CubとSRと

ただの日記

切り捨てられるか

2020年01月29日 | 重箱の隅
2010.02/15 (Mon)

 「刀の話」、じゃありませんよ。
 生き方の話です。

 たとえば、何か「新しい道具」を手に入れて、使い勝手が良いから、と愛用していたとします。当然使い込むうちに、段々くたびれてきます。そうなった時、どうするか。
 安価で、いつでも入手できる代わりのものが既にある、となれば、ほとんどの場合惜しげもなく捨ててしまいます。切り捨てる。
 そうでない場合。
 安価ではない、なかなか手に入らない、代わりのものがない、などの時は修理したり、辛抱したりして使います。
 ごく当たり前のことです。何をいまさら、と思われるような質問でした。
 
 さて、本題なのですが、「新しい道具」でなく「新しい考え方」「新しい物の見方」なら、どうでしょうか?

 江戸時代、蘭学から洋学に間口が広くなるにつれて、西洋の学問は随分日本に入ってきました。
 しかし、明治政府の開化主義は、輸入、といった言葉では間に合わない、大変な勢いでの学問の流入を惹き起こしました。
 西欧の学問が日本を席捲してしまったのです。当時、日本人には目に見える全ての物が日本のものより優れている、と見えたのです。
 ところが、「全て西洋のものが日本古来のものより優れている」、となった時、日本人は必死になって踏みとどまり、「日本」を、「日本人であること」を守りました。
 それが、福澤諭吉の言う「瘦せ我慢」であり、当時の知識人の言う「和魂洋才」でした。
 以前にも書きましたが、「和魂洋才」というのは「日本人の心」と「西洋人の技術」という、対等、または「心の方が上」、みたいな気楽なことを言っているのではありません。
 99パーセント負けている。とても勝負にならない。けど、「心のレベルは見えない」から上下は判定出来ない。

 「心は日本の方が上だ。上に決まっている(根拠のない確信。思い込み)」。 
 この、僅か1パーセントの、信仰にも似た「心は勝っている」が、本当の意味で日本人を意識させ、日本を世界に知らしめた原動力になっているのでしょう。新渡戸稲造の「武士道」もこれと無関係ではありません。
 日本人の、日常のちょっとした仕種や行動、物の感じ方、考え方に欧米人が感心する。誉められることも多々ある。西欧人の認める、我々のよさ(内面の優秀性)はどこに依拠するのか、と考えた新渡戸は、それが武士の生き方にあるのではないか、と考えました。
 武士は総人口の一割程度ながら、他の、農、工、商人は武士の生き方を大なり小なり見習うべきものとしていました。

 明治時代。開化主義で西欧化の道を突っ走った日本は、しかし、「和魂洋才」という思い込み、「瘦せ我慢」という武士的な意地っ張りで以て、日本、そして日本人であることを守り抜きました。
 「感じ方、考え方」は流入しなかったから、辛うじてうまくいったのかもしれません。つまり、日本古来の物を「切り捨てなかった」。

 問題は敗戦後の日本です。
 徹底的な調査をした占領軍は、とにかく、日本を精神面から変えようとします。
 ①神道指令を発して、「信教の自由」の名の下に、神道を他のものと同一視して宗教の枠に閉じ込め、国家の形を変える。
 (この先には皇室をなくし、国体そのものとされた天皇の退位、廃絶をしようという考えがあるのは言うまでもないことです。)
 ②憲法を変え、二度と戦争を起させないようにした。
 (「諸国民の公正と信義に信頼して我らの安全と生存を保持しようと決意した」、と憲法の前文にあります。日本人の命は世界に預けました、と言っているわけです)
 ③これまでの国家の精神的支柱となった考え、肯定的だった考えを否定、廃棄する。
 (学術書を中心とする、思想関係書籍の焚書。武道の禁止)

 これらは新しい「感じ方」「考え方」です。明治時代の、あの「残り1パーセント」を変えるようにと命令されたのです。
 ほぼ無条件の降伏をした日本は受け容れるしかなかった。
 拒否、保留などという選択肢は初めからなかった。
 《自国の歴史を否定的に捉え、これまでの国家の形を否定し、国民主権といいながら、肝腎の命は世界に預ける。》

