六年ほど前、バイクを雨ざらしにするのは嫌だから、と奥行き150cmほどの軒をつくってもらった。
勿論、カバーシートは掛けていたんだけど、どうしても雨がはねたりして汚れるのと、雨水が浸み込んでシートが濡れていることがあったからだ。
それが、いつの間にか物干し台に占領されてしまった。
軒下の両側に置かれたコンクリートの台が邪魔で、バイクを入れられない。台が微妙な位置に置かれているためだ。動かせば良いようなものだけれど、その都度、二十キロもあるものを数十センチ動かすなんて・・・・・、ねえ。
更に当然ながら物干し台なんだから棹が二本だけではあるけれど、乗っかっている。動かすには棹をどっかにやらなきゃならない。
まだギックリ腰の経験はないけれど、これをその度に動かすなんてギックリ腰にはならなくても、腰を痛めるに決まっている。
これは重さと煩わしさで、結局小遣いをはたいて作った軒が横領されたという実例。(これこそ、本当の押領か)
「喧嘩をする時、欧米人は突くけど、日本人は殴る。中国人は蹴る」
のだそうだ。
「突く」という動作は、袖が邪魔になる。突いた後から袖が拳に被さって来る。
結果、喧嘩をする時は袖が邪魔にならない「殴る」、が一般的になった。「突き」とは違って、最初から最後まで袖がさほど邪魔にならない。
また日本人は何故蹴らないのかというと、着物の裾が邪魔になるからだ、という。
ならば、尻端折りをすれば良いようなものだが、常時尻端折りをして、尻を丸出しにするなんてのは、いくらなんでも恥ずかしいんだろうか、普段はしない。
だから、「蹴る」というのは、あまり一般的ではない。
尻を丸出しにするのは、神前で何かを奉納する場合だけ。
その場合は、下帯一つの素っ裸で、やる。相撲なんかは、その代表的なもので、全国にある裸祭りだって、それから、有名な博多の山笠だって、尻丸出しでなきゃ、格好がつかない。穢れを祓って清浄になっている、という証だ。
あれ?変な方向に行ってるぞ?
そうそう。折角、軒を作ったのに横領されてしまったのは、「煩わしさがついて回るから」、という話だった。
喧嘩をする時に、突いたり蹴ったりしないのは、着物を着ていることが関係している、とつながっていた。
バイクを置くことを「阻止」されたのではなく、「邪魔され」て、「煩わしかった」からだ。十数万の設置費用より、台を動かすことの煩わしさの方が優っていたからだ。
同じく、着物の袖や裾が邪魔っ気だったから突いたり、蹴ったりが為されなくなった。
挙げた例は二つとも「阻止」ではなく、「邪魔」をされれば、行動はとまる、ということをあらわしている。
「信玄堤」も同じ理屈だろう。少しずらして受け流す。その結果、攻め手は力を流され、力んでいれば力んでいるほど自滅への道を進まざるを得ない。
討論は論点を(わざと)少しずらして、大声で反論すれば勝てる。(恥と思えばできないけれど。)
とは言え、真っ向から受けて、弾き返すべく物事に取り組まなければならないこともある。
相撲は「押さば押せ 引かば押せ」の極意の言葉通り、真正面から取り組まねばならない。神事であるからだ。
政治も真っ向から正論をぶつけ、弾き返すべく取り組まねばならない。「政(まつりごと)」であるからだ。
真っ向からぶつかり合ったら、見ている方も力が入る。相撲も国会中継も同じだ。
相撲はともかく、政治は「策を弄して目標達成」、が常道になって久しいけれど、「名を捨て、実を取るのが常道」と言っても、「取るべき実」は真っ向からの正論でなければならない。でなければ、それは神意に適わない。「策を弄して目標達成」は、終には神意に適わない。
年末にバッテリーを外し、年が明けて十日が過ぎた頃、車で買い物に出た。 冬の山陰には珍しく、晴れ間ののぞく海岸の国道を走っていると、冬支度をしたタンデムのバイクがやって来た。
「寒いのによくやるよなあ」
、なんて思うよりも先に、顔がニヤついてしまって仕方がなかった。
「寒いくせに。滅多ないこと、あんまりいい天気だから、ただ楽しいだけで正月早々乗ってるんだ、きっと。」
勿論、カバーシートは掛けていたんだけど、どうしても雨がはねたりして汚れるのと、雨水が浸み込んでシートが濡れていることがあったからだ。
それが、いつの間にか物干し台に占領されてしまった。
軒下の両側に置かれたコンクリートの台が邪魔で、バイクを入れられない。台が微妙な位置に置かれているためだ。動かせば良いようなものだけれど、その都度、二十キロもあるものを数十センチ動かすなんて・・・・・、ねえ。
