CubとSRと

ただの日記

ツーリング考 番外編(後)

2020年01月06日 | バイク 車 ツーリング
 これでは事故を起こしてしまう。練習するしかない。

 というわけで、早速自動車学校へ行き、ペーパードライバー用の実技講習はないかと尋ね、翌々日に実技講習を受けることにしました。

 あの時の「嫌々ながら」、の感じはありません。
 不安はあります。
 でも、何しろ、庭には、実技講習を受けることを決意させた、届いたばかりの赤いチョロQが停まっている。隣家の車が隣にあって、比べたら半分しかない。そのくせ、車高はある。
 本当にゼンマイ仕掛けのオモチャみたいで、どうしたって「嫌だな」という気分にはならない。これに乗れなきゃ、乗る車はない。
 
 一日置いて、教習所へ行き、20年近く触れることすらなかったハンドルを握りました。(教習所への行き来は勿論バイクです)

 初め、何とも覚束ない具合だったのが、外周を一周した辺りから妙に楽しくなって来て、本当に劇的空間、 
 「何と言うことでしょう!」
 です。
 あれだけ嫌いで不安だったものが、ちっとも嫌じゃない。
 あっと言う間の一時間。
 あれ?こんなに楽しかった?と不思議に思ったくらいです。

 勿論、リーンしながらカーブを抜ける楽しさとか、ひやひやしながらクランクやS字を、でも適度にバンクさせて通る楽しさ、アクセルの開け閉めで倒しこみ、起こすスラロームの面白さ、などはありません。
 けど、バイクほどではないにせよ、気分を先に持って行ってハンドルを追随させるような気持ちでいると、面白いように向きを変えていく。これは楽しい。

 一日置いて、二回目。
 あの時の楽しさをもう一度、と思っていました。でも、まだ、あれじゃあ公道は走れない、と思って、家に帰ってからはハンドルを握っていません。

 「何をしましょうか」
 と聞かれ、
 「ほとんど20年ぶりにハンドルを握ったばかりで。まだ、全部最初からの状態です」
 と言うと、
 「今日は外に出ましょう。」
 えっ?こっちの意見は無視か?

 でも、大人ですからね。
 「先達はあらまほしきことなり」、です。教える方の見る目の方が確かなんですから。何とかいける、と、踏んでくれたんでしょう。
 三瓶山の麓までのショートツーリング。

 「まだ、少し力が入ってるけれど、力が抜けたらいいですよ」
 と言って置いて
 「でも」
 と続ける。
 「力、抜こうとしても、抜けませんけどね。抜けるようになります」

 「何と無責任な!」・・・なんて、ちっとも思わない。
 大正解だ、と思いました。
 「力が入っていて疲れて来れば、手抜きをして、イヤでも力を抜くようになりますよね」
 と言うと
 「そうです、そうです。」


 こんなことを思い出していました。
 初めて、「これも稽古の一つだから」、と演武会に出してもらった時のことです。
 何しろ初めてのことだし、日本武道館主催で、年に一回の全国規模のもの。緊張します。
 師範代は
 「いつもの通りの稽古(演武とは言われなかった)をすればいいんだよ。見てる者は分かりゃしないんだから」
 と言われるけれど、何しろ全国から各流の宗家、高弟が一堂に会するわけです。緊張するなという方が無理でしょう。
 「新前の自分がヘマをして、不細工な演武をしたら流儀の名折れ」
 、なんて、勝手に自分一人で流儀を支えているつもりになっている。

 それが出番の前、これまで一度しか一緒に稽古をしたことのない(それも数年前)人と組むのだから、
 「一度合わせておきなさい」
 、と言われます。
 それで、各流派の人が、それぞれに最後のチェックをしているところで同じように合わせてみることになりました。
 
 「いつもの通りの稽古を~」と言われていたものだから、いつものつもりで切り掛かった瞬間、それぞれの流派の掛け声で随分賑やかだった練習場が、静まり返ってしまいました。それどころか動きも止まってしまった。
 あれっ?と思ったけれど、こっちのことで精一杯。気を抜いたら怪我をする。

 二、三手打った辺りで、師範代が近づいて来られたので手を止めると、 
 「他の人がいるから、声は出さないでいいよ。」
 時間が止まった、「だるまさんがころんだ!」状態になった原因は私にあったわけです。恥ずかしいやら、おかしいやら。
 
 でも、その時、思いました。
 緊張していればいいじゃないか。無理に解さなくても。今はそれしかできないんだから。破れかぶれとはちょっと違うんですが。「今、できることをする」