 新しい感じ方、考え方は矛盾に満ちています。
 その感じ方、考え方、でもって60年。
 生まれた時から矛盾に満ちた考え方の中で育ったのは、今問題になっている「団塊の世代」ではありません。「団塊ジュニアの世代」です。
 70年代以降に生まれ育った者は「矛盾している」とさえ気がつかない世代です。

 ①神道指令も②日本国憲法も③思想関係書籍の焚書等、も、無条件降伏後の占領統治下で強制されたことです。拒否はできなかった。

 しかし、7年の長期にわたる占領から、我が国は再び独立したのです。
 何事も他国から命令されたり、強制されたりしない国を「独立国」といいますから、上記の①②③は、その時点で無効になります。
 「日本国憲法は無効である」という一方の見解は、ここが論拠です。(いや、結局は国会で決めたのだから有効である、というのが現在の主流ですが。)

 「団塊の世代」は、「戦前の家庭教育と戦後の学校教育」という二つの教育の中で育ちます。つまり、二つの感じ方、考え方を自分の中で受け容れていかねばなりません。何を信じたらいいのか分からない。だから、まず疑ってかかる。
 しかし「団塊ジュニアの世代」は、占領統治時、GHQによる社会主義容認政策の下、一気に広がった日教組教育を受けた団塊の世代が親、なわけですから、家庭教育、学校教育、共に戦後のものです。新しい感じ方、考え方を、矛盾とも思わず受け容れる。

 見ようとしても見ることのできない、この矛盾に充ちた「新しい感じ方」「新しい考え方」。
 我々はこれを、切り捨てなければならないのですが。
 切り捨てることができるでしょうか。
 「矛盾に満ちた感じ方、考え方」を、核心から掴もうと努力しているでしょうか。

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刀つながりで

2020年01月29日 | 重箱の隅
2010.02/14 (Sun)
 今回は刀法ではなく、刀を主体とした戦いの話です。
 刀を主体とした戦いは、ありそうで、実際にはほとんどないのだそうです。
 「戦さとして」、の場合、それなりの準備をして来るわけですから、もっと使いやすい、もっと有利な武器を、となるのが当然です。
 そうなると、狭い空間(室内も含む)では、刀より刺突に便利な手槍か、振り上げる動作が小さくて済む長巻を用意するものです。
 また、広い空間ならば、大薙刀、二間槍等が最適です。横一列に並んで穂先を揃え、てんでばらばらに打ち振りながら前進して来られたら手も足も出ません。
 「鎧を着ているから大丈夫」なんて考えてたら、命が幾つあっても足りません。「槍は打て。刀は突け」といいます。刀はさておき、二間もある槍の重さは相当なものです。其れで叩かれたらどれくらいの衝撃があるか。兜を打たれれば脳震盪を起こし、身体を打たれれば骨が砕けます。

 突発的な戦いなら、持ち合わせの武器が刀しかないのだから、刀での切りあいになります。しかし、これとて、乱戦。ちゃんとした戦術はなくただ、相手を殲滅するために行動するだけです。

 刀を主体にした戦い。有名なものは明治時代になってから、です。
 明治十年。刀同士の戦いがありました。
 歴史に詳しい人ならひらめいたでしょう。士族最後、最大の反乱「西南戦争」です。
 
 明治6年。遣韓問題(通称「征韓論」)を理由とする政争に敗れ、参議の職を辞して鹿児島に帰っていた西郷隆盛の開いた私学校の生徒が暴発、起った戦争です。

 この戦争が、不可思議なことの多い(謎の多い)戦争だったことは、またの機会に書くとして、とにかく刀を用いた(局地戦ではあるけれど)集団戦を何度か展開したものであることは間違いありません。

 ほとんど着のみ着のままで、鎧もつけず、ひどいのは着流しに尻を端折って、家伝の刀を腰に(良くて火縄銃を持っている)集まってきた、急編成の西郷軍。中心になる私学校兵も似たようなものです。
 ただ、ほぼ全員が士族で、刀の扱いには慣れています。
 更に、西郷軍の多くは島津藩士。それも下級武士がほとんどで、相当な人数が薬丸派(薬丸自顕流、野太刀自顕流)という示現流の分派の剣術の遣い手です。

