CubとSRと

ただの日記

沖縄などを「質草(しちぐさ)」にして

2020年01月19日 | 重箱の隅
2013.03/18 (Mon)

 「占領は終(おわ)った。六年八カ月間の長い長い占領は終った」と1952(昭和27)年4月28日の小欄は筆を起こしている。末尾は「占領よ、さようなら」の言葉で締めくくった。独立という、戦後の新しいステージへの静かな高揚が伝わってくる
▼サンフランシスコ平和条約が発効したその日、日本は主権を回復した。同時に沖縄、奄美、小笠原は本土から切り離された。沖縄ではその後20年にわたって米軍統治が続くことになる。「屈辱の日」として記憶されてきたゆえんである
▼平和条約をめぐって、国論を分かつ議論が起きたのはよく知られる。東西の両陣営と講和するか、米国など西側だけとの講和か、である。世論は沸騰した。しかし「日本」とは本土だけを指し、沖縄は忘れられていた
▼それから61年、「主権回復の日」の式典なるものを政府が初めて行うそうだ。沖縄から反発の声が上がったのは当然だろう。復帰後も基地は集中し、治外法権的な地位協定は残る。今なお「占領よ、さようなら」と言えずにいる人は少なくあるまい
▼「日本には長い占領期間があったことも知らない人が増えている」と安倍首相は言う。その通りだろうが、4・28は沖縄などを「質草(しちぐさ)」にしての主権回復だった。沖縄では日の丸も自由に掲げられなかった
▼安倍さんの祖父の岸信介氏らは条約発効に伴って公職追放が解かれている。それはともかく、沖縄への想像力を持たずしてこの日は語れない。万歳三唱で終わるなら、やる意味もない。

                          ~天声人語~
                               3月18日 朝刊より

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 《「占領は終(おわ)った。六年八カ月間の長い長い占領は終った」
 で始まり、
 「占領よ、さようなら」の言葉で締めくくった。
 独立という、戦後の新しいステージへの静かな高揚が伝わってくる。》

 前半は当時の朝日新聞の編集子の思いであり、後半は現在の編集子の解釈である。そう取って間違いなかろう。

 「日本は主権を回復したのだ。解放されたのだ」
 そういう安堵感は確かに伝わってくる。「占領」という言葉が、どれだけ重くのしかかっていたか。ほんの数行のこの文からでもそれは痛いほど分かる。

 この間に、日本国憲法が押し付けられ、それが今に至るまで憲法として存在している。
 そのことについて、
 「あれは、天皇の御名と御璽があるから、『押しつけ』ではない。国民自らが決めたのだから日本に主権はあったのだ。実際、日本は軍隊を持てと言われても拒否しているではないか。それで『主権がない』等と言えるのか」
 等と言う人もいる。
 しかし、当時の日本国民にとって、いや、現在の日本人だって、そういう意見は詭弁にしか聞こえないだろうことは、この僅か数行に込められた編集子の思いで十二分に分かる。
 それこそ、耐え難きを耐え忍び難きを忍んで憲法を受け入れ、それこそ、吉田首相を中心とした国会が、命を懸けて国軍設立を拒否したのではないのか。

 それら万感の思いを胸に編集子は
 「占領は終(おわ)った。六年八カ月間の長い長い占領は終った」
 と書いた筈である。

 では、そこに「沖縄への思い」はあったのか。なかったのか。
 いや、忘れてはならない。奄美や小笠原はどうなのだ。
 「沖縄、奄美、小笠原も一緒でなければ占領が終わったとは言えない!」
 そんな風に考えていたのだろうか。
 もしそうならば
 「占領は終(おわ)った。六年八カ月間の長い長い占領は終った」
 と書いたか。

 ここに、沖縄、奄美、小笠原が「信託統治」とはされていないことで、いずれは日本に帰って来る、という(希望的観測ではあるけれども)思いが見え隠れする。
 信託統治とされたならば、いずれは独立するものの、日本に帰属することはなくなるのだから。
 「狼魔人日記」にあったように、「占領下」ならば主権(潜在主権)は日本にあるのであって、いずれは占領を終えることになるその時、自動的に日本に復することになる。

