
これ、みんな「自分の思い込み」が判断基準です。
そして、相手のこと周辺のことを、全く「思い遣って」いない。
ここにあげた中で、「?」と思われるだろうことを一つ。
「赤信号で渡ろうとしたこと」も傲慢?社会ルールを守ってるのに?
バイク乗りは思います。(歩行時ですよ、飽く迄も)
「赤信号で車は停まる。青信号で車は走る。青信号で横断歩道を歩いて、車にはねられた。悪いのは車だ。その通り。でも、死んだ人は生き返らないよ」
大事なのは、青信号でも車が来ないかどうか確かめることです。
制限50kmの道を70kmで車が流れている。頑なに50kmで走行するとどうなる?悪いのは70kmで流れている車全体だ。みんな交通違反で検挙する?
そのやり方は実社会で可能か?
車道は危なくて仕方がないから、歩道を自転車で走る。違反で検挙する?極力スピードを抑えれば、日本では道を譲ってくれますよね?「ありがとうございます」の一言で笑顔だって返って来る。
ルールというのは、みんなのために良かれと思って作られたものだから、その基本には「思い遣り」があるはずです。(他のために良かれと思う)
二十代の頃、伊丹十三のエッセイをよく読んだのですが、
「イギリス人は忍耐強くよく並ぶ。全く文句を言わない。日本人はどうだ」
みたいなことが書いてありました。
少なくとも「北京の五十五日」が作られた頃の日本人というのは、今の、隣国ほどではないにせよ、並ぶということがあまり得意ではなかったようです。
つまり、行儀が悪かった。
最近は団体でやって来て電化製品(主に電気釜?)をいくつも買い込んでいく大陸旅行団が有名ですが、同じように数十年前は、札束持って小旗を先頭にゾロゾロやって来てブランド品を買い漁る日本人を、西欧の人々は「ノーキョー」と呼んで冷笑していたことをご存知ですか?
今は昔、の話です。あの頃より今の人々の方がよっぽどルールを守るし、マナーもエチケットもある。けれど、「謙虚さ」とか「思い遣り」となると、どうだろうか、と・・・・・。
初めの「バイク入園禁止」の話に戻ると、
「倒れて来るかもしれない」「下敷きになるかもしれない」「マフラーで火傷するかもしれない」
だから禁止?それ、「思い遣り」でしょうか?ということなんです。
子育ての段階で、「思い遣り」という感性は、教えていくものです。言葉で、とは限りません。感性(感受性)、感情ですから。
「思い遣り」は日本人の国民性。そして、教えられなければ「国民性」というものは身につくものではありません。
「国民性」というのは感性を基盤とする文化そのものです。
子供がバイクに近づこうとしたら、いきなり
「危ないよ!下敷きになるかもしれない」
「危ないよ!やけどするよ」
などと言わず、まず、子供を安全な所に留め、それから一緒に眺めることをすればいい。そこで子供が手を伸ばしたら、初めて何らかのアクションを起こす。
そういうことをしない親。クレームを回避したい経営者。
結果、バイク入園禁止。
引き換えに多くの教育チャンスを無にしてしまっている。
あの・・・・・・・。ツーリングについて書いているつもりなんですが。
「バイク乗りの心の裡を」、と思っていると、なかなか本題に入れません。
「心の在りよう」が分からないと、たとえば「バイク乗り」に関して言えば、
「ただのバカ」
としか思ってもらえないと、思うものですから。
2011.08/07