CubとSRと

ただの日記

「よく言ってくれた!」と言うと叱られそうだけど

2020年01月03日 | 重箱の隅
 全ての問題の根は、我が国の国語教育にある。
 小学校の教育は「読み書き」に徹するべきもので、作品を読む必要など何処にも無い。
 仮に作品を与えるとすれば、それは暗唱すべきもので、論評すべきものではない。無条件に頭の中に入れるもので、それをネタに騒ぐものではない。

 漱石が小学生に理解できるはずがない。中学生にも高校生にも難しいものを与えて、しかもその感想を言えと迫っている。
 国語教育の犠牲者は、「本を読んだら感想を言わなくてはならない」との強迫観念に囚われている。「本を読んだら誰でも感想があるものだ」と信じ込まされている。
 教師達は涼しい顔で、学生達を「感想を持てない私が未熟なんだ」と思わせるまで追い込んでいるのである。自虐のルーツである。
         (略)
     ★ ★ ★ ★ ★
 横並びだ、無個性だ、没個性だと言葉もとりどりに、我が国の国民性を云々する者が後を絶たないが、そんな言葉遊びよりも、より本質的な問題は、国語教育が偏っている、そのことによる弊害である。
 思想的に偏るよりもなお悪い、言葉を弄び、言葉を軽んじる教育をしている。それが「自虐を愛する国民性」を作っている。        
         (略)
 「時は金なり」などと真面目な顔で言う人も多いが、金程度であるならば、時など大したものではないだろう。金など所詮どうにでもなる。世界中の富を集めて、一人で使うことすら想像できる。
 しかし、時を集めることが出来るのか。時こそ万人平等にして、最も過酷な現実ではないか。真実は「金は時なり」であろう。金は時ほどに重要だ、と言ってこそ教訓にもなろう。

 その時を浪費するのである。下らないものを読んでいては、大切なものを読む時間を失うのである。
 得るものがあれば失うものがある。時ほど冷徹にこの事実を突き付けてくるものはない。
 詰まらないもので時間を空費しないよう、気をつけたいものである。

     「イカ臭い妄想小説と国民の自虐」
                   ~夕刻の備忘録~より

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 題の通り、
 「よく言ってくれた!ワシもそう思う!」
 、なんて言ったら叱られそうだけど、言わずにはいられない。

 このエントリーは全文読まれたら、「あの」ノーベル賞候補作家の新作に対する読者の反応を批判する形になっていると分かるのだが、そこには当然、今の日本人(当然B層ですよね)批判、そのもとになっている戦後教育批判が滔々と流れているわけです。

 そんなの全く関係なしに、いつもの通り、都合のいいところだけを見て思ったところを書こうとしているわけですが、満更外れたことにもならないでしょう。

 国語教育の在り方について書かれているんですが、備忘録氏、間違いなく、
 「国語教育とは、考え方を教えることだ」
 、と、
 「日本人としての考え方を身に沁み込ませることだ」
 、と捉えておられると思います。

・「読み書き」に徹するべきもの。
・「暗唱すべきもので、論評すべきものではない。」
 つまり、
 「無条件に頭の中に入れるもので、それをネタに騒ぐものではない。」

 子供に「ボクはこう思います」「私はこうだと思います」などと、強引な主張をさせることが国語教育だなんて勘違いも甚だしい、と。

 「暗唱する」という事は「無条件に頭の中に入れる」という事ですから、これは声に出して読み、そのまま覚えることで、日本語の形(発音)と文章に表れている「考え方」を己が物にするということでしょう。
 だから勿論、その際の文章は名文でなければなりません。美文とは限りません。
 その故に
 「論評すべきものではない」。
 「論評」と言えば聞こえは良いけど、考え方も定かではない子供が、「論評」なんてできるでしょうか。それをネタに「騒ぐ」範囲を出ないのではないでしょうか。

 沖縄の反戦集会、原発の抗議集会、議員との子供会議で大人顔負けの主張をする子供。
 それを見て、「子供なのに鋭いことを言う」だとか「子供は大人よりちゃんと見ている」、なんて報道してますよね。あの報道、記者の本心なんでしょうか。
 あれって、変声蝶ネクタイ使って毛利探偵の声色で喋るコナンの逆バージョンでしかない。周囲の大人が言ってることを、子供が自分の「考え」だと思い込んで喋っているだけですよ?そんなの見え見えでしょう?
 言葉の端端に大人しか持ってない「考え方」が、はっきり出ているじゃないですか、低劣だけど。