 しかし、現在の編集子は
 「沖縄、奄美、小笠原は本土から切り離され」、「屈辱の日」として記憶されてきた」
 と説き、未だ「占領よ、さようなら」と言えずにいる、とする。
 例によって「私が言っているのではないけれど」、との布石はちゃんと打ってある。
 そして、とんでもない表現で自身の捉え方を述べる。
 《4・28は沖縄などを「質草(しちぐさ)」にしての主権回復だった。》

 「沖縄を人質としてアメリカに差し出して主権を回復したのだ」、と。
 あの時の、昭和27年4月28日の編集子の思いは全く省みられてはいない。
 大先輩の思いをまるで土足で踏みにじっているかのように。

 そして、安倍「現総理」を安倍「さん」と書き、祖父岸信介氏の公職追放がその時、解かれたことをわざわざ書いて「それはともかく」と軽く流す。
 占領軍の指令により行われた公職追放が主権回復の日に解かれることは、考えてみれば当たり前のことではないか。

 「沖縄への想像力を持て」「万歳三唱で終わるなら意味はない」
 
 大先輩の思いを手前勝手に解釈し、沖縄は未だ占領が終わらず人質のままである、と決めつけ、沖縄への「想像力を持て」と。


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「主権回復の日」のことについて (天皇親政とは)

2020年01月19日 | 重箱の隅
2013.03/15 (Fri)

 「狼魔人日記」中、「『屈辱の日』か『主権回復の日』か」、と題されたエントリーです。初めに氏の追想、次に琉球新報の記事、それから、本題です。

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

■「日本国への帰国を証明する」・・・パスポートに押されたゴムスタンプ

  半世紀以上前の話。 
 筆者がまだ10代の紅顔の美少年?のころの出来事である。
 進学のため米軍占領下の沖縄を後にし祖国日本の出入国・通関に足を踏み入れたときのことを昨日のことのように思い出す。

 携行していた「パスポート(日本旅行証明書)」を通関に差し出したとき、審査官は学生服姿の筆者を見て微笑みながら声をかけてくれた。 
 「進学のため?」
 「はい、そうです」
 審査官は高校の制服制帽姿の少年に終始優しく対応した。

 審査官はパスポートにゴムスタンプを押し、それに署名しながらこういった。
 「しっかり勉強しなさいよ」
 「はい」
 口下手の少年は審査官の優しい対応と励ましの声に、心の中で「ありがとう」とつぶやいたが、それを口に出して言うことができなかった。

 後で、パスポートに押されたスタンプを見て、感動がこみ上げてきた。
 スタンプには「日本国への帰国を証明する」と記され、審査官の署名がされていた。
 「日本国への入国」ではなく「帰国」という文字に感動したのだ。

 それまでの認識では米国の統治下にあるので、沖縄人は日本国民ではないのではないかという疑念を持っていたが、「沖縄の潜在主権は日本にある」とも聞かされていた。
 そのせいなのか、沖縄で戦後教育を受けた少年は、小学、中学、高校と文部省教科書で教育を受けていたが、そのことには何の矛盾も感じていなかった。
 少年は、「潜在主権」の意味がよく理解できないまま祖国日本に上陸し、通関手続きで「日本国への帰国を証明する」という審査官の署名つきスタンプを見て初めて「潜在主権」を身を以て実感したのであった。

 だが、その「潜在主権」という文言が、昭和天皇の「天皇親政」で生まれた「天皇メッセージ」の成果であることを、少年はその時知る由もなかった。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 この4月28日を日本が独立を回復するため沖縄を米国に売り渡した「屈辱の日」などと叫ぶ勢力がいる。
 そして政府が日本が独立を回復したサンフランシスコ講和条約発効の日の4月28日を「主権回復の日」として政府主催の式典を開くと表明して以来、またぞろ沖縄2紙が発狂を始めた。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ~琉球新報より~

