全ての問題の根は、我が国の国語教育にある。
小学校の教育は「読み書き」に徹するべきもので、作品を読む必要など何処にも無い。
仮に作品を与えるとすれば、それは暗唱すべきもので、論評すべきものではない。無条件に頭の中に入れるもので、それをネタに騒ぐものではない。
漱石が小学生に理解できるはずがない。中学生にも高校生にも難しいものを与えて、しかもその感想を言えと迫っている。
国語教育の犠牲者は、「本を読んだら感想を言わなくてはならない」との強迫観念に囚われている。「本を読んだら誰でも感想があるものだ」と信じ込まされている。
教師達は涼しい顔で、学生達を「感想を持てない私が未熟なんだ」と思わせるまで追い込んでいるのである。自虐のルーツである。
(略)
★ ★ ★ ★ ★
横並びだ、無個性だ、没個性だと言葉もとりどりに、我が国の国民性を云々する者が後を絶たないが、そんな言葉遊びよりも、より本質的な問題は、国語教育が偏っている、そのことによる弊害である。
思想的に偏るよりもなお悪い、言葉を弄び、言葉を軽んじる教育をしている。それが「自虐を愛する国民性」を作っている。
(略)
「時は金なり」などと真面目な顔で言う人も多いが、金程度であるならば、時など大したものではないだろう。金など所詮どうにでもなる。世界中の富を集めて、一人で使うことすら想像できる。
しかし、時を集めることが出来るのか。時こそ万人平等にして、最も過酷な現実ではないか。真実は「金は時なり」であろう。金は時ほどに重要だ、と言ってこそ教訓にもなろう。
その時を浪費するのである。下らないものを読んでいては、大切なものを読む時間を失うのである。
得るものがあれば失うものがある。時ほど冷徹にこの事実を突き付けてくるものはない。
詰まらないもので時間を空費しないよう、気をつけたいものである。
「イカ臭い妄想小説と国民の自虐」
~夕刻の備忘録~より
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
題の通り、
「よく言ってくれた!ワシもそう思う!」
、なんて言ったら叱られそうだけど、言わずにはいられない。
このエントリーは全文読まれたら、「あの」ノーベル賞候補作家の新作に対する読者の反応を批判する形になっていると分かるのだが、そこには当然、今の日本人(当然B層ですよね)批判、そのもとになっている戦後教育批判が滔々と流れているわけです。
そんなの全く関係なしに、いつもの通り、都合のいいところだけを見て思ったところを書こうとしているわけですが、満更外れたことにもならないでしょう。
国語教育の在り方について書かれているんですが、備忘録氏、間違いなく、
「国語教育とは、考え方を教えることだ」
、と、
「日本人としての考え方を身に沁み込ませることだ」
、と捉えておられると思います。
・「読み書き」に徹するべきもの。
・「暗唱すべきもので、論評すべきものではない。」
つまり、
「無条件に頭の中に入れるもので、それをネタに騒ぐものではない。」
子供に「ボクはこう思います」「私はこうだと思います」などと、強引な主張をさせることが国語教育だなんて勘違いも甚だしい、と。
「暗唱する」という事は「無条件に頭の中に入れる」という事ですから、これは声に出して読み、そのまま覚えることで、日本語の形(発音)と文章に表れている「考え方」を己が物にするということでしょう。
だから勿論、その際の文章は名文でなければなりません。美文とは限りません。
その故に
「論評すべきものではない」。
「論評」と言えば聞こえは良いけど、考え方も定かではない子供が、「論評」なんてできるでしょうか。それをネタに「騒ぐ」範囲を出ないのではないでしょうか。
沖縄の反戦集会、原発の抗議集会、議員との子供会議で大人顔負けの主張をする子供。
それを見て、「子供なのに鋭いことを言う」だとか「子供は大人よりちゃんと見ている」、なんて報道してますよね。あの報道、記者の本心なんでしょうか。
あれって、変声蝶ネクタイ使って毛利探偵の声色で喋るコナンの逆バージョンでしかない。周囲の大人が言ってることを、子供が自分の「考え」だと思い込んで喋っているだけですよ?そんなの見え見えでしょう?
言葉の端端に大人しか持ってない「考え方」が、はっきり出ているじゃないですか、低劣だけど。
「国語教育」なんです。「日本語教育」ではなく。「日本語会話教育」ではなく。
「考える頭をつくる」、それも日本人として考える頭をつくる教育だから、「国語教育」です。誰だって自「国語」で考えるでしょう?
「考える頭をつくる」って、「考え方を身に着ける」ってことでしょう?
「考え方を身に着ける」って、論評することじゃありませんよね?
「考え方を身に着ける」って、読み書きを土台に、名文を暗誦する、暗誦することによって、そこにある考え方を身に沁み込ませることじゃないでしょうか。
ということは、「道徳」ではなく、「修身」を、ということと同じなんです。
ディベートやディスカッションではなく、論語の素読や教育勅語の暗誦こそが教育の(国語教育の)本質なんだ、ということです。
本当は中学三年の時に「吾輩は猫である」を読んだんだけど、何が面白いのかサッパリ分からなかったから、ひがんでるのかな?