 道を見て、「力を抜かなきゃ」、でなく、「ちゃんとハンドル切らなきゃ」と思ってればいい。疲れて来れば力は抜けて来る。
 用心は「折節毎に改め」られるようにもなる。車に乗っている人は、みんな当たり前にやっていることなんですから。急いだってしょうがない。

 というわけで、やっと車に乗る練習が始まりました。
 外から見ることで、バイクツーリングを見る目が、これで少し上等になるかもしれません。



2011.10/23
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ツーリング考 番外編(中)

2020年01月06日 | バイク 車 ツーリング
 「一つだけ心残りがあった。それは・・・・」

 なあんて、引っ張ってみました。なんてことはない話です。

 バイクは、所詮、趣味のものです。

 誤解のないように言っておきますが、
 「だから、バイクなんて遊びなんだ!」
 と言ってるんじゃないんです。
 けれど世間からは
 「だから、バイクなんて遊びなんだ!」
 と決めつけられている、ということなんです。
 
 乗っている本人は、ほぼ全て日常生活は、バイクさえあれば事足りる、と思っている。
 スーパーに行く時は、90のカブ。通勤と、偶のツーリングはSR400。
 長距離はBMW(勿論、中古)。在職中は更にXJR1300。

 けど、極端な話、遠出をしない、日常生活だけなら、90のカブ一台で十分。車に比べたら、メリットしか思いつかない。
 田舎には、今、BMWで帰って来ているから、カブほど手軽じゃないけど、実際、一台だけで問題ない。
 パニアケースには大根、キャベツ、米の袋、豚肉のパック。葱、人参、牛蒡に豆腐。時には缶ビールが一ダース。タンクバッグには卵も入る。

 「(だから、)バイクなんて遊びなんだ!」どころか、車と違って、場所は取らないし維持費も燃料消費も、優等生。4人乗りや7人乗りに一人で乗る、という無駄もない。
 その上に、安全のためにと、バイク用の靴、ジャケット、ヘルメットにグローブを着用する。安全に対する心掛け、心構えは、車に比べればよっぽど高い。
 走り出してからおもむろにシートベルトをするドライバーは結構いるけど、ライダーにはそんな奴はいない!(シートベルト、ないけど)

 つまり、「それなりの格好」をするわけで、あんまり気軽に、また、ちょっとお洒落して外出、なんてことができません。
 ライディング用の装備のお洒落は、普通のお洒落とはちょっと違うし、気軽な外出も、バイクではできない。

 世間はその装備、安全のための涙ぐましい努力までも「遊びだ!」と言う。
 「普通にお洒落して、気軽に外出できてこそ、日常生活なんだ」、と。
 一理はあるけど、大方は安直な定義です。でも、世間はそれが標準だ。
 構えず気取らず、等身大で。
 「それが日常生活だ!!!」、と。
 はい、熱くなりました。

 というわけで、バイクは「日常生活の足」、ではあっても、世間の思う「日常生活」を支配することはできない。気軽でないから「遊びだ」と決め付けられる。

 「一つだけ、心残り」ってのは、これです。大したことじゃないでしょ?
 「ちょっとお洒落をしてみたい」「偶には気軽に外出してみたい」

 折角つくった服を、着ることもなく、虫に食わせてしまうのは勿体無い。たったそれだけが、心残り。
 お洒落をするか、多少の装備をしても「快適さ」「楽しさ」を選ぶか。

 で、結局、「お洒落」は連戦連敗。バイク乗りのお洒落に特化して、折り合いをつけていた。(ハロルズ・ギアのスパッツとか、マックス・フリッツのジャケットや、パンツ。)

 でも、田舎は不便なんです。年寄りを病院に連れて行くとなると、一日仕事。
 一時間に一本の列車。駅までタクシー。駅からもタクシー。
 遅くなると、(午後7時!)家に帰るタクシーも、ない。

 それでも、まあ、何とかなっていたけど、そういう状況というものは、良くはならない。車輪を二つ増やすしかない。

 そして、ついに買いました。車。当然、中古車だけど。
 コンバーチブルではないけれど、「2シーター」!!!

 ・・・・・・・・なんて言うと、スポーツカーみたいでしょう?