 対する政府軍はというと、施行されたばかりの徴兵令で集められた農民が大半の兵。装備は整っていても士族とは気持ちが違います。
 銃砲弾薬の乏しい西郷軍は、刀だけが頼りですから、抜き連れて政府軍に何度も吶喊の声をあげて襲い掛かります。銃を持っている政府軍が三人がかりで、一人を倒せれば良い方だったと言いますから、よほどのことだったのでしょう。
 西郷軍の突撃に総崩れになるばかりの政府軍は、ここで、銃でなく刀で対抗する作戦に出ます。「抜刀隊」の結成です。効果は大きく、政府軍が勢力を立て直しはじめたため、第二次、三次と新たに増員して結成されます。
 
 双方、これによる損害は大きく、徐々に西郷軍は後退を始めます。
 
 この抜刀隊は警視庁の巡査が多く、中には会津藩士だった者も居て、切り込みの際に「戊辰のかたき!」と叫びながら切り込んだ、という話が残っています。
 ここから、会津と薩摩の遺恨仕合のようにとられることがありますが、巡査の多くは元島津藩士。西郷軍も島津藩士。
 薬丸派の遣い手同士が、独得の天を突き刺すように剣を高くかかげた「トンボ」という形をとって、敵と目する、(おそらくは同門、顔見知りであろう)相手に殺到していく様は、すさまじい同士討ちにしか見えなかったのではないでしょうか。

 明らかに刀同士の戦いというもので、規模の大きかったものは、これが最初で最後だったと思います。

 最も攻撃的な剣術が、同じ門人同士が、敵味方となって戦う。
 刀の殺傷能力を、最大限に発揮して戦った結果、「武士の魂」としての刀は、実用の武器として存在するということを、政府は大きな代償を支払って学んだことになる、のでしょうか。



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連想力≠考え方

2020年01月29日 | 重箱の隅
本居宣長に絡んでどこかで日記を書いていたはずだが、と調べてみたら、こんなのを書いていました。
 ・・・・・・・・・・・・・・・
2013.04/19 (Fri)

 「筋肉より思想がムキムキな男」。男性ラッパーPSY(サイ)の韓国語の大ヒット曲「江南(カンナム)スタイル」の一節である。いささかとっぴな連想ではあるが、日本維新の会共同代表の石原慎太郎氏を思い起こす
▼日本国憲法を否定し、廃棄せよ。日本は強力な軍事国家になるべし。核武装の議論も選択肢だ――。こわもてな主張がムキムキな感じを人に与える。暴走老人とは自称どころか、自他ともに許すところだ
▼きのう、2カ月ぶりに国会の論戦に登場した。安倍首相との党首討論である。遠慮会釈のないもの言いは相変わらず。憲法を論じ矛先を公明党に向けた。首相にあえて忠告するとしていわく「公明党は必ずあなた方の足手まといになりますな」
▼場内から「無礼だろ」とヤジが飛んでも、「本当のことを言ってんだ」と譲らない。傲岸不遜(ごうがんふそん)を基調としつつ、なんとはなしの愛嬌(あいきょう)も漂わせるのが石原スタイルなのだろう。標的にされた公明党の山口那津男代表が、苦笑いしていた
▼落語家の故立川談志と交友が深かった。一昨年12月のお別れの会で弔辞を捧げた。最後にひと言、「あばよ」。そして調子を変えて、「さよなら、談志師匠」。弟子の立川談四楼さんが「シビれた」と書いている(『談志が死んだ』)
▼自民党の高村正彦副総裁は「私は石原さんを政治家とは思っていない」と語っている。政治家なら、あんな乱暴な憲法論は言わない、彼は芸術家なのだ、という趣旨だろう。なるほどと納得するが、困ったことでもある。

