2010.01/27 (Wed)
もう、20年以上前になりますが、日本武道館で古武道演武大会がありました。
この古武道演武大会というのは、毎年2月に行うということで、始まったものですが、普段ならまず見ることのできない、全国各地に伝承されている古武術が東京で見られる、と一回目は大変な盛況でした。
当時、まだ市販されて間もないビデオカメラとそのための大きなバッテリーを引っ張って会場を歩く外人が居たのには驚かされました。一目で、何らかの武術を習いにやって来たのだと判りました。
最初はそうでした。
でも、殆どの流儀が、型稽古です。演武も殆どが「型」です。素人相手にウケ狙い、という気持ちはこれっぽっちもない人ばかりです。
毎年繰り返される同じ演武に、観客はすぐに減っていき、関係者だけの年に一度の発表会、みたいになっていきました。
別にそれでもいいのです。見せたいからやっているのじゃない。
人前で演武をする、それによって普段には感じることのできない緊張感を味わう。これは型稽古しかやらない古武術には、貴重な稽古のひとつなのですから。
また、これを励みに高齢の術者が、後進を育て、流儀の廃絶を阻止しようとする。
この演武大会は武道館を母体とする古武道協会のGJ。
でも、やっぱり、あの広い武道館、観客席ががら~んとしているのは寂しいものです。
そんな時に「日中交流武術演武大会」が行われることになりました。その年だけの特別版、ということになります。
日本の方はいつも通りの古武術の重鎮、全国的に名の知られている流儀と、斯界では知らぬ人のない武術家の面々。
来日する中国(ここはシナとは言えませんね)の武術家は、というと、今でも名前を覚えていますが、これまた、当時の中国武術界の最高レベル。陳家の有名なおばあさん、それから、陳小旺、形意拳の何福生、若い所では少林長拳の李志州。そして、八極拳の馬賢達。
南派拳術、北派拳術、硬気功から短兵(短い武器)、長兵(槍、棍)、対打(約束組み手)と、まあとにかく見た目も派手で観客も大喜び。
観客もこの回は一体どうしたことかと思うくらいの人数。アリーナ席とか言ってましたが、いつもなら同じ料金なのに随分高かったことを覚えています。
雰囲気も、いつもとは違ってました。
この演武大会は、いかにも田舎から出てきましたといった感じの、ジャンパーやよれよれの背広の人ばかりなのですが、この回はどうしたことか、何だか若々しい。それもそのはず、デートスポットになったのかと思うくらい若い男女の二人連れが多いのです。
それだけ、当時の中国武術ブームはすごかったんでしょう。
NHKの解説席には有名な松田隆智、隣に、何となく場違いな感じのする華やかな雰囲気の女性。後で、由美かおるだとわかりましたが。
地味な日本武術と派手な中国国術が交互に行われましたが、当然観客は国術に目を奪われます。間にはさまれるインタビューも、中国人の通訳付きばかり。
実際、派手です。日本の武術と根本的に違うのは、とにかく伸び伸びとしていること。動作も陳家の小架式や形意拳を除けば、体軸からして全く違うようでした。
さて、私の見たかった人が出てきました。
(あえて名前は書きません。詳しい人ならすぐわかるでしょうけど)
単独演武でしたが、洗練という言葉は遣えない、武骨な足の踏みしめ方。レンガだったら割れるだろうなと感じる力強さです。体当たりの技術、平拳の掌で打つ打法。
どれをとっても、さすがにこの拳技の第一人者、と言われるだけのことはあるなあ、とひたすら感心して見ていました。
ところが、演武の後、インタビューを受け、息ひとつ切らした風もなく、演武台を駆け降り、実に軽やかに控室へ駈け戻ろうとした時、通路にさっきの演武で遣われた棍や槍が置かれていました。それも急いでいたせいか、ちゃんと脇に寄せられず、3分の1ほど通路にはみ出ていたのです。
軽やかに駆け抜けようとした武術家は気付いた瞬間、、、、、。
もうお分かりでしょう。日本武術と中国国術、正反対の片付け方をします。
彼は駆け抜ける速度を落とすこともなく、実にあっさりと槍を脇に蹴り寄せました。
