時速50キロ余りを気にしながら、30分ほど走り、
「大丈夫かなあ」
と思いながら自動車道に入る。
流入しても、なかなかスピードが出ない。
アクセル開けて80キロ。集中して、やっと100キロ。
前半で書いたように何だかフレームがヨレるようで、頼りない。
でも、そんな不安な気持ちで乗っていると、これまでのツーリングのことを色々と思い出す。
SRでのツーリングは、いつもアクセル開け気味で80キロ。集中して、やっと100キロだった。
勿論、全開にすれば140キロは今でも出る。
何となくフレームがヨレるような頼りなさだって、今に始まったことじゃない。初めからそうだったのだ。
大型免許を取ったのが2000年。
免許入手と同時にXJR1300に乗り始めたのだけれど、その時、手に入れたばかりのXJRは置いて、北海道にはSRで行った。
フェリーで神戸から鹿児島(志布志)に渡り、用事のなかった一日、枕崎や開聞岳まで行ったこともある。
半年乗ってなくても、いつもキック一発でエンジンがかかり、バイク店の店主も感心していた。
前後左右に撓るような車体が、殆んど回転を上げずとも、しなやかに走りはじめる。
「大丈夫かなあ」
と思いながら自動車道に入る。
流入しても、なかなかスピードが出ない。
アクセル開けて80キロ。集中して、やっと100キロ。
前半で書いたように何だかフレームがヨレるようで、頼りない。
でも、そんな不安な気持ちで乗っていると、これまでのツーリングのことを色々と思い出す。
SRでのツーリングは、いつもアクセル開け気味で80キロ。集中して、やっと100キロだった。
勿論、全開にすれば140キロは今でも出る。
何となくフレームがヨレるような頼りなさだって、今に始まったことじゃない。初めからそうだったのだ。
大型免許を取ったのが2000年。
免許入手と同時にXJR1300に乗り始めたのだけれど、その時、手に入れたばかりのXJRは置いて、北海道にはSRで行った。
フェリーで神戸から鹿児島(志布志)に渡り、用事のなかった一日、枕崎や開聞岳まで行ったこともある。
半年乗ってなくても、いつもキック一発でエンジンがかかり、バイク店の店主も感心していた。
前後左右に撓るような車体が、殆んど回転を上げずとも、しなやかに走りはじめる。
爆発的でも、猛烈でもない。でも、いきなり大股で走り始めて周囲を慌てさせる陸上選手みたいな爽快さがある。本気になった他の選手にすぐ追い越されるんだけれど。
不安だったフレームのヨレるような頼りなさは、高速道の単調な走行の中で、
「そうだ。ツーリングって、いつもこんな感じだったんだ」
という記憶を、感触と共に思い出させはじめた。
不安さが、頼りなさが、SRを信頼する感覚に変わるまでに、二時間くらいかかっただろうか。
S・A、二つに一度は必ず停まる。
振動のせいで指が痺れている。他のバイクでもそれはあるけれど、この痺れが心地良いのはSRだけだ。それも思い出した。
当然のことながら、休憩後、エンジンをかけるためにキックアームを出し、体重を掛けて圧を抜き、改めて踏み込む。一瞬あってエンジンがかかる。
それだけで前向きになる。
「良し!行くぞ」
と思っている。
セルボタンを押す時には考える筈もないことで、どうでも良いようなことだけれど、SRは何だかエンジンがかかっただけでうれしい。
確かにこれは
「昨日の便利は今日の当たり前。今日の当たり前は明日の不便」
、だ。
何もわざわざ前近代的なキックのみの始動法に拘る必要なんか、ない。
軽くてコンパクトなシングルエンジンだ、セルフモーター一個付けたくらいでパフォーマンスに大した影響はあるまい。
そんなことよりも、もっとお洒落にもっと馬力アップを、という事で、SRXができた。カッコ良かった。でも、今はつくってない。
SRは時代遅れだ。初めて生産された時だって、目新しいものは何もなかった。初めからそうなのだから、今はもう化石みたいなものだ。だから、生産は終了した。
けど、またつくっている。望む人がいるからだ。
便利、合理、損得ではない何かが支持されるからだろう。
エンジンがかかったらうれしい。
走り出した時のしなやかさがうれしい。
勢いでニコニコしていたらどんどん進んでいくからうれしい。
何だか何があってもうれしい。
調子に乗ってる時の、前を向いている時の日本人の心情って、案外こんなものなのかもしれない。
馬力もないし、新しさもない。
けど見飽きないのは、「進化」でなく、「深化を続けているから」との惹句の通り、男のスーツよろしく、細部がどんどん精緻になってきているからだ。
日本の職人の技術、精神の粋が、神宮の造営、神宝づくりに表れているように、日本人の生き方の一例がSRにも見られるような気がする。
帰り着いて軒下にSRを停め、センタースタンドを掛けた。
フロントフォークは白く錆が浮き、シミのようになっているが、厚くメッキを施された前後のフェンダーは、数年ぶりのツーリングを終えて、やっぱり輝いている。
不安だったフレームのヨレるような頼りなさは、高速道の単調な走行の中で、
「そうだ。ツーリングって、いつもこんな感じだったんだ」
という記憶を、感触と共に思い出させはじめた。
不安さが、頼りなさが、SRを信頼する感覚に変わるまでに、二時間くらいかかっただろうか。
S・A、二つに一度は必ず停まる。
振動のせいで指が痺れている。他のバイクでもそれはあるけれど、この痺れが心地良いのはSRだけだ。それも思い出した。
当然のことながら、休憩後、エンジンをかけるためにキックアームを出し、体重を掛けて圧を抜き、改めて踏み込む。一瞬あってエンジンがかかる。
それだけで前向きになる。
「良し!行くぞ」
と思っている。
セルボタンを押す時には考える筈もないことで、どうでも良いようなことだけれど、SRは何だかエンジンがかかっただけでうれしい。
確かにこれは
「昨日の便利は今日の当たり前。今日の当たり前は明日の不便」
、だ。
何もわざわざ前近代的なキックのみの始動法に拘る必要なんか、ない。
軽くてコンパクトなシングルエンジンだ、セルフモーター一個付けたくらいでパフォーマンスに大した影響はあるまい。
そんなことよりも、もっとお洒落にもっと馬力アップを、という事で、SRXができた。カッコ良かった。でも、今はつくってない。
SRは時代遅れだ。初めて生産された時だって、目新しいものは何もなかった。初めからそうなのだから、今はもう化石みたいなものだ。だから、生産は終了した。
けど、またつくっている。望む人がいるからだ。
便利、合理、損得ではない何かが支持されるからだろう。
エンジンがかかったらうれしい。
走り出した時のしなやかさがうれしい。
勢いでニコニコしていたらどんどん進んでいくからうれしい。
何だか何があってもうれしい。
調子に乗ってる時の、前を向いている時の日本人の心情って、案外こんなものなのかもしれない。
馬力もないし、新しさもない。
けど見飽きないのは、「進化」でなく、「深化を続けているから」との惹句の通り、男のスーツよろしく、細部がどんどん精緻になってきているからだ。
日本の職人の技術、精神の粋が、神宮の造営、神宝づくりに表れているように、日本人の生き方の一例がSRにも見られるような気がする。
帰り着いて軒下にSRを停め、センタースタンドを掛けた。
フロントフォークは白く錆が浮き、シミのようになっているが、厚くメッキを施された前後のフェンダーは、数年ぶりのツーリングを終えて、やっぱり輝いている。
2013.05/27