CubとSRと

ただの日記

ツーリング考(ちょっと楽をしたいから)

2020年01月07日 | バイク 車 ツーリング
 六年ほど前、バイクを雨ざらしにするのは嫌だから、と奥行き150cmほどの軒をつくってもらった。
 勿論、カバーシートは掛けていたんだけど、どうしても雨がはねたりして汚れるのと、雨水が浸み込んでシートが濡れていることがあったからだ。

 それが、いつの間にか物干し台に占領されてしまった。
 軒下の両側に置かれたコンクリートの台が邪魔で、バイクを入れられない。台が微妙な位置に置かれているためだ。動かせば良いようなものだけれど、その都度、二十キロもあるものを数十センチ動かすなんて・・・・・、ねえ。

 更に当然ながら物干し台なんだから棹が二本だけではあるけれど、乗っかっている。動かすには棹をどっかにやらなきゃならない。
 まだギックリ腰の経験はないけれど、これをその度に動かすなんてギックリ腰にはならなくても、腰を痛めるに決まっている。

 これは重さと煩わしさで、結局小遣いをはたいて作った軒が横領されたという実例。(これこそ、本当の押領か)


 「喧嘩をする時、欧米人は突くけど、日本人は殴る。中国人は蹴る」
 のだそうだ。
 「突く」という動作は、袖が邪魔になる。突いた後から袖が拳に被さって来る。
 結果、喧嘩をする時は袖が邪魔にならない「殴る」、が一般的になった。「突き」とは違って、最初から最後まで袖がさほど邪魔にならない。
 また日本人は何故蹴らないのかというと、着物の裾が邪魔になるからだ、という。
 ならば、尻端折りをすれば良いようなものだが、常時尻端折りをして、尻を丸出しにするなんてのは、いくらなんでも恥ずかしいんだろうか、普段はしない。
 だから、「蹴る」というのは、あまり一般的ではない。

 尻を丸出しにするのは、神前で何かを奉納する場合だけ。
 その場合は、下帯一つの素っ裸で、やる。相撲なんかは、その代表的なもので、全国にある裸祭りだって、それから、有名な博多の山笠だって、尻丸出しでなきゃ、格好がつかない。穢れを祓って清浄になっている、という証だ。

 あれ?変な方向に行ってるぞ?

 そうそう。折角、軒を作ったのに横領されてしまったのは、「煩わしさがついて回るから」、という話だった。
 喧嘩をする時に、突いたり蹴ったりしないのは、着物を着ていることが関係している、とつながっていた。

 バイクを置くことを「阻止」されたのではなく、「邪魔され」て、「煩わしかった」からだ。十数万の設置費用より、台を動かすことの煩わしさの方が優っていたからだ。
 同じく、着物の袖や裾が邪魔っ気だったから突いたり、蹴ったりが為されなくなった。

 挙げた例は二つとも「阻止」ではなく、「邪魔」をされれば、行動はとまる、ということをあらわしている。
 「信玄堤」も同じ理屈だろう。少しずらして受け流す。その結果、攻め手は力を流され、力んでいれば力んでいるほど自滅への道を進まざるを得ない。
 討論は論点を(わざと)少しずらして、大声で反論すれば勝てる。(恥と思えばできないけれど。)

 
 とは言え、真っ向から受けて、弾き返すべく物事に取り組まなければならないこともある。
 相撲は「押さば押せ 引かば押せ」の極意の言葉通り、真正面から取り組まねばならない。神事であるからだ。
 政治も真っ向から正論をぶつけ、弾き返すべく取り組まねばならない。「政(まつりごと)」であるからだ。

 真っ向からぶつかり合ったら、見ている方も力が入る。相撲も国会中継も同じだ。
 相撲はともかく、政治は「策を弄して目標達成」、が常道になって久しいけれど、「名を捨て、実を取るのが常道」と言っても、「取るべき実」は真っ向からの正論でなければならない。でなければ、それは神意に適わない。「策を弄して目標達成」は、終には神意に適わない。