 「国語教育」なんです。「日本語教育」ではなく。「日本語会話教育」ではなく。

 「考える頭をつくる」、それも日本人として考える頭をつくる教育だから、「国語教育」です。誰だって自「国語」で考えるでしょう?
 「考える頭をつくる」って、「考え方を身に着ける」ってことでしょう?
 「考え方を身に着ける」って、論評することじゃありませんよね?
 「考え方を身に着ける」って、読み書きを土台に、名文を暗誦する、暗誦することによって、そこにある考え方を身に沁み込ませることじゃないでしょうか。

 ということは、「道徳」ではなく、「修身」を、ということと同じなんです。
 ディベートやディスカッションではなく、論語の素読や教育勅語の暗誦こそが教育の(国語教育の)本質なんだ、ということです。
 
 本当は中学三年の時に「吾輩は猫である」を読んだんだけど、何が面白いのかサッパリ分からなかったから、ひがんでるのかな?

 あ、ついでながら、ここで話題になっているM氏の小説、一冊も読んでませんので、何も書けません。
 新刊が出るたびにテレビで採り上げられる、ファンの感想に感心しなかったことと、例の、朝日新聞に載った氏の「安酒の酔い」という批判色の強い随筆を見て、読むに値しないな、と思ったものですから。

 勿論、私の老眼が進んで、本を読むと疲れるというのが最大の理由です。
 でも目が疲れても、「ああ~、読んで良かったなぁ~」という気になるのが分かっていれば読みますけどね。


2013.05/11
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教育勅語、ここがいけない!(下)

2020年01月03日 | 重箱の隅
 教育勅語について、自身の復習のために一回、批判(実質は非難)される理由について二回、書いてきました。
 それで、「教育勅語、ここがいけない!」というんじゃなくて、実は大方の人は、ただ単に「教育勅語はいけない!」と、何とかの一つ覚えのように言っている、と。
 少しマシな人は「教育勅語、ここがいけない!」と言うけれど、それはごく少数で、その少数もほぼ全員、一読した程度で、それも初めっから否定するつもりで読んでいる。
 それではまともに読める筈がなかろうということで、それぞれの否定・批判理由について書いてきました。

 で、結果は、というと「そんなこと(くどくどと説明すること)を、したって駄目だろうな」、と思っています。
 いくら言ったって、聞く気のない者は聞かない。
 分かろうとしない者は分からない。
 分かろうとしたって、一遍には分からない。

 しょうがないです。諦めてます。要は「最初が肝腎」、なんですから。
 「三つ子の魂、百までも」、です。それがあるからこそ「雀百まで踊り忘れず」、となるんですから。
 この二つのことわざを現代社会では同じ意味だと捉えてしまっていますが、「三つ子の魂~」は「感じ方→考え方(発展)」で、「雀百まで~」は「『考え』からの実行動」です。

 あの園児たちは意味も分からず、呪文のように唱えているだけ、です。
 決してバカにしているんじゃあ、ありません。当然のことです。あの歳で教育勅語の意味が分かっているとしたらその方が怖い。
 「そんなことない!聞いたらちゃんと意味を答える筈だ!」と本気で思う人、あるでしょうか。あったとしても、「それは意味も口移しで教えられただけ」であることに間違いはないでしょう?

 訳も分からず、口移しで教えられ、それをオウム返しに元気よく言って、大人からほめられる。
 これにはどんな教育効果があるんでしょうか。

 訳の分からないことを、言われるままに真似する。それをほめられる。うれしい。
 また言われるままに繰り返す。ほめられる。うれしい。
 ついには言われると同時に一緒に言えるようになる。
 すると「じゃ、さっき教えたこと、言ってごらん」と言われる。
 すらすらと言える。もっと褒められる。

 この繰り返しで、「ほめられてうれしい」、という喜びの感情が深まります。それも能動的な行動に対して「ほめられる」わけですから、「受け身でいては、何も変化することはない。あまりうれしくない」という実体験も重ねることになります。
 「受動的な行動」というのは、あまり目立たないので、「反応」と言っておいた方がいいかもしれません。
 何もしなくても「かわいいね」とか「いい子だね」とか言われるけれど、それは自身からの働きかけではないのですから、その「うれしい」は喜びまでには至らないし、却って、「めんどくさいな」とか「うっとおしい」という嫌悪感に発展する可能性すらあります。
 これ、脱線しているわけではありません。「訳も分からずオウム返しをする。そしてほめられる」。そのことの重要性を書いているだけです。
 「三つ子の魂百までも」。
 「感情」は作られるものです。「感じる」ことは外からの働き掛けによって、ですが、「感じ」たら、今度は逆に外に働きかけることを求められる。それで感情は深まり、分化していきます。求められるものに応じて感情の表し方が変わっていく。
 つまり、「感じ方」も作られるわけで、それを基にして「考え方」が生れ、発達していく。

