CubとSRと

ただの日記

本当のところ

2020年01月24日 | 重箱の隅
前回の「東条たちの悪口を~」に関連して。
些か長いのですが、A級戦犯合祀時の靖國神社宮司松平氏の談話を挙げてみます。西村眞悟氏のブログを拝見して興味を持ち、探し出したものです。
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2016.08/20 (Sat)

 今日、西村眞悟氏のブログを見ていたら、今夏の安倍総理、稲田防衛相の行動を叱責した後で、こんなことを書かれている。
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            (略)
 「かつて、ボディーガードを伴って昇殿参拝した総理大臣がいた。
 靖国神社の時の松平宮司は激怒した。
 祀られる英霊は、戦場で五体裂けて戦死された方々である。
 にもかかわらず、
 平時に自分の身を守るボディーガードを拝殿まで伴うとは何事か、と。
 彼は、明らかに参拝しないほうがよかったのだ。」
           (以下略)

   ~「英霊と西郷さんに会った」  平成28年8月19日(金)より~
               http://www.n-shingo.com/jiji/?page=1233

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 何だそれは。そんな総理大臣がいたのか、と思って調べてみたら、松平宮司(松平春嶽公の末裔)が講演されたものを見つけることができた。

 「神道の作法は執らない。玉串は捧げない。お祓いは受けない」。
 この時点で「何だ、それは!」だが、小泉総理も「一礼しただけで、ポケットマネー」だったな、と思い出した。
 講演記録なので、部分転載でも結構分量がある。しかし、是非読んでいただきたい。

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           (略)
 ・あの総埋大臣の無礼な公式参拝は忘れられない。

 ー政治の渦中に巻き込まないー
 私の在任中に、もう一件世間を騒がせたのは、中曾根康弘総理の参拝でしょう。昭和六十年八月十五日。「おれが初めて公式参拝した」と自負したいからか、藤波官房長官の私的諮問機関として「靖國懇」なるものをつくって、一年間、井戸端会議的会合をやりました。そして手水は使わない、祓いは受けない、正式の二礼二拍手はやらない、玉串は捧げない、それなら「政教分離の原則」に反しないという結論を出したのです。
 しかし、これは私に言わせれば、「越中褌姿で参拝させろ」というのと同じで、神様に対し、非礼きわまりない、私は認めないと言ったんです。
 そしたら遺族会やら英霊にこたえる会の方々に呼ばれまして、「折角、ここまできたんだから、宮司はゴタゴタいわないで、目をつぶってくれ」と、相当強く迫られたのです。
           (略)
 話を中曾根参拝に戻します。遺族会などに「靖國懇」の結論を呑めといわれて、私が反論したのは、手水を使わないのはまあ宜しい。それは前もって潔斎してくるなら、中曾根さんの心がけ次第だ。玉串をあげない、二礼二拍手もしないでお辞儀だけ。これも心の間題で、恰好だけでなく、心から参拝するなら、こちらからとやかくいうことではない。それは譲ってもいい。
 けれども、お祓いだけは神社側の行うことだから受けてもらわなきゃ困る。火や塩や水で清め、お祓いするのは、日本古来の伝統習俗であって、これを崩されると、一靖國神社のみの間題でなく、地方でも中曾根方式を真似て、お祓いを受けないのなら知事は参拝しよう、そう言いだしかねない。それは神社参拝の本質を根底からくつがえす大きな問題だから、と反論したんですがダメなんですね。それで「分った」と。
 しかし、いずれにしろ、こういう形の参拝をさせていただきたいと総理サイドから頼みに来られるのが神に対する礼儀ではないか、と主張しました。
 すると前日の十四日、藤波官房長官が見えたので、目立たないよう、奥の小さい応接間にお通しして、私は言いたいだけのことを言いました。
 天皇様のご親拝のご作法−−手水をお使いになり、祓いをお受けになり、それから本殿にお進みになって、大きな玉串をおもちになって、敬虔な祈りをお捧げになる−−それを全部やらないというのは、弓削道鏡にも等しい。そう靖國の宮司が言っていたとおっしやっていただきたいと、しかし、これは恐らく言われなかったでしょうね(笑)。
 それから、私は明日は総理の応接には出ない、泥靴のまま人の家に上がるような参拝は、御祭神方のお気持に反することで、「ようこそいらっしやった」とは口が裂けても言えないから、社務所に居て顔を出しません、それも伝えてほしいと。