 年末にバッテリーを外し、年が明けて十日が過ぎた頃、車で買い物に出た。 冬の山陰には珍しく、晴れ間ののぞく海岸の国道を走っていると、冬支度をしたタンデムのバイクがやって来た。
 「寒いのによくやるよなあ」
 、なんて思うよりも先に、顔がニヤついてしまって仕方がなかった。
 「寒いくせに。滅多ないこと、あんまりいい天気だから、ただ楽しいだけで正月早々乗ってるんだ、きっと。」
 そう思った。
 寒さに「邪魔」されても、冬支度が「煩わし」くても、正月早々バイクに乗る。

 決心してバッテリーを外して、車に乗って楽をして。
 で、正月早々、タンデムバイクに出会って。

 結局、ついに「寒いのによくやるよなあ」、とは思わなかった。
 却って顔がニヤけてしまった。
 「寒いのによくやるよ」と思わなかったのは、まだ、心変わりがしてないということかな?


 融雪剤で、路面が濡れたように見えるのは、あと半月くらいだろうか。



2012.02/05
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ツーリング考 「ライダーは・・・・・」

2020年01月07日 | バイク 車 ツーリング
 車の練習を始めて二ヵ月半。
 おたおたしながら、とにかく乗るようになって一ヶ月。

 今のところ、乗り始めた頃に比べて、大きな意識の変化はない。
 不器用故、技術的な飛躍的向上、というのも、ない。
 相変わらず「車は楽」だが、「バイクは楽しい」、のままだ。

 先日、近所の食料品店に買い物に行き、帰ろうと車に乗ったら、店のおばさ、いや、おネエさんが店の窓を開けて聞いてきた。
 「ねえ、それ、電気自動車?」
 同年代だからか、気軽なもんだ。からかってるのか本気なのか分からない。
 「小さいけど、普通の軽自動車ですよ」
  「ふうん」

 数日後、別のところで同じように、
 「それは電気自動車?」
 と聞かれた。
 赤い小さな2シーターは結構注目されるらしい。
 
 三瓶山まで行った。「国引きの神話」の、もう一方の山。(一方は伯耆大山)
 平日だから観光客は全くいない。
 と思ったら、カワサキのW650らしいのが駐車場に入って来た。
 ピカピカだから、650ではなく、800かもしれない。
 うれしくなって傍に寄り、
 「それは800ですか?」
 と聞くと、
 「650です」
 以上、おしまい!みたいで、話が続かない。
 「ピカピカだから。650、もう作ってないんでしょう?」
 と付け加えると
 「何年も前からだけど、あまり乗ってないから」
 なるほど、錆びは出ている。
 で、やっぱり、話が続かない。
 
 ここで終わってしまった。
 でも、考えた。
 「自分だったら、どうしたろう。やっぱり似たような返答、したんだろうな」

 今なら。車の練習中の今、自分がバイクで来ていて、
 「それは500ですか?」
 、と、声を掛けられたなら。
 聞かれたことに答えた後、こう言うだろう。
 「バイクに乗られるんですか?」
 たまたま車で来ていたバイク乗りなら、待ってましたとばかりに喋り出すに違いない。

 ネットを見ていたら、助手席に子供を乗せて、「ビート」で走っていた人の話が出ていた。
・・・・
 ふと思いついて助手席の我が子に
 「ピースして手を挙げててごらん」
 と言ったら、子供は訳も分からずピースサインをした右手を高々と挙げた。
 しばらくしたら、追い抜きざまにバイクがピースサインを。
 「車相手にだって、するんだ!」
 と、うれしくなって自分もやってみた。
 オープンカー(軽だけど)で、ピースサインが二つ。
 それに、またバイクが応えて、ピースサイン。
・・・・
 こんな内容の日記だったが、自然と頬が緩んで来た。