 「考え方」の根は「感じ方」であり、感じ方は「感情を作る」ところから切り離しては考えられません。
 そして、その「感情」が作られるのは、概ね三歳ごろまで。
 その時までに形成された「喜怒哀楽」は、周囲の大人のそれがほぼ全てに関わっているのは言うまでもないことです。
 早い話、教育勅語を否定する大人に囲まれて生まれ育ったものが、「教育勅語は素晴らしい」と感じる(直感する)ようになることがあるのか、ということです。
 「考え方」というのは論理の展開法のことです。「考え方」の基には個々の「感じ(感情)」があり、「感じ(感情)」は三歳頃までに作られる。
 そう考えると、「意味も分からず、呪文のように唱えている」ことと、それを「ほめられる」ことが、子供の精神形成にどれだけ大きな影響を及ぼすか、言うまでもないことです。
 「まともなことも書いてあるけど~」、と認めている部分はあるわけですから、そこの部分に関してだけなら、「意味も分からず、呪文のように唱えている」ことを褒めたって良いようなものですが・・・・?

 子供はともかく、大人はどうでしょうか。ここまでに書いてきた理由からすれば、ほとんどの大人は否定する環境の中で生まれ育っているわけですから、「感じ方」が、もはやどうにもできないくらいに違っています。

 「しょうがないです。諦めてます。要は「最初が肝腎」、なんですから。」
 …と書いたのはこんな理由からです。

 でも、そうは言いながら、ほんの少しだけれど、未練がましいけれど、ごく僅かながら、光はある。
 それは「ほぼ全員、一読した程度で、それも初めっから否定するつもりで読んでいる」という部分です。
 一読しかしてないんだから。もう一回。もう一回、目を通したならば、もしかして、
 「あれ?これのどこがおかしいんだろう」
 、と思う人が出てくるかもしれない。
 年の功、です。
 暗誦は遂にできないかもしれないけど、中にある文言を見て、
 「これがおかしいと否定した、戦後すぐの(占領統治下の)国会議決、ってのはなんかおかしくないか?」
 と疑問を抱くだけでも良いんじゃないでしょうか。



2017.03/22
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教育勅語、ここがいけない!(中)

2020年01月03日 | 重箱の隅
 「次回は、箇条を立てたことについて、見ていきたいと思います。」
 と、前回書きましたので、その続きです。

 ・・・・ということですが、その前に。

 「勅語」というのは、「天皇の言葉」という意味だ、と書きました。「勅」、一文字で、大和言葉(訓読み)では、「勅(みことのり)」と言います。
 「みことのり」、つまり「御」「言」「「告(の)り→告るの連用形(名詞形)」(「み」+「こと」+「のり」)です。
 「思いを言葉にした」という意味だけで、「布告(告げ、布く)」のような強い意味はありません。
 天皇の言葉、なのだから「謹んで聴く」だけです。
 だからこれを「支配者と被支配者」という対立関係の図式で見ようとすること自体が、何だかなあ、です。
 「君主制」と錯覚することを目論む「天皇制」や、後ろ向きで周囲ばかり気にするような印象を与える「島国根性」などとという新造語と同じように、「勅語」という文字を見ただけではさほどでもないのに、「教育勅語」、と聞くと何となく反感を抱くような印象操作が為されているように思うのは決して間違いではないでしょう。
 実際、敗戦から3年後の1948年、占領支配下の国会に在って、「教育勅語は新しい日本(敗戦国日本、ということでしょ?)には不適切」と決定された、否定されたわけです。「占領下で否定された」ことが、今はただ「否定された」だけが絶対視されている。

 話が大きく逸れてしまいそうなので、無理矢理戻します。
 勅語は「天皇の御言葉(思いを言葉にされたもの)」という意味だけれど、実際は、当時の学者が考案した、と前回、書きました。
 当時の学者が、懸命に背伸びをして、「自分の考える最高の精神(高上な精神)」を文章にしたものです。
 それを天皇が発した、とすることで、天皇自らもいい加減なふるまいはしないよう、努力することになる。若かりし頃の明治天皇の酒癖の悪さ、それを山岡鉄舟が侍従として仕えて、…という話を思い出すまでもないでしょう。