殆どの人は気が付かなかったのではないでしょうか。あまりに自然だったから。
武術は人を殺傷する技術です。一方的にではなく、逆にこちらが殺されるかもしれない。
だから、死と真剣に向きあうのだから、日々の生き方そのものである、と得心して「武道」という言葉が遣われるようになりました。(武道をやる、でなく武の道を歩く、ですね。)
あえて「武術」と言う流儀も、日本武術の場合には、
「敵も自分と同じ修練をしているに違いない。」と相手の実力を認める謙虚さがあります。
居合いをやっている人なら当たり前のこととして「刀礼」をします。他の武術にしても、兵器を目の高さに挙げる敬礼をします。
武術だけではありませんね、日本人は。
机に腰掛けたら叱られました。今は学校の先生が机に腰掛けて生徒と話したりしていますが。
実は「日本人だけがちゃんとしていて他国の人は」、じゃないんです。
日本の心を知って、手に入れようとした人は、そこらの日本人なんか足元にも及ばないほどの立派な日本人になるんです。
「国手(国で一番の腕前)」と賞された意拳の王向斎は弟子の澤井健一に「日本は文と武のバランスが取れた素晴らしい国だ。我が国は武の価値が余りにも低い」と言ったそうです。「武術は人殺しの道具」だから?
それもあります。
でも、恐ろしい本当の理由は
「武術は少人数しか相手にできない。文(政治)は生殺与奪はいくらでもできる」。
そうでしょう?「書き残せば真実になる」じゃないですか。
「三十万人殺された」と書いてあったら、いくら二十万しかいなかったと言っても、「証拠がない」で終わりです。
けれど、王向斎ほどの人は、生身の人間と真っ向からぶつかる事を通して謙虚、思い遣りを実感した。だから、文と武は両立、バランスが取れていなければいけない、日本はそれが文化としてできている、と。王向斎の本棚には剣道の本があったそうです。
槍を脇に蹴り寄せた武術家には失望しましたが、その後に王向斎のことを知り、早計は禁物と思うようになりました。
もう、20年以上前になりますが、日本武道館で古武道演武大会がありました。
この古武道演武大会というのは、毎年2月に行うということで、始まったものですが、普段ならまず見ることのできない、全国各地に伝承されている古武術が東京で見られる、と一回目は大変な盛況でした。
当時、まだ市販されて間もないビデオカメラとそのための大きなバッテリーを引っ張って会場を歩く外人が居たのには驚かされました。一目で、何らかの武術を習いにやって来たのだと判りました。
最初はそうでした。
でも、殆どの流儀が、型稽古です。演武も殆どが「型」です。素人相手にウケ狙い、という気持ちはこれっぽっちもない人ばかりです。
毎年繰り返される同じ演武に、観客はすぐに減っていき、関係者だけの年に一度の発表会、みたいになっていきました。
別にそれでもいいのです。見せたいからやっているのじゃない。
人前で演武をする、それによって普段には感じることのできない緊張感を味わう。これは型稽古しかやらない古武術には、貴重な稽古のひとつなのですから。
また、これを励みに高齢の術者が、後進を育て、流儀の廃絶を阻止しようとする。
この演武大会は武道館を母体とする古武道協会のGJ。
でも、やっぱり、あの広い武道館、観客席ががら~んとしているのは寂しいものです。
そんな時に「日中交流武術演武大会」が行われることになりました。その年だけの特別版、ということになります。
日本の方はいつも通りの古武術の重鎮、全国的に名の知られている流儀と、斯界では知らぬ人のない武術家の面々。
来日する中国(ここはシナとは言えませんね)の武術家は、というと、今でも名前を覚えていますが、これまた、当時の中国武術界の最高レベル。陳家の有名なおばあさん、それから、陳小旺、形意拳の何福生、若い所では少林長拳の李志州。そして、八極拳の馬賢達。
南派拳術、北派拳術、硬気功から短兵(短い武器)、長兵(槍、棍)、対打(約束組み手)と、まあとにかく見た目も派手で観客も大喜び。
