「今日は、やめ、やめ!」
と言いながら、雨がやんだら
「行けるかな?」
と希望の灯が点り、空の一角が明るくなると
「今度は何時になるかわからない、そんなことなら、予定を短縮したって行っといた方が良いよな」
、なんて理屈をつけて、じっとしていられなくなる。
芭蕉翁ほどではなくとも、そぞろ神には憑かれてしまっているし、道祖神の招きは半端じゃない。だから、大概の場合は出てしまう。
と言いながら、雨がやんだら
「行けるかな?」
と希望の灯が点り、空の一角が明るくなると
「今度は何時になるかわからない、そんなことなら、予定を短縮したって行っといた方が良いよな」
、なんて理屈をつけて、じっとしていられなくなる。
芭蕉翁ほどではなくとも、そぞろ神には憑かれてしまっているし、道祖神の招きは半端じゃない。だから、大概の場合は出てしまう。
そして、大概は出てしまってから後悔している。
結局一時間遅れの10時過ぎに出発する。
結局一時間遅れの10時過ぎに出発する。
「あ~、もっといい天気の日にすりゃ良かったなぁ~~~っ」
覆水盆に返らず、後悔先に立たず。
後悔しながら、前の車の渋滞にイライラしている。ちっとも「楽」じゃない。
なのに、何だか楽しい。イライラしながら楽しい。
波浪注意報が出ている。そのわりに風は強くない。
・・・・・で。
想像以上に車が多い。
覆水盆に返らず、後悔先に立たず。
後悔しながら、前の車の渋滞にイライラしている。ちっとも「楽」じゃない。
なのに、何だか楽しい。イライラしながら楽しい。
波浪注意報が出ている。そのわりに風は強くない。
・・・・・で。
想像以上に車が多い。
しかし、信号があればそこで先頭に立てるのがバイクの強み。それもソロなら誰に気兼ねも要らない。
自身が事故さえ起こさなけりゃ、横合いから出てくる車に気をつけ、先頭に立てばいい。
まあ、問題は、田舎の一ケタ国道。信号がほとんどないため、先頭に立つチャンスは数えるほどしかないということだけです。運が悪い時は不思議なくらい、列の最後に追いついたら青信号になる。またもや大名行列のしんがり。
出雲大社への道に入った。
しばらくしたら迂回路の表示があった。連休中の故、混雑が予想されるかららしいが、迂回したら、潮風の直撃を受けた。
まあ、問題は、田舎の一ケタ国道。信号がほとんどないため、先頭に立つチャンスは数えるほどしかないということだけです。運が悪い時は不思議なくらい、列の最後に追いついたら青信号になる。またもや大名行列のしんがり。
出雲大社への道に入った。
しばらくしたら迂回路の表示があった。連休中の故、混雑が予想されるかららしいが、迂回したら、潮風の直撃を受けた。
強風波浪注意報が出ていたんだった。海岸端の迂回路だ。そして海風だ。二十数年前の錆びだらけのバイクでも、嫌なものはいやだ。
やっと参拝道に近づいたと思ったら、はるか先まで車が渋滞ではなく停滞していた。
想像をはるかに越える人出で、どうなるかと思ったがバイクの駐車場は確保されていた。けど、まさか、手水舎で行列をつくらなければならないとは思ってもみなかった。
60年に一度の式年遷宮が来年で、(伊勢も来年。あちらは20年に一度の式年遷宮。)現在は数年前から、拝殿に遷座中。
最近桧皮葺の本殿の屋根の葺き替えが終わり、千木、勝男木の修復、塗り直しも終わっている。でも鉄骨の覆屋に囲まれているので屋根の一部しか見えない。
今は葺き替えの成った本殿の拝観ができるのかもしれないが、そんな気はない。「仰げば尊し出雲のおおやしろ」だ。足場を組んだ上を、檜皮の屋根を目の高さに見て回る、なんて畏れ多い。
拝殿前でも十数人が常に参拝しているので、正面から参拝しようとすれば、これまた行列をつくらなければならない。
端っこの方で参拝を済ませ、早々に退出した。
宍道湖(しんじこ)を北岸から時計回りに走ったのは初めてだ。
車が少なければ停まってみたい所が何箇所もあった。滅多に通らない一畑(いちばた)電鉄の車輌もたまには見てみたい。
けど、やっと停まらず、良い景色の中を走ることができる。朝はちょっとグズったけれど、この辺りから水平対向エンジンが滑らかになり、振動が心地良くなって来た。
気持ちの良い排気音と振動の中にいる方が、良い景色の中で停まるより、ずっといい。
左側通行の日本の道路。それを時計回りの湖一周、というのは、失敗だった。
言うまでもない、道路が湖から一車線分、離れるからだ。
けど、これまでの反時計回りと違って、思わず停まりたくなる湖岸の景色は時計回りの方が多い。
蕎麦を食べるつもりだった。
けど、店の前には数名のグループが二、三、屯していた。ちょうど店の人が出てきたので聞こうとしたら、こっちは、40分くらい待ってもらうことになると思います、国道沿いの支店の方がマシじゃないかと思います、と言う。
あきらめた。喫茶店もあきらめた。まあ、こっちは、朝のうちにコーヒーを淹れて持って来ていたから、大きな問題はない。