 この「みんなが努力すべきこと」を「私も拳拳服膺(決して忘れることなく)して」、(徳を)具現したいと思う、という言葉にある明治天皇の採られた姿勢(見方)を忘れて(或いは無視して)、初めから否定することにだけ、全力を注いでいるのはおかしいのではないでしょうか。

 ではまず、箇条書きしたのを再掲します。

 ・「天皇が命じている。今は民主主義の国であるから、それはいけない。」
 ・「戦後、衆参両院で『不適切である』、と廃止が議決された。だから、いけない。」
 ・「明治時代に作られたものであって、時代にそぐわない(時代錯誤)。だから、いけない。」
 ・「軍国主義思想に利用された。だから、いけない。」
 ・「戦争になったら天皇(国)のために命を捨てよ、と書いてある。だから、いけない。」

 ・「天皇が命じている。今は民主主義の国であるから、それはいけない。」
 「教育勅語は天皇が国民に命じる言葉だ。民主主義社会では国民が主だ。だから、それはいけない。」
 「内容はまともなことだけれど、天皇が命じているからいけない」
 内容がまともだと言うのなら、その「まともな内容」を学校で教えたらいい、と思います。
 「天皇が命じているからいけない」・・・?
 日本国憲法によると、現代日本社会では「天皇は日本国の象徴」であって、「その地位は国民の総意」に基づく、ということでした。
 「日本国の象徴」、「国民の総意に基づ」いて存在している「天皇」の言だから「否定する」・・・?
 おかしくないですか。
 
 ・「戦後、衆参両院で『不適切である』、と廃止が議決された。だから、いけない。」
 でも、これ、繰り返しますが、可決されたのは1948年で、1948年と言えばまだ、占領統治下です。独立国ではありません。GHQは神道指令を発し(これこそ、「命じ」て)、教育改革を命じて、財閥を解体、農地解放を・・・、の真っ最中です。
 こんな中で「教育勅語だけは残そう!」と可決できますか?合法政党となった共産党もいますよ?何より、たとえ可決したとしても、占領統治下なんですから、GHQの一存でひっくり返せます。いや、それ以前に可決なんかさせるわけないでしょう?
 日本国憲法自体が押し付け憲法(というより、占領統治法そのもの)なのに、国会で採用を議決した、という体裁をとっています。
 大嘘です。採用するしかなかった。被占領国なんですから。状況を見れば、誰にだって分かることです。
 そんな中で「教育勅語は適切である。残すべきだ」と言えた筈だ、なんて考える方がどうかしてませんか。
 なのに、テレビなどでは「衆参両院で廃止することを決めたのだから・・・」としか言わない。
 決して「占領統治下で、主権が認められていなかった1948年に・・・」なんて説明はしない。これじゃ、まるで詐欺ですよ。「報道しない自由」の行使、かな?
 「占領下で、・・・・」ということを何故言わないんでしょう。

 ・「明治時代に作られたものであって、時代にそぐわない(時代錯誤)。だから、いけない。」
 これも考えてみれば変、です。
 「親には孝、夫婦は仲良く、友達は信じ合い~」
 こういうことって、時代、流行に左右されるようなものではないでしょう。
 それどころか流行にしちゃいけない、時代に流されちゃいけないことばかりです。
 「時代錯誤」なんてのは、流行に関して言えこそすれ、普遍の徳目、少なくとも「日本はこれを大事にしてきた」ということに、流行廃りをを言うのは、変じゃないですか。

 ・「軍国主義思想に利用された。だから、いけない。」
 どこが軍国主義に利用されたんでしょうか。まあ、百歩譲って、利用されたとしましょう。でも、それ、利用した者が悪いんであって、利用された方のどこに非があるんでしょうか。
 つまり、悪いのは例えば「銀行の者ですが~」という騙りであって、知らぬうちに名前を使われた銀行は加害者ではなく、被害者でしょう?
 「教育勅語が悪用された。だから教育勅語が悪い!」と言っているわけですよ。「そんな勅語を発した明治天皇が悪い!」、と?
 「握りずしを食べたら山葵が効いていて涙が出た。山葵が悪い!」
 