2013年 4月18日 朝日新聞              
     「天声人語」 より

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 きっと学生の頃、だったと思う。講義のどこかで聞いたのだろう。
 頭が悪いから、肝腎のことは聞かず(聞けず?)、居眠りの間に耳に届いた僅かなことだけが、数十年経った今でも何かの拍子に出てくることがある。

 そんな中の一つが本居宣長のことだ。
 先生の仰ったことは、「本居宣長は別段優秀な人ではない」、という事だった。
 「取り立てて独創的な説を唱えたというわけではないし、塙保己一(はなわほきいち)のような大変な仕事を成し遂げたわけでもないんです」
 確かにそう聞いた。
 で、それに続けて「ただ・・」、と。

 「ただ、凡庸な説でも、独創的な説でも、普通は一つ上げるものです。多くて二つか三つ挙げればいい方なんだけれど、宣長は『こうも考えられるけど、こんな風にも考えられる』、と短時間にいくつもの説を挙げてみせる。みんな凡庸な説だけれど、他に誰もそんなことをした者は居なかった」

 それのどこがすごいんだろう。
 でも、国学と言えば「本居宣長」という言葉が出てくる。
 その理由は
 「独創的な説を立てた」わけでもなければ、
 「大仕事をした」わけでもないらしいから、この二つではない。だろう。
 では、「凡庸な説をいくつも挙げた」ことなんだろうか。
 どうもそれ以外に答えが見つからない。
 で、ずっと後になって何となく分かったような気がし始めた。
 やはり答えは、「凡庸な説をいくつも挙げた」ところにある。

 「そんなもの、凡庸なら役に立たないだろう?」
 ですよね。
 実際、役には立たない。
 どころか宣長の説は間違っていることが結構あるらしい。
 で、また、元に戻るんだけれど、それでも、
 「国学と言えば本居宣長。不滅の巨人」
 であることに変わりはない。

 見落としていたことがあった。
 それは「凡庸な説」という言葉の、「凡庸」に隠れてしまう、「説」という言葉だ。
 「説」というのは「こんな風に『考えられる』」、つまり、「考え方」ということだ。
 「考え方」ってのは一人の人間ごとにつくり上げられているものなんだから、それが幾通りにもできる、という事は何人分もの頭脳があるのと同じ。そうやって挙げられた凡庸な説をきっかけに新しい、独創的な説が生まれてくる。

 凡庸であろうがなんであろうが、いくつもの考え方でそれなりの意見を挙げることができる人ってそうそうはいないだろう。
 そう考えたら、宣長自身は大したことはできていなくとも、彼のおかげで国学は大発展をしたと言えるわけだから、やっぱり宣長は「国学の巨人」、なわけだ。


 何でこんなことを長々と書いているか?
 勿論、「天声人語」があまりにも面白いからだ。天声人語子の文章があまりにも素晴らしいからだ。
 彼の文には「説」がない。「説く」べき「考え」がない。
 あるのは「連想力」と「思い込み」による「決めつけ」だ。

 江南スタイルから石原氏の強固な思想を連想し、「否定し、廃棄せよ」「強力な軍事国家になるべし。核武装の議論も選択肢」と続けて「あれ?おかしいな」とならない。否定したら終わりだろう。廃棄と同義ではないのか。軍事国家になるのなら、核武装は議論の余地なし。なんで「選択肢」があるのか。

 「無礼だろ」という野次の方が無礼なことには一言も言及しないのも面白い。「足を引っ張る(足手まといになる)というのは、それだけの力、影響力を持っているという事を認めるが故の一言だが、「無礼だろ」には考えの違いがあるのに影響力はない、と見切っている態度が透けて見える。
 山口代表の苦笑いには石原代表の、公明党をそれなりに意識していることへの安堵感があったのではないのか。
 だから、石原氏の物言いには愛嬌があるのだ。

 そして、最後の高村副総裁の言の見事なくらいの牽強付会ぶり。

 「芸術家なのだ~なるほどと納得するが、困ったことでもある。」
 芸術家だと納得するけれど、あんな乱暴な憲法論を政治家としてやってもらったら困ったことだ。
 困るも困らないも、「決めつける」のは一体誰の「権利」だと思っているんだろう。まさか朝日新聞じゃないだろう。