 4月28日「屈辱の日」に式典 首相「独立認識する日」2013年3月8日

 安倍晋三首相は7日の衆院予算委員会で、1952年にサンフランシスコ講和条約が発効し、沖縄が日本から切り離された日に当たることし4月28日を「主権回復の日」として、政府主催の式典を開く方針を明らかにした。県内では、基地重圧の源流で米軍の圧政が固定化したこの日を「屈辱の日」と呼ぶだけに、反発の声が上がっている。
 1952年の講和条約発効により、日本は占領統治から独立を回復したが、沖縄は米軍統治下に差し出される形となった。
 自民党は、昨年の衆院選公約に「主権回復の日」を掲げており、首相は「実施する方向で検討している」と明言した。近く閣議決定する。
 首相は「主権を失っていた7年間の占領期間があったことを知らない若い人が増えている。日本の独立を認識する節目の日だ」と意義を強調した。

                       (新聞記事ここまで)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 米軍統治下の沖縄の法的地位については「米軍の信託統治で施政権を放棄した」など誤解が多い。
 共産党など反日サヨク勢力が「屈辱の日」と声高に政府を追及するのは何時ものパターンで特に気に留めることもないが、県内の保守系論者の中にも米軍統治下の沖縄の法的地位について誤解が散見される。

 例えばこんなように。

 <サンフランシスコ講和条約は、日本は主権を回復しました。しかし、第3条で奄美、沖縄は米国の信託統治領となり、行政、立法、司法権を失ったからです。沖縄にとって、4月28日は主権回復の日ではなく、正反対の主権喪失の日だったのです。>

 沖縄が米国の信託統治だったと言うことは大きな誤解である。
 確かに米国は沖縄侵攻の当初から、沖縄を米軍基地として永久に統治する意図が有り、その遂行のため、沖縄人と本土出身者を分断する占領政策を行ったことがよく知られている。
            (略)
 だが、実際は米国は「沖縄を信託統治にする」と提案はしなかった。
 したがって日本が同意することもなく、沖縄が米国の信託統治に委ねられることもなかった。
 これが歴史の事実である。

 では何故米国は沖縄を永久統治の意図がありながら、その提案をしなかったのか。
 反日サヨク勢力が声高に叫ぶ日本は「沖縄を売り渡して主権回復した」という状況の当時、米国は何故「信託制度」の提案をしなかったのか。
 そこには冒頭に触れた「潜在主権」というキーワードと、これを当時の誰が思いついたかという点が問題になってくる。

 実は主権のない米国占領下の日本で、誰も沖縄のことなど考える余裕のない昭和20年代初期、ただ1人の人物が占領下の沖縄のことを憂慮していた。
 其の人物はただ1人、絶対的権力を持つGHQのマッカーサーと複数回個人的面談をし、沖縄を日本の主権を残したまま「暫定的リース」の形で米軍の使用を認めるという当時の日本の政治家が考えも及ばない「奇策」を伝えた人物だ。
 昭和天皇のことである。
 そして、その「奇策」こそが「天皇メッセージ」として現在伝えられているものである。

 「天皇メッセージ」とはいっても天皇が記したメッセージが残っているわけではない。
 当時宮内庁御用掛をしていた寺崎英成が「天皇独白録」として書き残したものと、当時マッカーサーの政治顧問をしていたウイリアムシーボルトが米国務省に書き送った手紙から類推したものである。
 シーボルトの手紙によると、昭和天皇は、宮内省御用掛である寺崎英成をダグラス・マッカーサー元帥の政治顧問であるウィリアム・シーボルトの下へ派遣し、「米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう希望する」との同元帥宛のメッセージを伝達されたとしている。

 この手紙はは1979年に発見された米国の公文書で判明したもので、この手紙を以って日本国内の反日反米の左翼勢力は「沖縄を売った」などと強調するが、実に許し難きデマ宣伝である。
                  (以下略)

