CubとSRと

ただの日記

メッシュグローブで。

2020年01月14日 | バイク 車 ツーリング

 先日、日帰りツーリングに行ってきた。
 「五月の連休明け、人出も落ち着いた頃に」と思ってから、五ヶ月も経っていた。

 勤めていた頃は、毎日通勤にバイクを使っていた。それなのに飽きもせず、休日、それも連休ともなれば月初めから休みが待ち遠しくて仕方がなかった。

 仕事を辞めて八年。すっかり一人になって二年。
 だから本当なら「ツーリングし放題!」の筈なのに「暇はあるけど金はない」という典型的な隠居暮らし。泊まり掛けは言うまでもない、一日かけての遊興三昧(?)ツーリングは、もはや無理。
 でも、やっぱり日帰りでもいいから、たまには二十年近く行動を共にしてきた相棒に乗って、出てみたい。
 今は二輪、四輪、共にあるのだから、両方、それぞれ旅の足にしてみたい(現実、四輪は買い物の足のみ、に定着しているけれど)。

 というわけで、やっとのこと、日本海を見てきた。
 しかし何度も行っているところだし、特に目新しいことがあったわけでもない。出石(いずし)で蕎麦を食べ、但馬海岸道路を半分だけ走り、台風の後のひどい波飛沫に呆れ、帰りはいつもの通り(?)、道を間違えて、という既定路線(規定路線?)。

 目新しいことはなくても構わない。季節ごとの景色や空気の違いを感じることが楽しみの大半を占めているんだな、と毎回、思う。五月に行けば、五月の風。十月に行けば、十月の風。

 「五ヶ月も遅れた」と書いたけど、そうしてみると「遅れた」のではなく、行けなかった「五月のツーリング」。
 今回は「十月のツーリング」。五月は行けなかったけど、十月は行けた。それだけのことか。

 台風が立て続けに来て、なかなか秋の気配を感じにくい九月、だった。
 それがいきなり物寂しい風に変わった。ずっと先に進んでいる季節に気分が追い付かない。

 今回一番の失敗。
 レザーメッシュ(パンチングレザー)のグローブで出たこと。
 ガレージにメッシュのグローブしか置いてなかった。普通のグローブは六月から家の中で休憩している。
 パンチングメッシュのレザーグローブというのは気の毒なやつだ。夏の暑いときには化繊のメッシュと違って「ちっとも涼しくないな」と文句を言われる。
 そのくせ、ちょっと涼しくなると気付かず使われなくなり、手入れもされずにほったらかされ、年を越す。
 「涼しくない」ということはちょうどいい、ということなのに、ちっとも感謝されない。
 
 そのグローブで「ま、いいか」と思って走り出す。数百メートル走って、選択ミスに気づき、後悔する。
 後悔したんなら戻りゃいいのに、気分は盛り上がっているから、このままでも行けそうな気が勝る。取り換えに家の中に入るのが面倒くさいという気持ちと、久々のツーリングで盛り上がっている気分が手を組んで、「疲れるかも」という不安と綱引きを始める。そしてあっという間に勝敗が決定する。
 「何とかなるだろう」。「ケンチャナヨー」、だ。

 実際、走りはじめや他のことを思っているうちは何とかなる。けど、日陰を走ったり、変化のない道を通ったり、夕暮れ時に近付いたり、となった時、手の甲から伝わってくる冷えが後ろ向きの気持ちを呼び覚ます。
 「手放したバイクの方が良かったかなぁ~」
 「瀬戸内の方が良かったかな。好き好んで何もない日本海に行かずとも」
 「もっと早く出てたら、余裕で帰れたのに」
 随分と身勝手だ。
 「このSRで稚内から坊津まで行ったんだよな」
 「寒くなる前の日本海は瀬戸内海とは全然違う」
 「早く出てたら厚着してるから、昼は汗だくになってたな」

 グローブの選択ミス。たったこれだけのことで、ちょっと状況が悪くなればすぐ後ろ向きになる。
 これ、以前に書いた「黴の臭いのせいで日記が書けない」というのと同じ理屈かもしれない。

 で、思った。
 「グローブ、間違ってなかったら、どうだったろう」
 「黴臭くなければ、本当に日記を書けたろうか」


 さて・・・・?
 