 言うまでもなく、これは国民の権利。百歩譲って国会の権利。
 連想ゲームで考えを説いたつもりになっているマスメディアのきめつけることではない。
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刀のこと 2

2020年01月29日 | 重箱の隅
2010.02/12 (Fri)

 続きです。
 と。操刀法に入る前に。

 ①刀の強度は?
 切っ先も含めて、刃の部分は焼入れがしてありますから硬く、脆くなっています。その分、よく切れるわけです。反対に、刃以外のところには焼入れがしてないので、硬度は低く、その分粘りがあり、又、厚く作ってあります。結果、「切れるイコール硬くて脆い」「柔らかで粘りがあるイコール折れない」という鉄の性質を克服した「折れず、曲がらず、能く切れる」という日本刀になります、理屈上は。強度は刀身全体で均一、という訳ではないということです。

 ②メインウェポン(主武器)か否か
 本来、武士の表芸は「弓馬の道」という言葉があるように、合戦を想定した時の弓術と馬術でした。特に、弓は古来より魔を祓うものとして尊ばれて来ました。
 鎌倉時代はさらに進んで、馬上での戦いのために「長物」、と呼ばれる槍、薙刀が重用されるようになります。南北朝期、大野太刀も流行したようです。 
 2尺4、5寸が定寸とされたのは江戸時代だけだったそうで、「帯刀」の言葉通り、武士が身に帯びるのは「打ち刀」。普段はそれを抜けないように鞘止めをする。
 主たる武器であった時代は、実際にはなかったと思われます。
 合戦の場では、一対一の刀法はあまり有利ではないからです。

 ③ステイタス(地位、権威)を表わすもの?
 室町期より、大名、土豪は言うに及ばず、彼等の家臣も、武士としての礼儀作法を守るように、という考えが広まっていきます。
 そんな中で、平時の所作と併せ、武士の証として刀を携行することが一般的になって行きます。打ち刀は扱い易いので、この頃から主流になっていきました。

 ④反りの意味
 切る物に対し、刃を平行に当てるより、斜めに(手元を低く)する方がよく切れます。引き切りになるからです。反りがあるのは、そのためです。
 中国刀(単刀)や、ペルシャの偃月刀(三日月刀)が研ぎの割によく切れるのはそのためです。

 ⑤何故、長い?
 手元より切っ先の方が移動距離が長くなるわけですから、斬撃力が増すということになります。

 ⑥ヒョイヒョイと振る(もっと重厚なのでは?)
 「重い刀を軽く」「軽い刀を重く」は刀法の基本です。1キロ前後の刀でも、実際に思い通りに振るとなると、腕力だけではどうもなりません。
 できるだけ軽くして振り上げ、打つ時はできるだけ重く当てる。
これを実際にやると、端から見れば「本気でやってんの?」というくらい、遊んでいるように見えます。

 刀は常に帯行するもの、となって、武士の心持ち、心掛けを持主に問いかけ続けるのが仕事になったようです。
 単純に武器としてなら、長物に利がありますが、武士にとっては常に帯行する刀こそが武士の心をつくる一番の武器だったのではないでしょうか。
 幕末の軍学者平山行蔵(子竜)は「刀を抜き、眼前に立て、敵もこれを持ち来たるよと思ひてひたと見るべし」と心の持ち様を説いています。

 さて、大発明の話です。
 両手刀法というのは、一体どこがすごいのか。
 刀は基本、切るのが目的の武器です。
 そのためには①常に振り回すか②振り上げておいて振り下ろすか
のどちらかを選ばなければなりませんが、①は疲れる。
 で、②です。
 「できるだけ軽く(楽に)振り上げ、速く振り下ろす。」
 これをめざします。しかし、今度は、速く振り下ろした刀を一瞬で停止させねばなりません。新しい矛盾ができます。

 両手刀法は、両手の働きを、実にうまく分担、協力させていく技術です。
 「手の内(手の裡)」という言葉は、剣術の口伝である、この技術を表わす言葉です。「表面には出てこないけれども確かにあるもの」として、世間一般に使われています。
 「手の内」は一つではありません。流派によって少しずつ違う筈です。
 しかし、大きく三つほどには分けられそうです。