 バイク乗りは車の人から声を掛けられると、何となく「何だ?こいつ」と思ったりする。
 「何、余裕かましてんだ。もっとまじめに走れ」と思うことがあるからだ。
 「オレはそんなことないよ」、なんてバイク乗りもいるかもしれないけど、「・・思わない筈がない!」

 助手席の人と話しながら、笑顔で走ってる。
 時には片手運転をして右手がドアの外にある。
 ひどい時には、火のついた煙草を窓から放り捨てる。
 煙草の嫌いなライダーならば、50メートル以上前を行く車から、時折煙草の臭いが顔に当たって来るだけでも非常に不愉快だ。
 クルマは自動車道で追い越して置いて、すぐ前に入って来る。
 「殺す気か!」と思うことは滅多にないけど、「この~っ」と思うことはしょっちゅうだ。

 声を掛けて来る人はそんな「傍らに人無きが如し」、ならぬ、「傍らにバイク無きが如し」といった人ではないからこそ、ライダーに話し掛けるのだろうけれど、こちらはつい、一瞬、一括りにして見てしまう。
 でも、反対に、この「ビート」の親子みたいに、車に乗ってて、面白半分でピースサインを出したら返って来た、なんてことを、とても喜ぶ人だっている。

 何もしないで、頭から毛嫌いするのはどうかな、と感じ始めた二ヵ月半、かな?
 反対に、何もしないで、頭から信用するのもどうかと思う。

 そう考えてみれば不思議だ。
 我々日本人は最近、「人を見たら泥棒と思」うよう、思い知らされているのに、国内でだけ、「日本人同士でだけ」、疑いの目を持つようになった。

 海外に向けては、未だに、全面的に信用している。特に、近隣諸国、大丈夫か?




2011.12/22
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ツーリング考(ちょっと様子が違う)

2020年01月07日 | バイク 車 ツーリング
 あのちっちゃな車が私のところに来て、もうすぐ一ヶ月。

 とてもじゃないけどいきなりは乗れないと気がつき、教習所に二週間、4回(計4時間)も通い、先週の初めには父を乗せて病院から帰って来た。
 二日に一度のペースで、先日は海まで行き、今日は買出しにスーパーまで行った。(スーパーの方が遠い)
 少しずつ慣れて来たのは自分でもよく分かる。楽しい、というのも少しは分かるような気がし始めた。

 以前に、「車は操縦で、バイクは運転だ」と書かれていたものを読んだ記憶がある。
 何でも、車は身体に直接なつながりのない「操縦する」という理性的な快感があり、バイクにはバンクさせたり風を切ったりする感覚的、生理的な快感があるからなのだ、といったような説明だった。

 確かに「操縦」といえば、いずれも「操る」で、「運転」といえば(勝手に)転がっていくものの上に乗っかっているのだけれど、どうも釈然としないな、と思ったことを覚えている。
 操縦という言葉は、もっと複雑な操作をする物に対して使う言葉で、車こそ「運転」ではないのかな、と思う。
 駆動力の加減をするのはペダルであり、踏むか、緩めるか、だけのこと。(ギヤチェンジを必要とする車は、その限りではないけれど)
 肝腎なのはやっぱりハンドルなわけだから、「運転」の語は「車」にこそ、適切なのではないか。
 
 対して、バイクは、というと、意識してハンドルを切ることもない。つまり、「運転」の実感がない。
 チェンジペダルは踏みつけたり、引っ掛けて上げたり、と結構忙しく動かしているけれど、「操縦」は言うまでもなく、「運転」だってハンドルを切ることも回すこともしないでペダル操作、クラッチ操作が主になっていること等を考えたら、あまり適切な語、とは言えない。
 第一、同じ二輪の自転車だって、あんまり「自転車を運転する」なんて言わない。バイクや自転車は、ただ「乗る」でいいんじゃないか、と思ったりする。