2016.10/12
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割り切る時

2020年01月14日 | バイク 車 ツーリング
 「独居老人で金がない」と言いながら、昨日、年金を下した勢いで、「月刊Hanada」だけを買うつもりが、つい「outrider」の最新刊まで買ってしまった。

 5年以上バイク雑誌を買ってなかった。
 それが今回、欲望に負けて買ってしまったのは、ツーリング紀行文の秀作を文庫本の体裁にして付録にしてあったからだ。
 雑誌そのものがビニール包装されているので、中を見ることができない。文字通りのビニ本?(違うわ!)。
 
 夕食を摂った後、厳重な包装を開けてみると、七名のライターの紀行文がまとめられていた。
 それぞれの生年を見て感慨深いものがあった。1950年代前半生まれの自分からすると、60年代はともかく70年代終わりのライターは下手すりゃ子供の年齢だ。
 そんな年齢の人の文章を読んで、でも深く頷いてしまう。やっぱり同じ感覚で書かれているのを感じるからだろう。
 バイクについて、とかツーリングについて、とかいう具体的なことや種々の知識のことではない。「バイク」、「ツーリング」を通して彼らが感じていることが60過ぎた自分にも、今でも同じくある、からだ。

 車に乗るようになって、最近、ネットで「車速報」、「くるまちゃんねる」、更にはテレビで松任谷正隆の「カーグラフィックTV」などを見るようになったのだが、車に乗るようになって日が浅い(まだ5年足らず)せいもあるだろうけど、もう一つ身近に感じられない。
 「数百万どころか時には数千万円の車を紹介されているわけだから親近感なんか持てない」のかもしれない。
 「いやいや、同じ車といってもあまりにも住む世界が違うから」、と思ってみたりもするが、何だか皮膚感覚に迫ってこない。
 車を通して得るものとバイクを通して得るものは、何だか全く違うらしい。

 車好きの人はそんなことはないのだろうが、大方のドライバーにとって車での移動は「手段」だ。
 けれど、バイクに乗る人にとってのバイクでの移動は、それ自体が「主目的」だ。それどころか目的地はただの付属物(ついでの目的)だったりする。
 移動自体が目的だから、手抜きをしたり、ボンヤリと上の空で走ったり、などということは、まず、ない。常に「目的の中」にいるから、当然、脱線なんかしないし、何より「いつも目的に向かっている」。寄り道したって道草食ったって「目的の中」だ。目的を見詰めている。目的地へ至るための「手段」という意識は、ほとんどない。
 だから、あまり「移動」に快適性(楽)を求めない。快適性から言えばバイクは車の足元にも及ばないのだから。

 そうなると、「目的地」にも快適性を求めない。辛口の「評価」をしない、となりそうだ。「移動」を「手段」と割り切る車なら、「移動中の快適さ」が必ず目的地評価の物差しとなってしまう。

 そうしてみると「移動」の「手段」と割り切った時、人はバイクに乗らなくなるのだろう。諸事情から、そう割り切らざるを得なくなった時、「楽しさ」とともに失うものは何だろうか。

 ネットから様々な情報を手に入れることで自らの頭を整理する。
 それに対して、書店で立ち読みしたり図書館に通ったり、街中で行きかう人の表情や話し声から手に入れる、偏ってはいるけれど手応えのある思考。
 後者もまた、「眼高手低」の一例かもしれない。


2016.09/04
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「逃げないオレってカッコいい!(ホントは逃げられないだけなんだけど)」

2020年01月14日 | バイク 車 ツーリング
 明石海峡大橋までの日帰りツーリング。
 「日帰りツーリング」、ったって10時過ぎに出て12時過ぎには帰宅、という何ともしょぼいツーリング。またショート・ショートツーリングだ。
 お金は一切使わない。でも、行くだけの意味は十二分にある。