 念のために申し添えますと、靖國神社の例大祭などへの総理参拝は、吉田首相以来あったことです。
 サンフランシスコ調印帰国直後の秋季例大祭に、占領行政下であるにもかかわらず、堂々と「内閣総理大臣吉田茂」と署名し、榊を供えておられます。
 その後、岸、池田、佐藤、田中と、歴代の総理が参拝しておられますが、吉田首相と同様の形式でした。
 八月十五日の終戦の日に参拝するようになったのは、昭和五十年の三木首相からで、肩書なしの「私人」として参拝した、などと言ったものですから、それ以来、参拝する閣僚などに「公人としてか、私人としてか」などと新聞記者が愚にもつかぬ質問をするようになりました。

 私は、お偉い方でも心なき参拝者には、離れた社務所からスッ飛んで行くようなことはいたしません。しかし、年老いたご遺族が、特に地方から見えたら必ず知らせてくれよと奥の方の神職には言ってありました。
 それに、八月十五日だからといって、神社は特別なことをするわけではないのです。
 靖國神社には、新年祭や建国記念日祭といった他の神社と共通の、我が国の安泰を祈願するお祭り、そして春秋の例大祭、月に三回の月次(つきなみ)祭(一日、十一日、二十一日)といった、御霊をお慰めするお祭りと、いわば二通りございますが、八月十五日はいずれにも属さず、特別なお祭りはないのです。
 朝夕に神饌をお供えする朝御饌祭、夕御饌祭が厳粛にとり行われておりますが、これは三百六十五日、毎日行われていることです。ただ、八月十五日には武道館で全国戦没者追悼式が行われ、全国からご遺族の方が見えますので、参拝者の数が多くなります。マスコミも注目する。それで政治家も地元のご遺族方の参拝に合わせて来られるのでしょう。

 私は例年、八月十五日は、武道館のほうへ靖國神社の代表として招かれておりますので、モーニングを着て出席いたします。式が終って、出ようとしても出口が混雑するので待っている。
 その間に首相は、さっさと靖國神社へ回って参拝を終えるので、従来から八月十五日には全然首相とは対面していません。

 ところが、昭和六十年の鳴物入りの「公式参拝」、私に言わせれば「非礼参拝」ですが−−そのときは、武道館での追悼式のあと、総理は、時間調整のため昼食をとられ、その間に武道館から退場したご遺族さんたちを神門から拝殿まで並ばせたんですね。その中を中曾根首相一行が参拝するという、ショー的な手配をしたのです。
 しかし善良なご遺族たちは「公式参拝してくれてありがとう」と喜んで拍手で迎えていました。私はすでに武道館から神社に戻っていたのですが、藤波さんにも職員たちにも宮司は出ていかないと言ってあったので、出ていかない。社務所の窓からご社頭の状況を眺めておりました。ちょっと子どもじみておりますかね(笑)。

 ところが夕刊を見てびっくり仰天。これはしまったと思いました。参拝が終ったあとの写真が出ているんですが、中曾根総理、藤波官房長官、厚生大臣、それとボディガードが写っている。写真では二人しか写ってませんが、四人ついていた。
 拝殿から中は、綺麗に玉砂利を掃き、清浄な聖域になっているんです。天皇様も拝殿で祓いをお受けになって、あとは待従長などをお連れになって参進される。警護はなしです。
 だから、中曾根総理が、厚生大臣と官房長官を連れていくのは、幕僚だからそれは結構だ。しかしボディガードを四人も、自分を守るために連れていくのは、何たることだと思うわけです。
 靖國の御祭神は手足四散して亡くなられた方が大部分です。その聖域で、御身大切、後生大事と、天皇様でもなさらない警備つきとは何事かと、七年経った今でも無念の感情が消え去りません。