・「戦争になったら天皇(国)のために命を捨てよ、と書いてある。だから、いけない。」
 これ、「教育勅語のことを少し(3月15日)」、で、書きましたけど、「一旦緩急あれば(あらば)義勇公に報じ~」というのは、
 「もし、国に一大事(国難となる天変地異など)が起こったならば公のために義を貫き、勇気を出して働き~」
 、という意味で、「戦争が起こったら命を投げ出せ」、と特定のことを示しているわけじゃありません。
 勿論、「緩急」、とは「一大事」のことですから、戦争も含まれはするけれど、それが主たることだ、ということではない。
 更に、これも書きましたが「天壌無窮の皇運を扶翼すべし」のどこが「天皇のために戦え」ということになるんでしょうか。理解に苦しみます。
 「天壌無窮」は「天地に満ち溢れる」という意味で、天照大神の神勅にある「日本の国の在り方」を示されたものです。
 「天皇と民草共に、天地に満ち溢れるほど栄えなさい」というのが天照大神の神勅だから、「天壌無窮の皇運」というのは、「天地に満ち溢れるのが皇国の運命(運勢)」。そのために「扶翼すべし」。「翼となって扶(たす)けよ」、とあるだけのことです。

 これらのどこがいけないんでしょうか。
 あ、もう一つ、忘れてはならないことが。最後の一文です。

 「朕(ちん)爾(なんじ)臣民ト倶(とも)ニ拳々(けんけん)服膺(ふくよう)シテ、咸(みな)其(その)徳ヲ一(いつ)ニセンコトヲ庶幾(こいねが)フ。」
 これを、この一番重視しなければならない文を、新聞やテレビで採り上げないのは何故でしょう。
 「こんなの口だけだ。取り敢えず書いてあるだけだ」
 という人もいるかもしれない。
 でも、他国に、こんな「命令」をしておいて敢えて
 「私も、皆と共にこのことを決して忘れず、同じく徳を現実のものにしようと思う」
 などと、余計なことにも見える一文をつけている、なんてこと、ありますか?
 それこそ今の国会みたいに、何か言えばすぐ「言質」を取ろうとする、或いはもっと低レベルなことで揚げ足を取ろうとばかり考えるのが普通です。
 それを「国家元首」が「朕、爾臣民ト倶ニ拳拳服膺シテ、~」とされている。
 「こんなの口だけだ。取り敢えず書いてあるだけだ」という方が本当なのか。
 それは明治天皇の詠まれた御製歌を一首でも目にすれば、心からそのようにありたいと努められているのが、容易にわかる筈です。

 文語体で書かれた「教育勅語」を現代の口語文にして読み取ろうとすると、まるで教育勅語が鏡のようになって、読もうとする人の心(心象や品性)を映し出すように感じます。


2017.03/19
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教育勅語、ここがいけない!(上)

2020年01月03日 | 重箱の隅
 ・・・・という人、結構いそうに思うんだけど、能く聞くと
 「教育勅語は、具体的に『ここ』がいけない!」
 と言ってる人、ってあまりいませんよね。ただ、「教育勅語はいけない!」、と全体を指して頭っから否定しているだけ。
 「そりゃ、真っ当なことも書いてあるけれど」
 、と部分的には認めても、「~書いてある『けれど』」、ですからね。
 結論としては「いけない(駄目だ)」となるのは既定路線です。

 それで先日来のニュースや、テレビの放送、それからネットなんかも見直してみました。
 何しろ、ネットのニュースや、同じネットの「~速報」は繰り返し読み直してみれば良いんですが、テレビの放送はいけません。
 こちとら寄る年波で、頭の方、ガタが来てるし、大体がお粗末で回転も遅いし、ですからね、あんな速さでニュースを流され、キャラクター重視で選ばれたとしか思えないコメンテーター諸氏の、難解な筋道のコメントを一発で理解なんて、とてもとても。

 いきなり脱線しましたが、とにかく、ガタが来ている我が頭脳で、真面目に見直してみました。
 具体的には、どの箇所がいけないんだろう。サッパリわかりません。
 勿論、あの幼稚園の園児がみんな暗誦していることと「教育勅語はいけない!」に関連性は全くありませんよね?
 あれで、教育勅語に対する印象が悪くなって「あ~、やっぱり教育勅語って危険なんだわ」なんて思うようになったとしたら、それは自身の理性で、「自己批判」しなければなりませんよ。
 これは自尊心の問題ですから。印象操作なんかされちゃいけない。
 「いつも通り、簡単に引っかかった」って、メディアの高笑いが聞こえてきます。