 台風一過、と言いたいところだけど、今回の台風はご存知の捩じくれ台風。一旦南に下って大きく発達し、Uターンどころか左巻きに大きく円を描いて東北に上陸する。そのために神戸近辺も台風が通り過ぎたって強い風が吹き続けている。どうも左巻きというやつは性に合わん。

 「台風が過ぎても影響は残り、蒸し暑い一日になります」と予報にあったが、どうも今朝になってみると却って涼しいくらいだ。
 「バイクで行くにはちょっと涼しいかも」、と、これまでTシャツにジャケットだったのが、今夏初めて長袖シャツを着てバイクのジャケットを着る。
 
 車で出掛ける時は、降りた時のことだけ考えればよい。
 バイクで出掛ける時は、乗っている時と降りたときの両方のことを考える。
 ジャケット一枚だって、できることなら持ち歩きたくない。厚手で風を通さない、丈夫なモノを着るから、自然降りた時、前を開けるだけ、になる。
 食事の用意だって洗濯物を畳むのだって、何も考えないで無意識の裡にこなしているのが隠居老人の日常だ。頭を使わないのが平常運転になっている。
 そりゃボケて当たり前だ。

 キックアームに体重を載せ、二度ほど踏み込む。ボタン一つでエンジンのかかる車のことを考えたら、何とも面倒なことをしている。
 体重のかけ方、脚の突っ張り具合。慣れていても他のことに気を取られていい加減に踏むと踏み外して痛い思いをする。
 以前セローでそれをやり、思いっきり向う脛を叩かれた。痛いのなんの。人が見ているから、何食わぬ顔で掛け直し、知らん顔してその場を離れたけれど、あんなやせ我慢は嫌だ。
 ちょうど良い気温の中、走り出す。景色が左右に流れていく。

 テレビなどで、車の中から走っている場面やバイクが走るのを後方から撮っているのを見ることがある。バイクの場合は時折り画面が傾くくらいで、そんなに大きな違いはない。
 ところが実際にそれぞれを運転すると随分違うものだ。車に乗るようになってそれがやっとわかった。

 年齢なんて関係ない。ショーウィンドウの前を通り過ぎる時、バイクライダーはチラ見する。
 「オレ、ってカッコいい??」
 映っている姿はあまりにも理想とのズレがある。ガラスに映っているのはバイクにしがみついている胴長短足オヤジ。
 
 車の場合は、胴長短足の現実は全く見えない。
 そして運転中、ふと思う。
 「ジャズ聞きながら運転しているオレ、ってカッコいい!!」
 時にはポルトガルギター。時にはジュリー・ロンドン。又或る時は南沙織(!)。
 現実を衝きつけてくるショーウィンドウには、ドアしか映ってない。

 ずっと全身が風の中だから、開けていく景色の中にいることを体感し続けていて、時折り現実の己の姿を衝きつけられて、それを受け入れることを強要されて・・・。
 でも逃げてないんだ(バイクが走ってるからだけど)。目を逸らさないんだ(逸らしたら事故起こす)。
 走り出したら寒くって、止まったら暑くって。だけど今回は不思議なくらい気持ちが良かった。

 気持ちが良いまま塩屋の海岸を走り抜け、対向車線でスピード測定やってるのをひやひやしながらも楽しく眺め、着いた明石海峡大橋の近くは、瀬戸内では珍しい大きな波が打ち寄せてきていた。
 時々岸壁にあたって3メートルくらいの波飛沫を上げる。バイクが錆びる!!

 キャップが飛ばされそうな強風と、この波、だ。早々に退散することにする。

 初めに書いた通り、往復二時間ほどのショート・ショートツーリングだった。
 やっぱり現実と向かい合って、逃げちゃ駄目だ。楽をしないで、楽しめるものがあるんなら、楽しまなきゃ。

 やっぱり現実と向かい合わなけりゃ。目を逸らしたって解決しない。


2016.08/31
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