小学校の教育は「読み書き」に徹するべきもので、作品を読む必要など何処にも無い。
仮に作品を与えるとすれば、それは暗唱すべきもので、論評すべきものではない。無条件に頭の中に入れるもので、それをネタに騒ぐものではない。
漱石が小学生に理解できるはずがない。中学生にも高校生にも難しいものを与えて、しかもその感想を言えと迫っている。
国語教育の犠牲者は、「本を読んだら感想を言わなくてはならない」との強迫観念に囚われている。「本を読んだら誰でも感想があるものだ」と信じ込まされている。
教師達は涼しい顔で、学生達を「感想を持てない私が未熟なんだ」と思わせるまで追い込んでいるのである。自虐のルーツである。
(略)
★ ★ ★ ★ ★
横並びだ、無個性だ、没個性だと言葉もとりどりに、我が国の国民性を云々する者が後を絶たないが、そんな言葉遊びよりも、より本質的な問題は、国語教育が偏っている、そのことによる弊害である。
思想的に偏るよりもなお悪い、言葉を弄び、言葉を軽んじる教育をしている。それが「自虐を愛する国民性」を作っている。
(略)
「時は金なり」などと真面目な顔で言う人も多いが、金程度であるならば、時など大したものではないだろう。金など所詮どうにでもなる。世界中の富を集めて、一人で使うことすら想像できる。
しかし、時を集めることが出来るのか。時こそ万人平等にして、最も過酷な現実ではないか。真実は「金は時なり」であろう。金は時ほどに重要だ、と言ってこそ教訓にもなろう。
その時を浪費するのである。下らないものを読んでいては、大切なものを読む時間を失うのである。
得るものがあれば失うものがある。時ほど冷徹にこの事実を突き付けてくるものはない。
詰まらないもので時間を空費しないよう、気をつけたいものである。
「イカ臭い妄想小説と国民の自虐」
~夕刻の備忘録~より
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
題の通り、
「よく言ってくれた!ワシもそう思う!」
、なんて言ったら叱られそうだけど、言わずにはいられない。
このエントリーは全文読まれたら、「あの」ノーベル賞候補作家の新作に対する読者の反応を批判する形になっていると分かるのだが、そこには当然、今の日本人(当然B層ですよね)批判、そのもとになっている戦後教育批判が滔々と流れているわけです。
そんなの全く関係なしに、いつもの通り、都合のいいところだけを見て思ったところを書こうとしているわけですが、満更外れたことにもならないでしょう。
国語教育の在り方について書かれているんですが、備忘録氏、間違いなく、
「国語教育とは、考え方を教えることだ」
、と、
「日本人としての考え方を身に沁み込ませることだ」
、と捉えておられると思います。
・「読み書き」に徹するべきもの。
・「暗唱すべきもので、論評すべきものではない。」
つまり、
「無条件に頭の中に入れるもので、それをネタに騒ぐものではない。」
子供に「ボクはこう思います」「私はこうだと思います」などと、強引な主張をさせることが国語教育だなんて勘違いも甚だしい、と。
「暗唱する」という事は「無条件に頭の中に入れる」という事ですから、これは声に出して読み、そのまま覚えることで、日本語の形(発音)と文章に表れている「考え方」を己が物にするということでしょう。
だから勿論、その際の文章は名文でなければなりません。美文とは限りません。
その故に
「論評すべきものではない」。
「論評」と言えば聞こえは良いけど、考え方も定かではない子供が、「論評」なんてできるでしょうか。それをネタに「騒ぐ」範囲を出ないのではないでしょうか。
沖縄の反戦集会、原発の抗議集会、議員との子供会議で大人顔負けの主張をする子供。
それを見て、「子供なのに鋭いことを言う」だとか「子供は大人よりちゃんと見ている」、なんて報道してますよね。あの報道、記者の本心なんでしょうか。
あれって、変声蝶ネクタイ使って毛利探偵の声色で喋るコナンの逆バージョンでしかない。周囲の大人が言ってることを、子供が自分の「考え」だと思い込んで喋っているだけですよ?そんなの見え見えでしょう?
言葉の端端に大人しか持ってない「考え方」が、はっきり出ているじゃないですか、低劣だけど。
「国語教育」なんです。「日本語教育」ではなく。「日本語会話教育」ではなく。
「考える頭をつくる」、それも日本人として考える頭をつくる教育だから、「国語教育」です。誰だって自「国語」で考えるでしょう?
「考える頭をつくる」って、「考え方を身に着ける」ってことでしょう?
「考え方を身に着ける」って、論評することじゃありませんよね?
「考え方を身に着ける」って、読み書きを土台に、名文を暗誦する、暗誦することによって、そこにある考え方を身に沁み込ませることじゃないでしょうか。
ということは、「道徳」ではなく、「修身」を、ということと同じなんです。
ディベートやディスカッションではなく、論語の素読や教育勅語の暗誦こそが教育の(国語教育の)本質なんだ、ということです。
本当は中学三年の時に「吾輩は猫である」を読んだんだけど、何が面白いのかサッパリ分からなかったから、ひがんでるのかな?
あ、ついでながら、ここで話題になっているM氏の小説、一冊も読んでませんので、何も書けません。
新刊が出るたびにテレビで採り上げられる、ファンの感想に感心しなかったことと、例の、朝日新聞に載った氏の「安酒の酔い」という批判色の強い随筆を見て、読むに値しないな、と思ったものですから。
勿論、私の老眼が進んで、本を読むと疲れるというのが最大の理由です。
でも目が疲れても、「ああ~、読んで良かったなぁ~」という気になるのが分かっていれば読みますけどね。
新刊が出るたびにテレビで採り上げられる、ファンの感想に感心しなかったことと、例の、朝日新聞に載った氏の「安酒の酔い」という批判色の強い随筆を見て、読むに値しないな、と思ったものですから。
勿論、私の老眼が進んで、本を読むと疲れるというのが最大の理由です。
でも目が疲れても、「ああ~、読んで良かったなぁ~」という気になるのが分かっていれば読みますけどね。
2013.05/11