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 「米国は沖縄侵攻の当初から、沖縄を米軍基地として永久に統治する意図が有り、その遂行のため、沖縄人と本土出身者を分断する占領政策を行った」
 にも拘らず、それをしなかった、ということと、天皇が
 「沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう希望した」
 、という文言を繋げると、 
 「沖縄を売り渡して主権回復した」
 という結論を導き出すには、些か以上に無理があります。
  反対に、「軍事占領」ならば、「信託統治」ではないのだから、時局が安定すれば、返却しないという理由がなくなります。


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「玉を取る」

2020年01月19日 | 重箱の隅
2013.03/22 (Fri)

 「タマを取る」という言葉を初めて聞いた時は、まず、「痛そう~っ」としか思わなかった。
 だって、男のアレ、ですよね?
 そりゃ痛いに決まっている。男にしか分からない。
 そりゃぁ~痛い!痛いに決まってるんだ!
 でも、死ぬわけじゃない。

 去勢手術、なんてのがあって、そうしなきゃ雄牛なんか危険だし、肉も固くて不味いらしい。
 で、去勢牛のことを「ヌキ」と言うらしい。勿論「タマヌキ」から来ている。流石に直接表現は避けて、後半の「ヌキ」を専門用語としている。

 ところが、「黒」世界では、その直接の表現を使うらしい。下品だ。
 そう思っていたんだけれど、どうも様子が違う。「ヌキ」の組員なんていない。
 それどころか「タマ、取って来い!」というのは、対抗組織のリーダー(つまり親分、ですね)の命を取って来い、という意味しかない。
 組員同士の命の取り合いを、「タマを取る」なんて言わない。

 ここに至って「タマ」というのは「命」、それもリーダーのそれを指すのだと分かる。
 ・・・アホです。はい。承知してます。

 で、当然、ここで「何で命のことをタマって言うんだ?」 、という疑問が湧きますね? 
 「そりゃあ、男だからタマ・・」、ってそれ、違うみたいでしょう?
 リーダーに限られるんです、命を「タマ」というのは。
 映画なんかで「組長のタマ取って来い!」、なんて科白は誤用なんで、「タマ、取って来い!」と言ったら相手の組長だってことは言わずともわかる。

 それで僅かしかない知識を総動員してみたら、何故、「タマ」と言うか、答えが出て来ました。
 あれ、「タマ」じゃなくって「玉」なんじゃないか、と思うんですよ。
 「タマ、取って来い!」じゃなくって、「ギョク、取って来い!」
 つまり、読み間違いが初めなんじゃないか、と。

 「玉」と言うのは、御存じの通り、将棋で遣う駒、その一番大事な「王将」のことです。「玉将」というのはリーダーです。

 「リーダー(の命)を取って来る」、イコール「いくさに勝つ」、ということで、元々命を奪うという意味はなかったんだけれども、ああいった裏世界(切った張ったが日常)の場合は、もう直接に命のやり取りだから、これが「命を取る」という意味にエスカレートしてしまった。

 さて、この「タマ」ではなく、「玉」という表現、実は幕末から維新にかけて能く使われたのだそうです。
 主に官軍となった薩長の中心人物らが手紙などで能く用いていたのだそうで。
 はい、お気づきの通り、「玉」とは天皇のことです。
 「玉を護る」とか「玉はこちらに」とか書いていたんでしょうね。


 ここからは大脱線。いや、ここからが本題ですかね。

 「玉を取る」「玉を護る」。
 命ではないけれど「天皇を取る」「天皇を護る」。
 たった一文字のことなんですが。

 つまり、「事実は一つ」なんですが、採りようで色々になります。真実は色々です。

 ○「天皇のことを『玉』、などと。まるで、将棋の駒扱いだ。ゲーム感覚だ。
 ○官軍となった薩長の連中は、天皇のことをただの道具として見ていたのだ。皇室は決して大事にはされてなかった。
 ○幕府だって、朝廷を大事にしてはいない。それが証拠に小大名並みの収入しか与えなかったではないか。

