「恥ずかしながら」
2017.08/22 (Tue)
僅か七年前、靖國神社・護国神社に参拝することにためらいがありました。
勿論「靖國神社にはA級戦犯が合祀されているから」、などというふざけた理由からではありません。そんなものは存在しない。
「家族・一族に戦死者がいないのに参拝する、というのは見ず知らずの他人が葬式や法事に行くようなもので、それは遺族に対して失礼なのではないか」
そう考えていました。五十歩百歩、ですね。
五十も半ばを過ぎていたけれど、そんな浅墓なことしか考えてなかった。今思い出しても、冷や汗三斗、です。
本当なら、その正反対
「家族・一族でもないのに、顔を見たこともない、まだ生まれて来てもいない我々を命を懸けて守ってくださった。そのことに感謝し、今度は我々が後生を守る、と誓い(明かし)に参拝すべきだ」、となる筈です。
そんな時に「夕刻の備忘録」氏の文を読んで、考え違いに気づかされ、次のような短い日記を書きました。
↓
「連絡事項」
「大家と言えば親も同然」
と同じではありませんが、「靖国神社崇敬奉賛会」に入会することにしました。
譬えは適切ではないけれど、「貧者の一灯」になるかもしれないから。
2010年01月16日
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
正直なところ、それでも半分くらいしか分かってなかったんじゃないかな、と思います。
「理解」ではなく、「感じ取れる」ようになってきたかも、となったのはもっと後です。
おそらくは備忘録氏が、「産経抄」の文を採り上げて厳しく糾弾され、私もその産経の記事に「?」と思った時から、でしょう。
↓
▼「菅さんの権力に対する執着心が、自身の再生エネルギーになっている」と渡辺喜美・みんなの党代表はうまいことを言うが、それほどまでに延命したいのなら抄子が知恵をお貸ししよう。
霊験あらたかで効果抜群の妙案を。
▼最近の歴代首相は、さきの大戦で亡くなった人々を悼むため6月23日の沖縄を皮切りに広島、長崎を巡り、8月15日の全国戦没者追悼式に参列するのが常である。
これに靖国神社参拝を加えればいいだけの話である。
▼国のために命を捧げた兵士の霊に首相が頭を垂れるのは、どの国でも当たり前の話である。
毎年参拝した小泉純一郎首相が5年の長期政権を全うし、参拝しなかった首相が、いずれも短命に終わっているのは偶然ではない。
ひとたび首相が参拝すれば、支持率はアップし、政権延命は間違いない。
(2011.6.25 02:35)
・・・・・・・・・・
(ここから「夕刻の備忘録」本文)
産経は靖國問題をオモチャにしているのだ。
この記事を書いた人間の品性の下劣さは譬えようもない。靖國参拝が「霊験あらたかで効果抜群」の延命策だとハッキリ書いている。
本気なら許せない、冗談ならなお許せない。この程度の認識で、自民党歴代総理の靖國参拝問題を論じ、様々な批判を書き連ねて自民党支持率の低下に貢献してきたのが、彼等の正体だということになる。
よくもまあ、「靖國に行けば支持率アップで延命間違いない」などと書けたものである
(中略)
靖國問題における対応においても、麻生太郎は一つの模範を示した。参拝云々を無力化させることに尽力した。
これは安倍晋三の「曖昧戦法」と同様の効果があった。
麻生の靖國に対する思いは、その著作に存分に書かれている。
そして、その任期中にマスコミに対して最も激しい怒りを示したのは、靖國参拝を云々したぶら下がり取材であったことも忘れてはならない。
その時に吐き捨てるように言った言葉が、全てを表している。
「靖國は静かに祈る場所であり、政治から最も遠くにあるべき場所である」と。
ここからは2013.03.26の氏のブログからです。
↓
「靖國参拝問題」で自称「保守派」から、政治家に向けて繰り返し発せられる言葉は、「国家を護るために命を捨てた英霊に対し、国民の代表として敬意を表し参拝するのは当然の義務である」というものである。
そこでこちらも繰り返しになるが、靖國参拝問題は政治問題ではなく、国民の心の問題であり、これに「国民の代表」などという代理人は無用である、と強く主張したい。
敬意を表し参拝するのが当たり前なのは、我々国民であって、政治家はその後ろに続く存在にすぎない。国民主権を声高に言うなら、これは国民がまさに先頭に立つべき大問題であり、政治家は主役ではないのである。
(略)
ここには、現代の批評病の影は全く無い。色々と考えて、政府の対応を批判して、是々非々に論じて、あれはダメ、これはOKと区別して、それから漸く腰を上げたのではない。
そんなことをしていては、政権が弱くなる。国家が弱体化する。内部分裂を毛ほどでも匂わせれば、他国はより露骨に入り込んでくる。それが分かっているから、(英霊となられた諸先輩は)全てを飲み込んで行動されたのである。
今、我が国は危機にある。この危機に際して、政府の大方針に賛成だ反対だと騒いでいる暇は無い。