 ・・・まあ、ちょっとスピードが出た時、折悪しく後ろから赤い回転灯をつけた二輪、或いは四輪に呼び止められる場合、必ず言われるのは
 「はい、じゃ、運転手さん。エンジン切って、こちらに来て下さい」
 の一言だ。「ライダーさん」とか「単車乗りさん」、なんて言われたことは一度もない。(言われたら、それはそれで「ふざけるな!」と思うだろうけど)
 妙な方向に話が逸れました。

 AT限定免許しか持っていないのだけれど、レバーをこまめにD⇔2、と、シフトし直すのは結構面白い。
 勿論、傾斜のある道でしかやらないけれど、ATであってもアクセル、ブレーキに敏感に反応してくるのは、乗っていて確かに楽しい。

 まあ、何より転倒の心配がない、というのはうれしい。そして、ゆっくり走れば走るほど、(さらにはどんなにゆっくりと曲っても)転倒の心配がない、というのは何とも安心、というか良いこと尽くめで余裕のよっちゃんになってしまう。

 ただ、今日、何となしに感じたのだが、乗っている時はともかく、降りた時の気分が随分違う。高揚感も安堵感も、あまりない。安堵感、と言うよりも、心地よい「脱力感」「疲労感」だろうか。それが、ない。

 バイクは、当然のことながら乗っている間中、風を切っているわけで、否が応でも走っていることを実感し続けているわけだ。
 その間、これまた当然のことでセンタースタンドを立てているわけではないから、転倒の危険は低くなっているとは言え、常に付き纏っている。
 だから停まれば緊張が解れ始め、併せて疲労感が出て来る。勿論、心地良い疲労感で、その疲労感もバイクの魅力なのだけれど。

 車だって事故を起こさなかったわけだから、
 「エンジンを切り、シートベルトを外しドアを開け・・・」
 という間に
 「心地良い疲労感が・・・」
 となりそうなものだけれど、ちょっと様子が違う。

 この「ちょっと様子が違う」の正体が、ドライバー超初心者の私には、まだよく分からない。

 「単純に見えているものの方が複雑で、複雑に見えているものの方が単純」 「自然に見えるものは、決して自然ではない」
 「まさか小説じゃあるまいし」と言うけど、本当に「事実は小説よりも奇なり」。

 「何でそんなことに、いつまでも執着してるんだ?もっと考えなければならないことがあるだろう」と言われかねないことを書き連ねているのだが、こんなところにだって考えを深め、身の周りの大問題を一気に解決してしまう鍵はきっとある。

 「焦っちゃいけない」と言われたって焦ってしまう。
 「肩の力を抜け」と言われたってそうそう抜けるものではない。憎まれ口たたくつもりはないけど、言われてできるのだったら疾っくに抜いている。

 でも、焦るな焦るな。それしか言えない。
 TPPだって必ず何か隠してる。隠しているから焦らせる。中身も判然としないうちから「賛成」も「反対」もあるものか。

 ・・・・・なんて思ってたら、いつの間にか「賛成派」と「反対派」じゃなくって「推進派」と「慎重派」だって。何だか今度は「お調子者」と「グズ」と言われているような気がする。
 でも、ほら、やっぱり「焦らせるのは、言えない何かがあるからに違いない」と思ってしまう。

 「この外圧を用いて政界再編を」という考え方もあるらしい。
 しかし、今、そんな調子の良いことばかり考えているととんでもないことになる。
 外圧を利用して党内を纏める、ということだって姑息な手段だ。それを国政、国会から、日本全国を「今一度洗濯致し度く~」などとはバカも休み休み言え、としか言いようがない。一国の命運を賭け事みたいなやり方で決めるのか。
 そんなこと、以ての外、だ。それくらいは、超初心者の私だって何となく分かる。

 あ、これ、「ツーリング考」、ですので。悪しからず。


2011.11/08
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