 こういった意見の中にあって、それに色をなして反駁したのが、例の頑固親父、海音寺潮五郎です。
 「評論家や今の歴史学者は、全く日本の国というものを分かっておらん!『天皇』と書かず、敢えて『王』、それも『玉』と書くのは余りにも畏れ多いことだから、との心根からなのだ。そんなことも分からぬとは呆れ果てた奴らだ」
 
 事実は一つであっても、真実は色々。

 では、日本で貫かれてきた真実は一体どれなのか、伝えられてきた国の在り方は?と考えたら
 「ああ、やはり、『戀闕』の心、『至誠惻怛』の心が神武創業以来伝えられてきたのだな」
 と、私は思います。

 真木和泉守言うところの「戀闕(れんけつ)」、若林強斎の「至誠惻怛(しせいそくだつ」の心、という言葉を、幕末、勤王の志士達が使っていたことを思えば、「ゲーム感覚」、「大事にしていない」、「小大名扱い」だったのか、それともただただ畏れ多いと思っていたのか、どちらが正論なのか、自ずと明らかになりませんか。

 そこではっとしました。
 先日に転載した「狼魔人日記」ブログの、天皇が「沖縄を占領地のままにして置いて欲しい」と、マッカーサー総司令に要請されたことです。
 これ(占領が続くこと)を以て、
 「沖縄の県民は日本に捨てられたと悲観し、朝鮮・台湾も同じ思いをした(註)」
 、と本日の朝日新聞の社説にありました。
 勿論狼魔人氏は、それは全くの誤認だ、と書かれています。
 「そうではない。そうすることによって『信託統治』から独立へ、という、最悪の(アメリカにとっては最良の)形を実現させぬよう、天皇の親政が行われたのだ」、と。

 これは天皇の思い、大御心が、決して私心のないもの、というあらわれなのですが、あの「玉」という表現だって、「君臣の情義」を思えば、「畏れ多いことだからそういう風に表現した」と解釈しない、いや、感じない方がよっぽどおかしいのではないか。

 理屈ではないのです。「感じ」、「感情」、なんです。
 天皇と我々民草との「一体感」、なんです。


 (註)
 朝鮮、台湾に関しては「放棄させられた」のだけれど、沖縄に関しては占領の続行を要請することでアメリカの目論見を破り、「放棄しない」ということになるのです。
 朝鮮、台湾、沖縄全てが、捨てられた、と取るのは仕方がないけれど、捨てたのではない、ということは日本を代表する新聞社たるもの、せめて国民にはきちんと説明するべきでしょう。

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先祖祀りもしない者が

2020年01月19日 | 神社
2015.12/04 (Fri)

 父の一周忌にお経をあげてもらうため、先月下旬から田舎に帰っていた。
 本当なら十一月半ばなのだが、遅くなった。

 一年。あっという間だ。父の法事より、自分の病気入院などを優先した。親不孝者である。

 自分の入院加療は二度に分かれたとはいえ、病院からすれば内視鏡を使った簡単なもので、現に今は以前と変わりなくこうやってお気楽な日記を書いている。が、父は戻っては来ない。「私に今、何かできるのか」、なんて言うまでもなく、何もできはしない。

 「親不孝者」と書いたけど、じゃあ孝行していたら親はいつまでも生きていられるかというと、そんなわけはない。
 残された者にできることって一体何だろう。立派な法要を行うことか。
 繰り返すけれど、死んだ者は生き返っては来ない。
 
 「残った者」、とか「残された者」という言い方に、なにか引っ掛かる。
 他界したものは「成仏」したのだ。「仏に成った」のだ。
 だったら、斯界(此岸)に居る我々はまだ仏に成ってないのだ。やらねばならないことがあるのだ。
 つまりは、「まだ宿題が残っているのだ、だからこの世は修行の場なのだ。酷く言えば刑務所なのだ」ということか?
 いや、我々は修行僧ではない。ましてや囚人ではない。
 ということは、我々は「残された者」「残った者」ではなく、この世を「継ぐ者」「継承者」であり、次代に「繋ぐ者」である筈だ。