 金があれば、ね。
 伊達や酔狂で中古車は買いません!(バイクは、別)
 言い訳じゃないんですよ。言い訳じゃないんだけど、何より、車って「枠」があるから周囲の、見えないところが多過ぎる。
 だから、コンバーチブル車なら買ってもいいなと思ってたんです。
 (だけど、それは無理。)
 もう一つ。車はでかい。バイク並みの大きさなら、買ってもいい。きっと、何とか乗れる(と思う)。けど、ミニカーでは二人乗れない。

 ということで、「2シーター」!!を買いました。
 これなら、バイク並みだから、運転できないこともあるまい。
 そして、先週の金曜日(一週間ちょっと前、ですね)、雨の中、チョロQみたいな軽自動車がやって来た。これなら乗れそうだ。
 翌日、乗ってみて、向きを変えようとしました。
 ・・・・・・・・・・。

 甘過ぎた。これはいけない。
 これで乗ったら、あの世行き、だ。
 18年前の運転感覚の記憶は、そう簡単には戻って来ない。


             (またもや、次回に続く)


2011.10/22
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ツーリング考 番外編(前)

2020年01月06日 | バイク 車 ツーリング
 昨年の今頃、胆嚢の摘出施術を受けた時、
 「これを機会に、車、買おうかなあ」
 と思いました。
 
 けれど、あれから、気がつけば、一年。あっという間です。

 何しろ、車など乗ったことがない。

 34歳でバイクの免許を取り、気がつくと40歳が目前。
 「40過ぎると免許取るのが大変だ」
 と言われ、それなら、取れるうちに取って置くか、と合宿免許の手続きをしました。
 はるばる長崎・・・、じゃなくって神戸から船に乗って愛媛に。

 大体が運動神経が鈍い上に、乗りたくもない車の免許。
 何が腹が立つと言って、二輪免許の時と同じ学科をもう一度受講しなきゃいけないということ以上のものはない。
 車の免許を持っている者は、二輪は実習だけなのに、二輪の免許だけの者はもう一度学科。なんでそうなる!?

 合宿と言っても地元の人と同じ扱いらしく、毎日一時間しか乗れない。
 合宿所から教習所まで歩いて通う。
 僅か十分程の道を往復する毎日が十日を過ぎた頃、もう、すっかり嫌になってしまった。やめて帰ろうかと思ったくらい。でも、そんなことをしたら、元も子もない。
 教習所が気に入らないのではなく(それも実は、あったんだけど)車の運転自体が好きになれないんだから、ここでやめたら、終わり、だ。

 そこは年の功。打開策を考えた。

 良い事を思いついた。
 土曜の午後から、日曜一日、空けることができる。その時、神戸に帰ってしまう、という計画。
 土曜の午後、神戸に戻るフェリーに乗る。日曜の朝、フェリーで香川に渡る。一日掛けて教習所まで、ツーリング。セローにしよう。
 そして、月曜からは、セローで通学(?)だ。

 大きな気分転換になりました。次の日曜日には石鎚山にも行けたし。
 それから毎日、僅か数分バイクに乗るだけながら、嫌な重苦しい気持ちはウソのように消えてしまいました。

 それで、まあ、中退の危機を脱し、めでたく3週間ちょっとで卒業したわけですが、前に書いた通り、車に乗りたくて免許を取ったわけじゃない。
 だから乗る気なんて少しもない。当然、車なんか買おうとも思わない。
 教習所に入って初めてハンドルを握り、卒業してからは、ただの一度もハンドルに触れなかった。触れようと思ったこともなかった。

 そうこうするうちに、教習所で大型二輪の免許が取れるようになる。
 一発試験じゃ絶対に取れないと思って諦めていたのが40半ばで、また教習所通い。
 教習所中退を苦肉の策で乗り越えたのに、十年ぶりで通った大型二輪教習の楽しかったこと!!
 十時間ほどの教習が毎回うれしくて、仕方がなかった。
 だから、こっちは、当然のこと、あっという間に終わってしまった。

 ・・・・・・・で、気がついたら、最後の教習所通いから十年余り。車の方からなら、二十年近くが過ぎてしまった・・・・・。

 というわけで、車だけの免許、としたら、きれいなもんです。ただの一度も違反なしの優良ドライバー。
 

 いずれ必要になるだろうから、と取得したものの、そんなわけで全く乗る気はなかった。
 けれど、バイクに乗り続けることに関して、一つだけ、いや、大したことじゃないんだけど、一つだけ心残りがありました。

 それは・・・・・・。

                (ということで、次回に続く)





2011.10/22
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ツーリング考(風になる?)