 先ほどの祓いの件は、拝殿に仮設した記帳台のまわりに幕をコの字型に張り、外から見えないようにして、署名のときに陰祓(かげばら)いをいたしました。神社としては祓いをした、内閣側では祓いを受けなかった。それで結構です、ということで決着をつけたんです。この程度ですね。
 そしたら、その直後に韓国と中国からいちゃもんがついたんで、しっぽを巻いて、以来、今日まで総埋の参拝は八年間なし、という情けない状態でございます。

 ー心すべきは権力への迎合ー
 それでも、その翌年も中曾根さんは公式参拝したいと思ったけれど、取り止めたんだという。
 そうしたら、中曾根さんに近い読売新間から出ている『THIS IS』誌に「靖國神社宮司に警告す」という一文がのった。それも巻頭言としてです。光栄の至りというべきでしょう(笑)。
 読んでみます。「靖國神社当局は政府も知らぬあいだに勝手に合祀し、国の内外の反発を呼んだ」−−先ほど申しましたように、勝手にではなく、国会で決めた援護法の改正にしたがって合祀をした。しかも、そのとき、中曾根さんはちやんと議員になっているんです。続いて、「外交的配慮と靖國の合法的参拝の道を開くため、首相の意を受けた財界の有力者が松平宮司に対し、A級戦犯の移転を説得したが、頑迷な宮司は、これを間き入れなかったので、首相は参拝中止を選択した」
 頑迷固陋は自認しております(笑)。が、A級戦犯という東京裁判史観をそのまま認めたうえ、邪魔だから合祀された御祭神を移せという。とても容認できることではありません。参拝をやめたのも宮司が悪いからだと、ひとのせいにする。

 「靖國神社は国家機関ではなく、一宗教法人であって、政府の干渉を排除できるというのも一理ある。だが、それなら、首相や閣僚に公式参拝を求めるのは越権、不遜である」
 そんな人々には案内出してませんよ(笑)。昔は権宮司が敬意を表して総理に案内状をもっていった。しかしある時期から、止めさせたんです。だからこの時点では、そんな案内を出していません。
 同誌の結論はこうです。
 「頑迷な一人の宮司のために、靖國問題で国論を分裂させたのは許しがたい。こうした不合理を正せないなら、早急に適当な土地に戦没者と公共の殉職者を祀る公的施設を建設し、靖國神社による戦没者独占をやめさせるべきだ。その建設費のための国債の発行には賛成する」
 「戦没者独占」なんて、御霊を何だと考えているのか、まるでモノのように思っているんでしょうか。
  
             (以下略)

  靖國神社元宮司 松平 永芳  講演   「 誰が御霊を汚したのか 」より
 http://nonbei.hatenablog.jp/entry/20090511/1242007721
 (「nonbeiのIT日記」ブログ 2009-05-11 から転載させていただいた。)
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 ここには転載していないが、「国家護持」という、世間が未だに誤解しているのではないかと思われる事柄についても書いてある。
 「国家護持」という字面だけを見ると、靖國神社が「国を護るための祈りをする場」と早合点する人もいるかもしれない。「在特会」を「在日特権を守る会」と思い違いしている慌て者のように。
 勿論、後者は「在日特権を許さない会」であり、前者は「国が靖國神社を護り、運営する」、という意味だ。が、「信教の自由」を憲法に謳ってある限りは、神道の作法による参拝も祭祀も、勿論のこと神社としての建物も神職の服装もみんな廃止せざるを得ない。それでは「靖國で会おう」と言って散って行かれた英霊達に対する裏切りになる。こんなもののどこが「国家護持」になるのか。
 それを分かったうえで「国家護持」と言っているのなら、それは日本人ではない。


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「このままではいけない。それは分かっている」

2020年01月24日 | 日々の暮らし
2010.01/09 (Sat)

今、
「このままではいけない。このままでは国が滅びる(或いは乗っ取られてしまう)、何とかしなければ。せめて周りの一人からでも覚醒させなければ」
という若い人たちが増えてきました。
本当に頼もしいことだ、と思います。

ただ、ちょっと気になることがあります。
小さい時、
「みんな仲良くしましょうね。ケンカは良くないよね」
と教えられ、少し大きくなって
「戦争は国と国とのケンカだよね。」
と教えられ、少し知恵がついて
「戦争は良くない。それなのに、どうして大人は他の国と仲良くできないで戦争するの?」
といった展開になった時、どんな答えを聞きましたか?