無能政府は既に倒した。これも繰り返し論じてきたことであるが、批判がしたいなら小声ですればいい。
間違っても「国論を二分する」などと形容されるような手法を採るべきではない。それはそのまま日本の危機をより深刻化させるからである。
また平和な時が来れば、思う存分に議論を戦わせればいいだろう。今は国民の団結心を見せる時である。
その団結心の強さ、深さを相手に見せることが出来れば、戦争は回避出来る。もし、安物の議論に溺れて、国内が分裂していると思われれば、敵はその瞬間に攻め込んで来るだろう。
この辺りの機微を、どれだけの国民が理解することが出来るか。それが全てを決することになるだろう。
「秘すれば花」は芸術論ではない。
我々日本人の生き方の指針である。
無言が雄弁に遙かに勝ることを教えた先人の遺訓である。
その生き方に徹することが出来れば、日本は護られる。
それを侮れば、直ちに日本は消え失せる。
(以下略)
~夕刻の備忘録~
靖國と「秘すれば花」より
2013.03.26
http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-904.html
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「秘すれば花」のもとは「千万の軍なりとも言揚げせず取りて来ぬべき男ぞと思ふ」
どれだけの敵であろうとも無駄なことを言わず、全て討ち取って切り伏せてくる男。
「葦原の水穂(瑞穂)の国は神ながら言揚げせぬ国」
我が日本は神代の昔から、言い立てたり言い募ったりしないで、思い(言霊)のままに生きる国。
言霊の幸合ふ国だから、言霊の霊威を尊び、軽々に言葉を多用して言い立てたり言い募ったりしない。正しい言葉のままに行動すれば思いは現実のものになる。
最後にもう一度。
《敬意を表し参拝するのが当たり前なのは、我々国民であって、政治家はその後ろに続く存在にすぎない。国民主権を声高に言うなら、これは国民がまさに先頭に立つべき大問題であり、政治家は主役ではないのである。》
「議員や閣僚は参拝するな」と言っているのではありません。
この参拝に「義務」とか「責任」とかいうことを声高に唱えることがおかしいというのです。言挙げするものではあるまい、と。
国民として当たり前のこと、或いはやむに已まれず参拝するのが本当ではないでしょうか。
議員や閣僚以前に「一国民として参拝する」、という至極当たり前の光景が展開されることになる。
これ(国民各人が事由に参拝すること)は他国がとやかく言う筋合いのものではありません。
勿論「靖國神社にはA級戦犯が合祀されているから」、などというふざけた理由からではありません。そんなものは存在しない。
「家族・一族に戦死者がいないのに参拝する、というのは見ず知らずの他人が葬式や法事に行くようなもので、それは遺族に対して失礼なのではないか」
そう考えていました。五十歩百歩、ですね。
五十も半ばを過ぎていたけれど、そんな浅墓なことしか考えてなかった。今思い出しても、冷や汗三斗、です。
本当なら、その正反対
「家族・一族でもないのに、顔を見たこともない、まだ生まれて来てもいない我々を命を懸けて守ってくださった。そのことに感謝し、今度は我々が後生を守る、と誓い(明かし)に参拝すべきだ」、となる筈です。
そんな時に「夕刻の備忘録」氏の文を読んで、考え違いに気づかされ、次のような短い日記を書きました。
↓
「連絡事項」
「大家と言えば親も同然」
と同じではありませんが、「靖国神社崇敬奉賛会」に入会することにしました。
譬えは適切ではないけれど、「貧者の一灯」になるかもしれないから。
2010年01月16日
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
正直なところ、それでも半分くらいしか分かってなかったんじゃないかな、と思います。
「理解」ではなく、「感じ取れる」ようになってきたかも、となったのはもっと後です。
おそらくは備忘録氏が、「産経抄」の文を採り上げて厳しく糾弾され、私もその産経の記事に「?」と思った時から、でしょう。
↓
▼「菅さんの権力に対する執着心が、自身の再生エネルギーになっている」と渡辺喜美・みんなの党代表はうまいことを言うが、それほどまでに延命したいのなら抄子が知恵をお貸ししよう。
霊験あらたかで効果抜群の妙案を。
▼最近の歴代首相は、さきの大戦で亡くなった人々を悼むため6月23日の沖縄を皮切りに広島、長崎を巡り、8月15日の全国戦没者追悼式に参列するのが常である。
これに靖国神社参拝を加えればいいだけの話である。
▼国のために命を捧げた兵士の霊に首相が頭を垂れるのは、どの国でも当たり前の話である。
毎年参拝した小泉純一郎首相が5年の長期政権を全うし、参拝しなかった首相が、いずれも短命に終わっているのは偶然ではない。
ひとたび首相が参拝すれば、支持率はアップし、政権延命は間違いない。
(2011.6.25 02:35)
・・・・・・・・・・