2020年01月06日 | バイク 車 ツーリング
 乗っている人からすれば、何を今更といったことでしょうが、バイクに「乗っている」というより、「載っている」奴のたわ言と思って聞いて下さい。

 まず一つ目です。
 本来、バイクは加速も巡航速度も、普通車より速いのだけれど、技術の発達により、安定性に勝る四輪に巡航速度では全く太刀打ち出来なくなりました。

 アメリカ、フロリダ半島で行われる[BAJA(バハ)1000」というラリーでは、無人の荒野を一日半で1000マイル(!)走るのだそうですが、バギー車相手にバイクは倍の時間かけて走るしかない、のだそうです。

 砂漠がほとんどで、それ以外は30センチもの棘があるサボテンが林立する中を走る。
 破天荒という言葉では間に合わないくらいのとんでもなく過酷なラリーです。
 ついでですがこの棘、間違ってぶつかろうものなら、ラフロードバイクのブッシュガード(プラスチックのハンドルカバーみたいなの)を簡単に貫くのだそうですよ。

 バイクツーリングは、速さは第一ではない。遅くたって問題ない。そんなツーリングもあり、です。要は自分で決めること、です。

 ピースサインには、相手に対する多少の尊敬があるわけですが、その基準は車とは違う。高級車に乗っているから、とか、大型バイクに乗っているからえらい、なんてことは誰も思わない。
 ツーリングに関しては、小さければ小さいほど、逆に荷物が大きければ大きいほど(勿論、やたらでかいだけで工夫がなされていなければ、笑われますけどね)、一目置かれる存在になります。
 だから、原付、それもカブみたいなのに背丈ほどもある荷物を積んでツーリングをしているライダーがいれば、注目の的、彼(彼女)にはピースサインの嵐です。
 車ではこんなこと、ありませんよね?
 これ、やっぱり「それなりの準備」、「覚悟」を一目で看取できるから、なんじゃないでしょうか。

 二つ目は、「風を切る」ということ。
 こう言えば、何だか猛スピードで走っているみたいですが、そういうことばかりじゃないんです。
 先日、スズカ8耐での、チーム紳助の奮闘振りをやっていましたが、以前に島田紳助が連続して出場していた時、「風になる」という言葉が流行していました。「バイクに乗って風になる」。

 残念ながら、私は「風になる」ような速さでは走れません。
 そして「ツーリング」では、そんな速さでは走らないのが普通です。
 やはり、「風になる」のではなく、「風を切る」

 それなりに荷物を積んでいるので、普通にバンクさせる(バイクを大きく傾けて走る)こともままならない。これまた私のように大きくバンクさせられない者は問題ないんですが、普段は「バリバリの走り屋」だったら、これはストレスでしょう。
 けれど、ここで「風を切る」が出て来ます。

 例えばスポーツカーなら、直線であろうがカーブであろうが、風の切り方は基本的に同じです。
 けれど、バイクは傾けてコーナーを抜ける。
 「同じ風」のようでも、頭の位置が上下数センチ違うと、また、真っ直ぐに向かうのと、身体が傾いた状態で風に向かうのとでは、明らかに感触が違うんです。
 「風を切る」と一言で言っても、その「風の違い」を常に身体で感じていられる。
 延々と続けられるキャッチボールが、見ている方には何とも退屈なものであっても、やっている者にとっては
 「毎回受けるボールの感触が違う。だから飽きない」
 でしょう?あれと似た感じじゃないかと思います。

 バンクさせてコーナーを抜ける時に感じる風。あきることのないキャッチボールと同じく、その都度、違う風を切りながら(風にあたりながら)進む。
 全力ではないけれど、一瞬たりとも気は緩められない。

・好きで大荷物括り付けて、出来る限りの準備をして、いつも修学旅行の前日の気持ちでいる。
・常にその千変万化する風を感じて走る。風の中にいて、自分から風の中に飛び込んで行く。風と共に視界が開け、めまぐるしく変わる世界は、車のフロントガラス越しに見るそれとは全然違う。
 風が常に現実を感じさせているのに、その風さえもが非現実的な世界の中に自分を連れて行ってくれる。
 だから、停まった時には、本当に現実の世界なんだ、と感じるのだけれど、風が止んだことで現実か非現実か分からなくなってしまう。

 何だかんだと、あまりツーリングと関係のないようなことばかり。


2011.08/21
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ツーリング考(ピースサインはうれしい)

2020年01月06日 | バイク 車 ツーリング
 8月15日の日記

 今日も出雲まで、往復百キロのショートツーリングです。
 夏休みだからでしょうか、それとも盆休みだからでしょうか、ツーリングらしいバイクが多くやって来ます。
 そんな中には、同じバイクの私に向かって、手を高々と挙げるライダーもいます。形は違っていても二十数年前から「ピースサイン」と言っていたものです。