 そうするとやっぱりできることは、それぞれの事を、それぞれの意志で取り組み続けるということ、しかなかろう。
 で、それは去った者のために、ではなく当人のために、ということになる。そしてそれは周囲のために、ということにもなる。
 更にそれはめぐり巡って世のため人のため、となっていく。

 そんなことを考えたら、以前、妙に違和感を持ったことが、同じ理屈からだったことに気付いた。
 大阪府知事だったか、大阪市長だったか、祖母に叱られたという話だ。ニュースで何度か目にした。
 「靖国神社に参拝する、と言ったら『おじいさんの墓参りもしない者がええカッコするな!』と叱られた」
 、と。

 「先祖祀りもしない者が、一族に戦死者もいないのに何故靖国神社に参るのか。自分の家の墓参りが先だろう?」
 何となく、つい
 「そうだそうだ。先に墓参りしろ。ええカッコするなよ」
 と思ってしまいそうになる。

 でも、
 「先に先祖祀り、しろよ」?
 靖国神社の英霊達は彼が参拝したらそんな風に思うのだろうか。
 いや、既に神となった英霊達にそんな感情はあるまい。そう言うのは生きている者同士が言い合うことだ。神の気持ちを忖度したって意味はない。

 それよりも我々は「英霊達は自身の身近な人々を守るために命を捧げた」ということをもっと直視すべきだろう。
 「身近な人を守るために」
 これは家族を養うために額に汗して働くことと同じ道理だ。
 我が身を捨てて家族を守る、身近な人を守るということは、継承者に後を託すということだから、国を守るということになる。
 だったら、我々は血のつながりはなくとも、国民として彼らに守られたのだ。そして彼らに後を託された「継承者」なのだ。
 そう考えたら参拝するのは当然のことではないか。参拝ができなければ遥拝すればいいではないか。
 「墓参りしてないから、縁もゆかりもない靖国神社に参拝するな」、はあまりにも身勝手な暴論だ。

 南方に出征していた父は勝ち戦の中で敗戦を知り、帰国した。そして地道に生き、子を育て、昨秋他界した。
 先日亡くなった水木しげる氏。ラバウルで死線を越え、片腕を失って帰国、日本人の心に大きな影響を残した氏より一つ年上だった。
 有名無名の違いはあるけれど、どちらもやっぱり働くことで家族を守り、戦争賛美などはせず、結果としてその先にある「国」を守ることをしてきたのだ。戦後も、そうやって国を守り続けてきたのだ。

 勿論、「国があって家族がある」のではない。けれど「家族があって国がある」のでもない。
 我々民草が熱源となって国は成り立つ。

 私は私の意志で私にできることに取り組むこと。そうやって熱を発すること。
 せめて受け売りの「右から左へ受け流す」ようなことだけはせぬよう努めることにしよう。

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波上宮(なみのうえぐう)と沖縄  (下)

2020年01月19日 | 神社
2015.11/17 (Tue)

 「沖縄のこころ」
 ~県民憧れの宮・沖縄総鎮守 波上宮を通して見た沖縄~

 < 沖縄の言葉は日本語 >
 また、使っている言葉は日本語。例えば御伊勢の宮の事を昔は「ウイシノミヤ」(ウイシヌミヤ?)と呼んでいた。
 沖縄の方言は、母音のエ( e )の音がイ( i )の音に、オ( o )の音がウ( u )の音に変化する。即ち、「オイセノミヤ」のオ( o )は、ウ( u )に、セ ( se )が、シ( si )に変化して、「ウイシノミヤ」となる。
 発音だけを聞くと、最初はなかなか分かり難いが、意味を教えて貰い、何度も繰り返し発音すると、読書百遍ではないが、意、自ずから通ずるものがある。これは、母国語・日本語だからである。沖縄の言葉は、平安期前後に都の言葉が流入し、積み重なった古層の言葉が今に伝わるもので、発音は現代人には分かり難いが、文法等、正に日本語以外の何物でもない。西洋や中国とは文章の並び方が完全に違うのである。

