12月6日(月)
今日、我乍ら
「何でこんなに何もしなかった?」
と思う午後十一時過ぎ。
朝食が午後一時だった。外出もしていない。
本当なら今日はコーヒーを買いに行く筈だった。
行くつもりだったのだが、気が付いたら午後四時。
鴨鍋もどき(鴨肉の代わりに鶏肉。それも胸肉)を作って食べた。勿論飲んでない。
明日は終日雨、だという。降水量自体は少ないみたいだが、雨は雨。
だから明日は本当に外出「できない」。
でも、明日の次もまた明日。「明日がある」と考える。
「葉隠」ではいつ死んでもいいように常に身辺の整理を心掛けよ、と教えるらしい。
孔子は「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」、「朝、本当の生き方を聞いたならば、一日それを実践して、夕べに死ぬことになったとしても構わない」と言った。
「いや、それは読み方が違う。『明日に道を聞く。夕べに死す。可なり』が本当のところで、『勇猛心』を以て生きることを教えているのだ」と説く人もいる。いかにも日本らしいというか、「儒教」でなく「儒学」としての取り組みを教えてくれる。
「人間(じんかん、と読むらしいが)五十年、化天の内を比」べることなど思いつきもしないまま、更に二十年近く生きて思うのだが、「念仏百万遍」と、これは同じなのではないか。
「百万遍唱えないと極楽へ行けぬのでしょうか。一回欠けても」
「いや、一万遍でも良い」
「では一万遍に一回欠けたら」
「いやいや。千回でも、百回、一回でも良い」
「では、死ぬ間際に発心(ほっしん)して唱えようとして、唱え切れぬうちに息絶えたならば」
「それでも良い。発心した、その心の中で既に唱えているのだから」
「いつ死んでも良いように身辺整理」。それに掛ける時間は何時間?何十分?それとも何十秒?一瞬で出来る身辺整理はないものか。
「心の中で既に」と考えるならば、一瞬で出来る身辺整理もあるのではないか。ある。「本来無一物」と思い切るだけのことだろう。
孔子は「分かっても『僅か』一日だって実践しようとしなければ駄目だ」と言うけれど、裏を返せば一日の猶予を条件にしている。でなければ死んでも死にきれない、と言っているようなもんだ。
死んでいくことと「発つ鳥、後を濁さず」は全く別のこと。迷惑をかけまくって死んでいくのも、「大往生だ」と周囲の人に惜しまれるのも、死んでいく当人にとっては「本来無一物」。何も持たずに生まれてきた。何も持たずに死んでいく。
というわけで
「明日がダメなら明後日があるさ。明後日がダメなら明明後日があるさ。どこまで行っても明日がある」 by Don・Gabacho