帰宅時間は守れた。写真も撮れなかったし、渋滞ばかりでまともにゆっくりして、ということもなく、帰って来た。やっぱり、いつものことで、「楽」なことはなかった。
やっと参拝道に近づいたと思ったら、はるか先まで車が渋滞ではなく停滞していた。
想像をはるかに越える人出で、どうなるかと思ったがバイクの駐車場は確保されていた。けど、まさか、手水舎で行列をつくらなければならないとは思ってもみなかった。
60年に一度の式年遷宮が来年で、(伊勢も来年。あちらは20年に一度の式年遷宮。)現在は数年前から、拝殿に遷座中。
最近桧皮葺の本殿の屋根の葺き替えが終わり、千木、勝男木の修復、塗り直しも終わっている。でも鉄骨の覆屋に囲まれているので屋根の一部しか見えない。
今は葺き替えの成った本殿の拝観ができるのかもしれないが、そんな気はない。「仰げば尊し出雲のおおやしろ」だ。足場を組んだ上を、檜皮の屋根を目の高さに見て回る、なんて畏れ多い。
拝殿前でも十数人が常に参拝しているので、正面から参拝しようとすれば、これまた行列をつくらなければならない。
端っこの方で参拝を済ませ、早々に退出した。
宍道湖(しんじこ)を北岸から時計回りに走ったのは初めてだ。
車が少なければ停まってみたい所が何箇所もあった。滅多に通らない一畑(いちばた)電鉄の車輌もたまには見てみたい。
けど、やっと停まらず、良い景色の中を走ることができる。朝はちょっとグズったけれど、この辺りから水平対向エンジンが滑らかになり、振動が心地良くなって来た。
気持ちの良い排気音と振動の中にいる方が、良い景色の中で停まるより、ずっといい。
左側通行の日本の道路。それを時計回りの湖一周、というのは、失敗だった。
言うまでもない、道路が湖から一車線分、離れるからだ。
けど、これまでの反時計回りと違って、思わず停まりたくなる湖岸の景色は時計回りの方が多い。
蕎麦を食べるつもりだった。
けど、店の前には数名のグループが二、三、屯していた。ちょうど店の人が出てきたので聞こうとしたら、こっちは、40分くらい待ってもらうことになると思います、国道沿いの支店の方がマシじゃないかと思います、と言う。
あきらめた。喫茶店もあきらめた。まあ、こっちは、朝のうちにコーヒーを淹れて持って来ていたから、大きな問題はない。
帰宅時間は守れた。写真も撮れなかったし、渋滞ばかりでまともにゆっくりして、ということもなく、帰って来た。やっぱり、いつものことで、「楽」なことはなかった。
「楽」をする、なんて考えもしてなかったけど。
その代わり、やっぱり楽しかった。
いつ、また降り出すかなあ、と思いながら走るのも。
渋滞でイライラしながら待っていて、車が停まった時に、辺りを見回しながら緩々と反対車線を前進するのも。
駐車した時に、目があったら必ず見ず知らずのバイク乗り同士が言葉を交わし始めるのも。
風に当たり続けることで、自分がその景色の中に今、居る、と常に実感し続けている。エンジンから伝わって来る、バイクがずっと頑張り続けている、というその振動。
この「味」は、車では重視されないのだろう。
スポーツカーだって、ハンドリングは注目されても、
「排気音や振動がスポーツ心を刺激する」
なんて論評は読んだことがない。「感傷的に過ぎる」からなのかもしれない。
車なら音楽だって聴けるし、強風に曝されることもないし、何より夏の暖房、冬の冷房、というバイクの宿命なんて全く関係ない。良い景色の中を快適な環境の「クルマ」という名の室内が移動していく。
ただ、どんなに素敵な景色の中を走っていたって、強風の真っ只中に居て排気音を聞き、エンジンの振動に身を委ね、「その中に、自分がいる」と実感し続けることは、車にはできないんですよね。
その代わり、やっぱり楽しかった。
いつ、また降り出すかなあ、と思いながら走るのも。
渋滞でイライラしながら待っていて、車が停まった時に、辺りを見回しながら緩々と反対車線を前進するのも。
駐車した時に、目があったら必ず見ず知らずのバイク乗り同士が言葉を交わし始めるのも。
風に当たり続けることで、自分がその景色の中に今、居る、と常に実感し続けている。エンジンから伝わって来る、バイクがずっと頑張り続けている、というその振動。
この「味」は、車では重視されないのだろう。
スポーツカーだって、ハンドリングは注目されても、
「排気音や振動がスポーツ心を刺激する」
なんて論評は読んだことがない。「感傷的に過ぎる」からなのかもしれない。
車なら音楽だって聴けるし、強風に曝されることもないし、何より夏の暖房、冬の冷房、というバイクの宿命なんて全く関係ない。良い景色の中を快適な環境の「クルマ」という名の室内が移動していく。
ただ、どんなに素敵な景色の中を走っていたって、強風の真っ只中に居て排気音を聞き、エンジンの振動に身を委ね、「その中に、自分がいる」と実感し続けることは、車にはできないんですよね。
2012.05/06