(ここから「夕刻の備忘録」本文)
産経は靖國問題をオモチャにしているのだ。
この記事を書いた人間の品性の下劣さは譬えようもない。靖國参拝が「霊験あらたかで効果抜群」の延命策だとハッキリ書いている。
本気なら許せない、冗談ならなお許せない。この程度の認識で、自民党歴代総理の靖國参拝問題を論じ、様々な批判を書き連ねて自民党支持率の低下に貢献してきたのが、彼等の正体だということになる。
よくもまあ、「靖國に行けば支持率アップで延命間違いない」などと書けたものである
(中略)
靖國問題における対応においても、麻生太郎は一つの模範を示した。参拝云々を無力化させることに尽力した。
これは安倍晋三の「曖昧戦法」と同様の効果があった。
麻生の靖國に対する思いは、その著作に存分に書かれている。
そして、その任期中にマスコミに対して最も激しい怒りを示したのは、靖國参拝を云々したぶら下がり取材であったことも忘れてはならない。
その時に吐き捨てるように言った言葉が、全てを表している。
「靖國は静かに祈る場所であり、政治から最も遠くにあるべき場所である」と。
ここからは2013.03.26の氏のブログからです。
↓
「靖國参拝問題」で自称「保守派」から、政治家に向けて繰り返し発せられる言葉は、「国家を護るために命を捨てた英霊に対し、国民の代表として敬意を表し参拝するのは当然の義務である」というものである。
そこでこちらも繰り返しになるが、靖國参拝問題は政治問題ではなく、国民の心の問題であり、これに「国民の代表」などという代理人は無用である、と強く主張したい。
敬意を表し参拝するのが当たり前なのは、我々国民であって、政治家はその後ろに続く存在にすぎない。国民主権を声高に言うなら、これは国民がまさに先頭に立つべき大問題であり、政治家は主役ではないのである。
(略)
ここには、現代の批評病の影は全く無い。色々と考えて、政府の対応を批判して、是々非々に論じて、あれはダメ、これはOKと区別して、それから漸く腰を上げたのではない。
そんなことをしていては、政権が弱くなる。国家が弱体化する。内部分裂を毛ほどでも匂わせれば、他国はより露骨に入り込んでくる。それが分かっているから、(英霊となられた諸先輩は)全てを飲み込んで行動されたのである。
今、我が国は危機にある。この危機に際して、政府の大方針に賛成だ反対だと騒いでいる暇は無い。
無能政府は既に倒した。これも繰り返し論じてきたことであるが、批判がしたいなら小声ですればいい。
間違っても「国論を二分する」などと形容されるような手法を採るべきではない。それはそのまま日本の危機をより深刻化させるからである。
また平和な時が来れば、思う存分に議論を戦わせればいいだろう。今は国民の団結心を見せる時である。
その団結心の強さ、深さを相手に見せることが出来れば、戦争は回避出来る。もし、安物の議論に溺れて、国内が分裂していると思われれば、敵はその瞬間に攻め込んで来るだろう。
この辺りの機微を、どれだけの国民が理解することが出来るか。それが全てを決することになるだろう。
「秘すれば花」は芸術論ではない。
我々日本人の生き方の指針である。
無言が雄弁に遙かに勝ることを教えた先人の遺訓である。
その生き方に徹することが出来れば、日本は護られる。
それを侮れば、直ちに日本は消え失せる。
(以下略)
~夕刻の備忘録~
靖國と「秘すれば花」より
2013.03.26
http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-904.html
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「秘すれば花」のもとは「千万の軍なりとも言揚げせず取りて来ぬべき男ぞと思ふ」
どれだけの敵であろうとも無駄なことを言わず、全て討ち取って切り伏せてくる男。
「葦原の水穂(瑞穂)の国は神ながら言揚げせぬ国」
我が日本は神代の昔から、言い立てたり言い募ったりしないで、思い(言霊)のままに生きる国。
言霊の幸合ふ国だから、言霊の霊威を尊び、軽々に言葉を多用して言い立てたり言い募ったりしない。正しい言葉のままに行動すれば思いは現実のものになる。
最後にもう一度。
《敬意を表し参拝するのが当たり前なのは、我々国民であって、政治家はその後ろに続く存在にすぎない。国民主権を声高に言うなら、これは国民がまさに先頭に立つべき大問題であり、政治家は主役ではないのである。》
「議員や閣僚は参拝するな」と言っているのではありません。
この参拝に「義務」とか「責任」とかいうことを声高に唱えることがおかしいというのです。言挙げするものではあるまい、と。
国民として当たり前のこと、或いはやむに已まれず参拝するのが本当ではないでしょうか。
議員や閣僚以前に「一国民として参拝する」、という至極当たり前の光景が展開されることになる。
これ(国民各人が事由に参拝すること)は他国がとやかく言う筋合いのものではありません。