「そうだね。みんなは戦争は良くないって知ってるんだから、大人になったら、戦争のない世界をつくろうね」
「はあ~い」
ってな経験、記憶がありませんか。

間違っちゃいません。間違ってはないけど、肝腎な「~だから、戦争は良くない」という説明がない。そして、「大人はわかっていて何故、戦争をするのか」という説明もない。つまり、論理が抜け落ちている。仏はつくったけれど、魂は、、、です。

今、
「このままではいけない。国を守るために、必要とあらば戦争も辞さない」
という若い人が増えてきました。その熱意は、間違いなく国を愛する形のひとつだと思います。

ただ、気になるのです。上の話と同じく、途中が抜け落ちてないか、思考停止に陥ってないか。

この頃、よく耳にする若い人々の、
「元気をもらった」「勇気をありがとう」みたいな言い方。
元気は自分の内から出てくるもの、勇気も内から湧いてくるもの、或いは自ら奮い立たせる(振起する)もの。

「この国を守る」というのも、心底を見れば、理由付けなどせずとも心の中から湧き起ってくる感情です。ネットの情報は本当に貴重だけれど、同時に五感で神威に感応し、気を振るう(奮う)ことも同じく、今、必要なことではと思います。

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「東条たちの悪口を言っているうちは、、」

2020年01月24日 | 重箱の隅
2010.01/06 (Wed)

「日本人が知ってはならない歴史 戦後編」を読んでいます。

「殉国七士」の墓、に関して、偶々、診療所の待合室で目を通し、不覚にも涙が出そうになりました。
東条英機を始めとするA級戦犯の処刑前後、昭和天皇の採られた行動について、書かれてありました。
この中にある、東条英機の遺言を読むと、行間から、彼が決して戦争を望んでいたのではない、彼は却って何とかして戦争を避けようとしていた、などの気持が伝わってきます。

「A級戦犯が合祀されることになったから、私は靖国へ行くのをやめたのだ」
と昭和天皇が仰った、というメモが見つかり、
「先帝陛下は彼らを嫌っておられた、だから、靖国神社へ行かれなくなったのだ」
というような捉え方の記事が新聞に載ったのは、つい最近のことです。

その時はショックでした。昭和天皇がこんなことを仰ったのは事実らしい。ということは、陛下は彼らを許しておられなかったのか。

これまでA級戦犯とされた人々のことを、事実無根の罪、と頭では、納得していました。
が、恥ずかしいことに、このような新聞記事を見ると、そのメモがあるという事実から、 やっぱり学校で教えられたことが元にあって、陛下は彼らを嫌われていた、という意見が頭の中を席捲してしまうのです。

この本で、東条英機という人物の心根、陛下の後に採られた行動を知り、先のメモが真実の物ならば、その解釈は180度変ってしまう、と気付いた時、自分の浅はかさを痛感しました。

「人は自分の能力の範囲内でしか、物事を把握できない」と言います。
一国の総理大臣であった人物の心は勿論、先帝陛下の心、大御心を、現在の大して努力もしないで生きている自分の心のレベルで判断してしまった。
この恥ずかしさ。申しわけなさと有難さがないまぜになって、涙が出てきたように思いますが、、、。
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兵庫県神戸護国神社

2020年01月24日 | 神社
2017.08/17 (Thu)

 盆までには、と思って、先日神戸護国神社に参拝に行ってきた。コンクリート造りの立派な社殿の参道脇に車を停め、手水舎をさがした。が、ない。
 道路に面した参道入り口付近は公園になっていて、それらしいものは見当たらない。社務所や駐車スペースの辺りにもそれらしいものはない。
 普通の神社ではないのだから、もっと違った形であるのかも、と更に辺りを見回すと公衆トイレの近くに噴水のような形のものがあった。中央に石を彫って地球に見立てた物がある。七大陸を浮き彫りにしてあるのもよく分かる。