 ピースサインと言えば人差し指と中指でつくるVサイン。
 けど、バイク乗りのは色々です。
 自由に動かせる左手で、「よっ」と言うように手を挙げる者、敬礼みたいにする者、お釈迦さんみたいな人。「手かざし」でもしているかのような人もいれば、肩より高く手を挙げる者、それを大きく振り回す者とさまざまです。
 ピースサインとは言うけれど、「世界に平和を!」などと言っているわけじゃない。ただのハンドサイン。何か意味があるのかと言えば、取り立てて意味はない。
 ただ、道路ですれ違った見ず知らずの他人。言葉を交わしたこともなければ、顔を見たこともない。そんな相手にあいさつの意味で手を挙げる。
 山歩きで、擦れ違う者同士「こんにちは」と声を掛け合う。あれと同じです。

 「お互い物好きだよね」とか「バカみたいだよね」なんて思ってません。
 ただ「うれしい」とか「楽しい」とかいった様な気分は、あります。

 車から見れば、大荷物括り付けてツーリング、なんて「物好きだな」「バカみたいだよな」となってるんだろうな、と思います。

 たとえば私が誰かの車の助手席に乗せてもらって、追い抜いて行くツーリングライダーを見たとする。
 細い頼りな気な、たった二本のタイヤの上に、まるでやじろべえのように左右に張り出した荷物があって、更にその上に綱渡りをしているような雰囲気のヘルメットが載っている。
 ひたすら危なっかしく、汚らしくってみっともないなあと思うかもしれません。

 荷物がきれいにまとまっていたとしても、とにかく、その大げさな格好。

 それに比べて車はどうだ。すっきりしていて、旅行だろうが近所のスーパーへの買い物だろうが、見た目、何の変わりもない。
 乗ってる者がタンクトップにショートパンツ、サンダルだって、ちっとも違和感がない。
 車だったら、ジャージー上下にスリッパで帰省、なんてのもS・Aで見掛けるけれど、バイクは何とも暑っ苦しい格好にドタ靴だ。
 随分無駄なことをしているもんだな、バイク乗りって・・・・。

 ・・・・・・そう思うかもしれない。

 そんなバイクが車の前を走っている。
 ドライバーとしてはうっとおしいな、邪魔っ気だな、と思っている。
 それが突然手を挙げる。「ん?何だ、なんだ?!」と思ったが何事もない。邪魔だと思ったことが伝わったのかな?
 しばらく走っていると、また手を挙げる。今度はさすがに「何だ?」とはならない。対向してきたバイクが同じことをしたからだ。
 知り合いか?それはないだろう。見ず知らずの者同士、何やってんだ?取り締まりでもやってるのか?
 この辺で、それがバイク乗り同士の挨拶らしい、と分かる。
 「へえ~。あんなこと、するのか。ちょっと楽しそうだな」

 こんな人もいるそうです。
 北海道にドライブに行った。彼女と行った。とっても楽しかった。
 けど、行き交うライダー同士、必ずと言って良いほどピースサインをやり取りしている。表情はほとんど見えないけれど、何だか楽しそうだというのはとてもよく分かった。そして、「いいよなあ、バイク!」と思った。
 「くやしい~。来年はバイクで来るぞ!」
 翌年、その人が本当にバイクで行ったかどうかは分かりませんけどね。

 片岡義男という小説家のエッセイに、こんなのがありました。
 思いついてドライブに出かけた。けれども何だかしっくりこない。
 天気も良いし、快適なのにさほど楽しくない。何か物足りない。
 で、ふっと自分が水族館の中に居るような気がした、と。

 スポーツカーの車内は快適なんだけれど、外界と窓ガラスで遮断されている。これでは長距離ドライブと言ったって、ただいつもの空間のまま移動しているだけじゃないか。バイクは外の空気に触れているからこそ、楽しかったんだ。よし、来年はバイクでツーリングに行こう。

 あれ?ピースサインから、脱線しましたね。でも、この感覚、ピースサインの元です。

 車にしか乗ったことのない人。あの訳の分からないピースサインを「見たことはある」という人。
 バイクに乗ってツーリングに出てみて下さい。泊りがけでなくったって良い。いざという時のために雨具一つ括り付けて。

 風を切りながら走る。
 対向してくるバイクに手を挙げてみて下さい。反応がない時は残念!だけれど、明らかにツーリングと分かるライダーからピースサインが返って来る。
 うれしくって背中がぞくぞくします。眠気なんて吹っ飛びます。ついつい顔がニヤつきます。
 「頑張るぞ!」って力が湧いて来る。何を頑張るんだか分からないんだけれど。

 それなりの用意をして事にあたる。用意が綿密であればあるほど、実行中、その後、共に楽しみは深い。
 車と違ってバイクは乗るまでに一手間かかるけれど、ツーリングとなると更に一手間、二手間。それがあるから、ピースサインが満面の笑顔と共に返って来るとうれしくなるのかもしれません。


2011.08/18
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