観客もこの回は一体どうしたことかと思うくらいの人数。アリーナ席とか言ってましたが、いつもなら同じ料金なのに随分高かったことを覚えています。
雰囲気も、いつもとは違ってました。
この演武大会は、いかにも田舎から出てきましたといった感じの、ジャンパーやよれよれの背広の人ばかりなのですが、この回はどうしたことか、何だか若々しい。それもそのはず、デートスポットになったのかと思うくらい若い男女の二人連れが多いのです。
それだけ、当時の中国武術ブームはすごかったんでしょう。
NHKの解説席には有名な松田隆智、隣に、何となく場違いな感じのする華やかな雰囲気の女性。後で、由美かおるだとわかりましたが。
地味な日本武術と派手な中国国術が交互に行われましたが、当然観客は国術に目を奪われます。間にはさまれるインタビューも、中国人の通訳付きばかり。
実際、派手です。日本の武術と根本的に違うのは、とにかく伸び伸びとしていること。動作も陳家の小架式や形意拳を除けば、体軸からして全く違うようでした。
さて、私の見たかった人が出てきました。
(あえて名前は書きません。詳しい人ならすぐわかるでしょうけど)
単独演武でしたが、洗練という言葉は遣えない、武骨な足の踏みしめ方。レンガだったら割れるだろうなと感じる力強さです。体当たりの技術、平拳の掌で打つ打法。
どれをとっても、さすがにこの拳技の第一人者、と言われるだけのことはあるなあ、とひたすら感心して見ていました。
ところが、演武の後、インタビューを受け、息ひとつ切らした風もなく、演武台を駆け降り、実に軽やかに控室へ駈け戻ろうとした時、通路にさっきの演武で遣われた棍や槍が置かれていました。それも急いでいたせいか、ちゃんと脇に寄せられず、3分の1ほど通路にはみ出ていたのです。
軽やかに駆け抜けようとした武術家は気付いた瞬間、、、、、。
もうお分かりでしょう。日本武術と中国国術、正反対の片付け方をします。
彼は駆け抜ける速度を落とすこともなく、実にあっさりと槍を脇に蹴り寄せました。
殆どの人は気が付かなかったのではないでしょうか。あまりに自然だったから。
武術は人を殺傷する技術です。一方的にではなく、逆にこちらが殺されるかもしれない。
だから、死と真剣に向きあうのだから、日々の生き方そのものである、と得心して「武道」という言葉が遣われるようになりました。(武道をやる、でなく武の道を歩く、ですね。)
あえて「武術」と言う流儀も、日本武術の場合には、
「敵も自分と同じ修練をしているに違いない。」と相手の実力を認める謙虚さがあります。
居合いをやっている人なら当たり前のこととして「刀礼」をします。他の武術にしても、兵器を目の高さに挙げる敬礼をします。
武術だけではありませんね、日本人は。
机に腰掛けたら叱られました。今は学校の先生が机に腰掛けて生徒と話したりしていますが。
実は「日本人だけがちゃんとしていて他国の人は」、じゃないんです。
日本の心を知って、手に入れようとした人は、そこらの日本人なんか足元にも及ばないほどの立派な日本人になるんです。
「国手(国で一番の腕前)」と賞された意拳の王向斎は弟子の澤井健一に「日本は文と武のバランスが取れた素晴らしい国だ。我が国は武の価値が余りにも低い」と言ったそうです。「武術は人殺しの道具」だから?
それもあります。
でも、恐ろしい本当の理由は
「武術は少人数しか相手にできない。文(政治)は生殺与奪はいくらでもできる」。
そうでしょう?「書き残せば真実になる」じゃないですか。
「三十万人殺された」と書いてあったら、いくら二十万しかいなかったと言っても、「証拠がない」で終わりです。
けれど、王向斎ほどの人は、生身の人間と真っ向からぶつかる事を通して謙虚、思い遣りを実感した。だから、文と武は両立、バランスが取れていなければいけない、日本はそれが文化としてできている、と。王向斎の本棚には剣道の本があったそうです。
槍を脇に蹴り寄せた武術家には失望しましたが、その後に王向斎のことを知り、早計は禁物と思うようになりました。