 さて、言葉は日本語、王様は日本人、国の一大事業に際し祀る神も、皇祖神・天照大御神となれば、もう、この島は、琉球王朝の昔より日本の心、魂の息づく地であったと筆者には思えてならない。

                    (以下略)
                          
                                      転載了


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 場所柄、台湾と同じように、大陸南部の福建省辺りから多くのシナ人が早くから移り住んでいたことは間違いないし、実際、前知事の仲井真氏も、自身、先祖は中国人と言っています。
 これは逆に見ると、それを誇りにしている、ということで、比較的新しい移入だから、色々な文化を持って渡来し、歓迎されたということでしょう。同時にそれが、沖縄は元来、シナ人の土地ではなかった、ということの証明にもなっています。
 そして、その具体的な証拠が、聞き取り難いけれども、紛れもなく日本語を話しているということ。
 沖縄の宮廷舞踊が室町期に完成された能楽の舞をもとにしてつくられていることなども日本である証明になるでしょう。

 また、以前にも書きましたが、大方は室町期の日本語が沖縄風に発音されるため、言葉も意味も違って見えることがある。
 それに加えて、その古い言葉を今の言葉に直そうとして、今の「意味合い」から漢字を当てようとする。そのため、全く違う感じの語句になってしまう。
 挙句に、こともあろうに県知事が国連で少数民族宣言のようなことを発表し、若い学生にその間違いを指摘され、大恥をかくなんてことも起こる。

 「ちゅら」は「清(ちゅ)ら」であって「美ら」ではない。
 「うみんちゅ」は「海の衆」であって「海人」ではない。(「海人」は「あま」です。)
 同じく「しまんちゅ」は「島(陸おか)の衆」。
 「めんそーれ」は「参り候え」。だから「お出で下さい」
 「ウタキ」は「おたけ」だから、御嵩(おんたけ)→御岳(おんたけ)→御嶽(おんたけ・みたけ)=おたけ・うたき
 「サバニ」はおそらく「小舟(さぶね)」で「丸木舟」ではない。
 「ハイフニ」は「早舟」もしくは「速舟」。
 ついでながら、「エイサーの原型は江戸初期に伝わった念仏踊り」という一文がありました。成る程、念仏踊りは田楽がもとにある筈だから、鉦や太鼓を身に着けて踊るのは基本の形。それが段々に勇壮な踊りになっていくのはどこでも、祭りの常態です。
 見た目には、小さな太鼓を持って(身に着けて)、シナ風の服装に脚絆までつけて、という風のものが多いので、何となく大陸渡りのもののような印象を持ちますが、古い伝承を守っているところでは服装も振りも地味なものです。時代が下るにつれて派手になる。念仏踊りがもとになっている、と言われて腑に落ちました。

 もう一つ、ついでのついでですが。
 ネットで見ると「尚」王の「尚」というのは、訓読みにすると「なお」。これは南北朝期以後、南朝方だった鳥取の名和氏が沖縄に行き、尚氏を名乗った、という説もあるのだとか。
 名和氏の家紋に能く似たものがある、とも。
 いずれにしても沖縄の人々が、昔々、シナに強い憧れを抱いていたということは事実でしょう。
 しかし、だからと言ってシナ風の名字や名前にはしていない、というところも見詰めるべきじゃないでしょうか。
 半島の隣国は「唐」に支配されたときは漢風に一字姓、「元」に支配された時はモンゴル風に、とその時々で名前はおろか名字まで変えています。
 強制されたからではない。願って変えている。(日韓併合時の創氏改名もそうでした。だから
両班の多くは改名をしていません)

 沖縄の名前の付け方は奈良時代のままです。

 
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