更に当然ながら物干し台なんだから棹が二本だけではあるけれど、乗っかっている。動かすには棹をどっかにやらなきゃならない。
まだギックリ腰の経験はないけれど、これをその度に動かすなんてギックリ腰にはならなくても、腰を痛めるに決まっている。
これは重さと煩わしさで、結局小遣いをはたいて作った軒が横領されたという実例。(これこそ、本当の押領か)
「喧嘩をする時、欧米人は突くけど、日本人は殴る。中国人は蹴る」
のだそうだ。
「突く」という動作は、袖が邪魔になる。突いた後から袖が拳に被さって来る。
結果、喧嘩をする時は袖が邪魔にならない「殴る」、が一般的になった。「突き」とは違って、最初から最後まで袖がさほど邪魔にならない。
また日本人は何故蹴らないのかというと、着物の裾が邪魔になるからだ、という。
ならば、尻端折りをすれば良いようなものだが、常時尻端折りをして、尻を丸出しにするなんてのは、いくらなんでも恥ずかしいんだろうか、普段はしない。
だから、「蹴る」というのは、あまり一般的ではない。
尻を丸出しにするのは、神前で何かを奉納する場合だけ。
その場合は、下帯一つの素っ裸で、やる。相撲なんかは、その代表的なもので、全国にある裸祭りだって、それから、有名な博多の山笠だって、尻丸出しでなきゃ、格好がつかない。穢れを祓って清浄になっている、という証だ。
あれ?変な方向に行ってるぞ?
そうそう。折角、軒を作ったのに横領されてしまったのは、「煩わしさがついて回るから」、という話だった。
喧嘩をする時に、突いたり蹴ったりしないのは、着物を着ていることが関係している、とつながっていた。
バイクを置くことを「阻止」されたのではなく、「邪魔され」て、「煩わしかった」からだ。十数万の設置費用より、台を動かすことの煩わしさの方が優っていたからだ。
同じく、着物の袖や裾が邪魔っ気だったから突いたり、蹴ったりが為されなくなった。
挙げた例は二つとも「阻止」ではなく、「邪魔」をされれば、行動はとまる、ということをあらわしている。
「信玄堤」も同じ理屈だろう。少しずらして受け流す。その結果、攻め手は力を流され、力んでいれば力んでいるほど自滅への道を進まざるを得ない。
討論は論点を(わざと)少しずらして、大声で反論すれば勝てる。(恥と思えばできないけれど。)
とは言え、真っ向から受けて、弾き返すべく物事に取り組まなければならないこともある。
相撲は「押さば押せ 引かば押せ」の極意の言葉通り、真正面から取り組まねばならない。神事であるからだ。
政治も真っ向から正論をぶつけ、弾き返すべく取り組まねばならない。「政(まつりごと)」であるからだ。
真っ向からぶつかり合ったら、見ている方も力が入る。相撲も国会中継も同じだ。
相撲はともかく、政治は「策を弄して目標達成」、が常道になって久しいけれど、「名を捨て、実を取るのが常道」と言っても、「取るべき実」は真っ向からの正論でなければならない。でなければ、それは神意に適わない。「策を弄して目標達成」は、終には神意に適わない。
年末にバッテリーを外し、年が明けて十日が過ぎた頃、車で買い物に出た。 冬の山陰には珍しく、晴れ間ののぞく海岸の国道を走っていると、冬支度をしたタンデムのバイクがやって来た。
「寒いのによくやるよなあ」
、なんて思うよりも先に、顔がニヤついてしまって仕方がなかった。
「寒いくせに。滅多ないこと、あんまりいい天気だから、ただ楽しいだけで正月早々乗ってるんだ、きっと。」
そう思った。
寒さに「邪魔」されても、冬支度が「煩わし」くても、正月早々バイクに乗る。
決心してバッテリーを外して、車に乗って楽をして。
で、正月早々、タンデムバイクに出会って。
結局、ついに「寒いのによくやるよなあ」、とは思わなかった。
却って顔がニヤけてしまった。
「寒いのによくやるよ」と思わなかったのは、まだ、心変わりがしてないということかな?
融雪剤で、路面が濡れたように見えるのは、あと半月くらいだろうか。
寒さに「邪魔」されても、冬支度が「煩わし」くても、正月早々バイクに乗る。
決心してバッテリーを外して、車に乗って楽をして。
で、正月早々、タンデムバイクに出会って。
結局、ついに「寒いのによくやるよなあ」、とは思わなかった。
却って顔がニヤけてしまった。
「寒いのによくやるよ」と思わなかったのは、まだ、心変わりがしてないということかな?
融雪剤で、路面が濡れたように見えるのは、あと半月くらいだろうか。
2012.02/05