 まず、陰流系の場合。
 この系統は、親指と人差し指で作った輪を支点として刀を持ちます。
 振り上げる時は、刀でなく手を振り上げます。結果として柄が頭上に来た時、切っ先は背中に残る。刀を担いだ形になります。
 ただ付いて行った左手と、支点となった右手を同時に握ると、背中にあった切っ先は頭上に跳ね上がります。
 跳ね上がった力が、今度は刀を前に押し出そうとしますから、抵抗せず、両腕を振り下ろします。
 この形が徹底された駒川改心流の剣捌きは一見の価値があります。

 次は一刀流系。
 比較的新しい(とは言え、戦国末期)流儀ですが、「切り落し」という技法は、この流儀の手の内と密接な関わりがあります。
 中段に置いた刀の柄を、左手の小指から順に握りこんで行くと、結果として僅かに左手首を下に押すことになり、切っ先が浮きます。
 その浮いて行く動きに合わせて両手を絞り込み、切っ先を上に向けます。
 中段の時には地面とほぼ平行だった刀が、この時には一番軽いわけです。ここで刀を振り上げれば、力は要りません。
 振り下ろす時には、切っ先に重心があるものと意識して、相手の頭上に移動させることを目的にします。手は緩めません。
 これもまた、楽に振り上げ重く速く打つ手段です。

 最後が神道流系のものです。
 これは太刀を回す陰流系や刀の重さを変える一刀流系とは違って、もっと古い技術です。手首をうまく遣うのが両流ですが、神道流系は体幹を根本として刀を遣うので、前の二系に比べ、手の内は見えにくくなっています。

 おおまかに書きましたが、剣道をやっている人からすれば常識のことと思います。
 普段の稽古で行なわれる切り返しは、現在、ほとんどが、一刀流系、陰流系の折衷形です。
 
 両手刀法は、体術の延長として遣われる片手刀法とは違った発達を日本の剣術に強いたことになります。
 ちょっと思い出してみると。
 水滸伝、西遊記、等の小説に出てくる戦いの場では、実力が伯仲していると「数十合しても決着がつかない」といった表現がよく出てきます。あれが、体術の延長の武芸です。
 しかし、それとは微妙に違った体捌きに乗った、手の内を別に持っている剣術の場合、実力が伯仲していても、一合で決着が付くことがあるのです。正に、時代劇の剣豪同士の果し合いのように。

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刀のこと

2020年01月29日 | 重箱の隅
2010.02/11 (Thu)

 前回、百人斬りのことを、例によって、あちこちふらつきながら書いていましたが、ちょっと大まかに標題のことについて書いて見ます。
 先に言っておきますが、どこに行ってしまうか分かりません。あらかじめ御容赦下さい。

 刀の種類って、色々あるんです。そのため、遣い方も似ているようで違うし、破壊力も、殺傷の形も違います。

 まあ、あんまり昔の、剣に似た直刀の片刃刀や、るろうに剣心の逆刃刀なんてのはカットします。

 初めに「太刀(たち)」と「打刀(うちがたな)」の違いを書きます。

 平安時代の武官や、戦国期の鎧武者が、紐で腰に提げているのが「太刀」です。これを太刀を佩(は)く、「佩刀(はいとう)」と言います。
 左手で鞘を握り、固定しないと刀を抜けません。柄(つか)は短く、棟側に大きく反っています。振った勢いで刀を取り落とすことがないようにするためですが、その分、切っ先が対象に届きにくくなるため、柄の反り具合とは逆に切っ先はかぶせ気味になっているように見えます。

 いずれにせよ片手刀法であるため、体の捌き方と刀法は直結し、馬上は言うまでもなく、地面に足を着けての戦いでも、あまり強力な武器とは言えませんでした。
 ただし、名刀と言われる、姿の良い、切れ味の鋭いものは、平安、鎌倉期の、太刀が多いようです。