 「八紘一宇」ということなのか、それとも「世界は一つ。人類はみな兄弟」ということなのか、分からない。さほど古いものではない。おそらく戦後の物だろう。
 噴水のようだが、水はない。もし水があったら、手水舎の代わりになりそうな、ほど良い高さだったのだが。

 散々探し回ったけれども、結局見つけることができず、仕方なしにそのまま参拝して帰った。
 もっと探せばあったのだろうか?それともやっぱりなかった?
 けど、探し回って見つける、というのは変だろう。もしそうなら、手水舎はさほど重視されていないということになる。
 やっぱり、あの地球儀のところが手水舎代わり、ということだったのだろうか。
 以前に参拝した浜田の護国神社には、手水舎はあった。けれど、水はなかった。あちらも社殿は立派なコンクリート造りだった。

 護国神社というのは戊辰戦争以降の各国(旧国)の英霊を祀るところだから、戦前は靖國神社ほどではないにせよ、国からそれなりの援助があっただろうし、戦後だってしばらくの間は遺族会からの寄付金などがあったのだろうと思う。

 神道指令により、国と護国神社のつながりは断ち切られた。
 戦後、年々遺族は減って、寄付金なども減る一方で、勿論「一族に戦死者がいないから」という理由で、参拝なんか考えもしない人は逆に増える。いや、更に「一族に戦死者がいないんだから、参拝しちゃいけない」などと考える人の方が多くなる。
 妙なことだ。御利益を求めて縁もゆかりもない神社に参ったり、朱印帳を持って「御朱印を集めるのが趣味だから」、と全国を駆け回る人がいるのに、まだ生まれてもいない血縁もない我々後生を守るために命を懸けて戦われた英霊(それも地元の)を祀る神社には参拝しない。

 戦後「信教の自由」の名の下に、神社は(横並びの)宗教の一つ、とされた。占領下では集会自体が禁じられていたので、以前のようにごく自然に住民が集まることはできなくなる。
 普通の神社がそうなのだから、各県に一社か二社しかない護国神社は間違いなく「遺族のための追悼施設」という位置づけとなった。
 
 「遺族のための追悼施設」なのだから宗教的なものである「手水舎」は不要、ということになったのだろうか。
 いや、ここにはもっと現実的な理由(金銭的な問題)があるのだろう。
 たとえ湧水があったとしても、手水舎の運営・管理費はバカにならない。
 「遺族のための追悼施設」というのが一般通念になっていけば、墓参と区別がつかなくなり、参拝者は春秋の祭か盆、或いは初詣くらいにしか来なくなる。そうなれば、その時以外は手水舎も流れる水も全く不要の物、ということになる。
 
 「ならば、止めて置こう」、「墓参りに手水は要らない」、となっても、何ら不思議ではない。
 何ら不思議ではないが、それで良かろう筈はない。
 現実的には追悼施設の面を持っていても、ここは「神社」だ。靖国神社と同じく、我々国民(地元の住民)が、追悼ではなく英霊に感謝し、誓う場だ。


 以下の「夕刻の備忘録」氏の文言が思い出される。
   ↓
 ・・・・・・・・・・・・・・・
 「靖國参拝問題」で自称「保守派」から、政治家に向けて繰り返し発せられる言葉は、「国家を護るために命を捨てた英霊に対し、国民の代表として敬意を表し参拝するのは当然の義務である」というものである。
 そこでこちらも繰り返しになるが、靖國参拝問題は政治問題ではなく、国民の心の問題であり、これに「国民の代表」などという代理人は無用である、と強く主張したい。
 敬意を表し参拝するのが当たり前なのは、我々国民であって、政治家はその後ろに続く存在にすぎない。国民主権を声高に言うなら、これは国民がまさに先頭に立つべき大問題であり、政治家は主役ではないのである。

 
      (以下略) 

       靖國と「秘すれば花」      
    2013.03.26 ~夕刻の備忘録より~

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