 「教育勅語は何がいけないのか」
 世間で言われる「教育勅語はいけない」という結論には、どんな理由が挙げられているのでしょうか。
 ・「天皇が命じている。今は民主主義の国であるから、それはいけない。」
 ・「戦後、衆参両院で『不適切である』、と廃止が議決された。だから、いけない。」
 ・「明治時代に作られたものであって、時代にそぐわない(時代錯誤)。だから、いけない。」
 ・「軍国主義思想に利用された。だから、いけない。」
 ・「戦争になったら天皇(国)のために命を捨てよ、と書いてある。だから、いけない。」
 ・・・・・こんなところですかね。

 それでは一言。
 「批判、否定をしてる人、ホントに『教育勅語』、読みました?自分の目で?」
 もう一言。
 「声に出して、読んでみました?声に出せば、『意気』が伝わってくると思いますけど。」

 自慢じゃないですけど(怠け者であまり勉強してないけれど)、国文科卒です。古典籍も普通の人よりは目を通している方だと思います。
 それでも、漢籍の素養も必要な文語文の、それも「勅語」として発するために、と練られた文章を、一読しただけでは文の真意を読み取ることはできませんでした。

 「勅語」というのは「天皇の仰った言葉」のこと。同じように「神勅」は「神の仰った言葉」、です。
 「教育勅語」は正式には「教育に関する勅語」で、勿論、考案したのは学者です。それに天皇の署名、押印、があれば、これは天皇の発した言葉、ということになります。
 こう書くと、「そんなの、ズルい!」と子供は思います。「大人は何でも『自分で考えなさい』って言うのに!」

 人はみな、大きくなろう、立派になろうと背伸びをする。そうすることで成長する。「成長」というのは「長じて『成る』」ということだから、逆に言えば「終わり」がある、ということです。
 また、人はみな、大きくなろう、立派になろうと背伸びをする。つまり、いつも少々無理をする。やせ我慢をする、と言ってもいいかもしれない。でも、そうすれば確かに成長できるわけだから、いつまでも成長しようとする。
 成長でとどまることなく(終わることなく)、もっと大きく、もっと立派になりたい。身体は無理でも精神は、心は、そうでありたい。
 「成長」ではなく、樹木のようにいつまでも「生長」することを。だから努力する。「少々の無理」、「やせ我慢」、です。

 立派な言葉を立派な人が発する。人はそれに倣おうとする。
 大事なことは、立派な言葉を発した本人も、その言葉に違わぬよう、自身を叱咤して(少々無理をして)生長しようとすることです。
 ここを見落としちゃいけない。
 実際のところ、良いことを言っても行動が伴わなければ、人は信じて倣おうとしますか?

 この、「そんなの、ズルい!」という原初的な反応から、ひとまずはその立派な言葉を発した人の姿勢を認め、まずは一目置いて、自らは倣おうとし始めることが人の生長の第一歩なのですが、「そんなの、ズルい!」のままで大人になる人もいます。
 そういう人は「人はみな平等」、と言いながら
 「だから、エライ人だって同じ人間、失敗もすればウソもつく。尊敬して見習おうなんて思う奴はバカだよ」
 、と自分の怠慢は棚に上げて、他人の努力を否定する。向上心を認めようとせず、才能や天分だけで、人や物事を判断しようとする。当然、「継続は力なり」なんて、冷笑、蔑視します。

 「何が『教育勅語について』、だよ!脱線ばかりしてるじゃないか!」?
 いえいえ。最初に、
 「具体的な『いけない箇所』の提示がない。ただ初めっから『いけない』と決めつけている」
 、と書きました。
 「教育勅語はいけない」との結論があって、の批判なわけですから、そこに論理がないのです。
 教育勅語には「国民の在り方」を説いてあるのに、又、「努力すべき指針」が書かれてあるのに、そこに目を向けることなく、全く論理展開なく、ただ、否定している。
 それでは教育勅語は(読む気がないんだから)読めないでしょう。読まない、読む気がない上に読めないで、批判(非難)、否定だけする、ってのはどだい無茶苦茶な話です。


 というわけで、まずは「教育勅語を読もう!」。
 それも「原文の味わいを、暗誦できるまでに音読することで、国語教育というものを実感しよう」。
 口語訳文では文語文の力強さは伝わりませんから、振り仮名を見ながらでも、まずは声に出してみる。
 「読書百遍」、です。「意、自ずから通ず」。
 百遍に至らずとも「お題目」や「念仏(仏名)」を唱える以上に、精神が発揚されるのを感じることができると思います。


 次回は、箇条を立てたことについて、見ていきたいと思います。


 2017.03/17
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