 「太刀」に対して、室町期以降の武士が、平時、腰の帯に差していたのが「打ち刀」で、一般に「刀」と呼ばれるのは、こちらです。
 帯に差す、帯するので、「帯刀」と言います。
 刃を上に向けて腰に差すため、柄が太刀のように反っていると邪魔です。また、直接腰に差している訳ですから、歩く時、左右に振れて結構歩きにくいものです。(試してみればすぐ納得!)
 そのため、柄反りは小さくなり、刀身とのバランスもあって、柄も長くなりました。
 柄反りが小さくなり、また、長くなった結果、切っ先は太刀のようにかぶせ気味にする必要はなくなります。
 長くなった柄を両手で持つようになったことで、日本独自の両手刀法が生まれました。これは画期的なことです。大発明と言ってもいいでしょう。
 ヨーロッパの、剣を両手で持って戦う場面を、映画などで見られたかもしれませんが、正直、刀法と言えるほどのものではありません。「両手で持たないと重くて辛抱できないから」、程度から向上はしていません。

 「太刀打ち」という言葉は推論ですが、「太刀で打ち合う」のではなく「太刀や打ち刀による争闘」を意味するのではないでしょうか。
 また、「太刀」は「断つ」「截つ」、切り分けるの意味から来ており、
「打ち刀」は「打つ」、ぶつけるようにして遣う刀の意味でしょう。
 「打ち刀」の方が武器として、より実用的になった代わりに、太刀の持つ霊的な力を弱めてしまっているのは、間違いありません。
(「太刀」という名前には布津主神(経津主神)の発動があります)

 
 打ち刀の利便性の高さは、鎌倉時代末期には打ち刀の方が主になっていることでも分りますが、何よりもの証拠は、色々な種類の打ち刀がつくられたことにあります。
 「反りの少ない柄は両手刀法を生んだ」と書きましたが、柄を長くすれば(両の握り間をあければ)少々重い刀でも、つまり、非力でも刀を遣えます。
 重い刀でも遣えるのなら寸延びの刀でも遣えるということになり、刀身が長くなります。
 刃渡り二尺四寸(約72センチ)ほどの刀が、どんどん長くなっていきます。最大の刃渡りは四尺余りにまでなりますが、それに比例して柄も長くなります。柄も四尺余りです。
 戦さには小者に肩に担いで持って行かせ、戦場で自分が刀身だけ抜いて遣う。これを「大太刀」「大野太刀」「背負い太刀」などと言います。
 勿論、前述の「太刀拵え」ではありません。
 叩く様に遣ったり、脚払い(馬の脚)、刺突(しとつ)など、単純な技ながら剛強で、便利な武器だったようです。

 大野太刀は強力ではありましたが、何しろ、デカイ。
 それよりも、大薙刀(おおなぎなた)と打ち刀の間くらいのものはないか。
 それで、刀と薙刀の柄を合わせたような、長巻というのが作られました。

 薙刀のように振り回して遣うには刀身が長すぎる。かと言って、背負い太刀ほどの破壊力は、ない。しかし、これは密集したところでも、ちょっと気をつければ室内でも、随分と有利な武器です。
 実際、赤穂浪士の吉良邸討ち入りの際には多くの隊士が柄を換え、長巻様にしていたと言います。

 もう一つ、特殊な物として「斬馬刀」があります。
 形態は色々のようですが実際に見た物では柄二尺、刀身五尺以上という、刀をそのまま拡大したようなのがありました。
 こんな物、持ち上げられるんだろうかと思うくらいのとんでもないシロモノですが実際持ち主は大力無双。これを戦場で振回していたそうです。
 残念ながら、薙刀の名手に討ち取られたそうですが。熱田神宮の宝物殿に入った、正面に展示してあります。

 基本は打ち刀ながら、そして、両手刀法は同じながら、「背負い太刀」、「長巻」、「打ち刀」は使用法も技術面でも、相応に違いがあります。

 しかし、日本刀法の真髄は、やはり、定寸の打ち刀による操刀法にあります。
 振り上げて振り下ろすという単純な動作の中にある大発明を書こうと思いましたが、それは次回に。


 
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