樋泉克夫のコラム
【知道中国 2363回】
──習近平少年の読書遍歴・・・「あの世代」を育てた書籍(習29)
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年初の1月9日、共産党政権は「中華人民共和国戸口登記条例」を公布した。全国民を都市住民と農村住民に分け、居住・職業を含む生活条件の一切に制限を加え、国民を個人単位で厳しく管理し始めたのである。
以後、一般国民の国内外の異動は不可能となる一方で、全国一斉の政治運動の社会的基盤が整うことになる。
2月には、その第一弾としてハエ、蚊、ネズミ、スズメを穀物を掠め取る「四害」と指定し、今後10年内の根絶を掲げて「消滅四害」運動を全国で巻き起こす。
「臭虫」と改名されたスズメ退治のため、子どもまでもが動員される。木の枝や電線に止まっているスズメを見つけると、手にした鍋カマを叩いてスズメを追い払う。スズメは飛び立って逃げるしかない。
すると追い掛ける。スズメは木の枝などで小休止。すると下からガンガンと音を出す。いたたまれなくなって飛び立つ。追い掛ける・・・これを繰り返すと、やがて疲労困憊のスズメは飛べなくなってしまう。疲れ果てて地上に落下するしかない。
そこを捕まえようというのだから、直情径行気味の日本人からすれば、彼らの気の長さ、執念深さ、加えてスズメを追い掛け続けるスタミナに「敬服」するしかない。
かくして臭虫が見られなくなったのはいいが、反対に穀物を食べる本当の害虫が猛烈に増えてしまいアタフタ。そこで慌ててスズメを「四害」から外した。スズメが害虫を食べてくれる益鳥であることを知らなかったわけだが、そんなことを農民が知らないわけがない。だから共産党政権──ということは、どうやら毛沢東ゴ本人──がスズメは臭虫と「認定」してしまえば、もはや愚策も改めようがなくなってしまう。
共産党政権では、スズメまでもが独裁がもたらす悪弊のトバッチリを受けてしまったわけだ。泣くに泣けず笑うに笑えないバカバカしい話ではある。
「四害消滅」の運動が始まった2月に出版されたのが、アフリカの黒と灰色の2匹のダチョウを主人公にした『黒黒和灰灰』(林錫淇著 少年児童出版社)である。
アフリカのダチョウの生態、生活習慣、経済的価値を子ども向けに分かり易く解説した後、北京動物園で飼育しているダチョウを例に環境の変化に適応し、生活習慣を変えることで、熱帯のダチョウも寒い北方でも生存が可能であることを熱く語っている。
『黒黒和灰灰』の最後は、「ミチューリン学説に拠れば北京動物園で生活しているダチョウは必ずや生き続け、将来的には新品種を産み出すこと出来る」と断定的に結ばれている。
ロシアの生物学者であるイヴァン・ウラジーミロヴィッチ・ミチューリン(1855〜1935年)が辿り着いた「環境による生物の変化は遺伝する」との学説に、まさか、こんなところで出会そうとは思いも寄らなかった。
だが、『黒黒和灰灰』の書きぶりから判断して、どうやら共産党政権はダチョウの大量飼育による食肉化を目指していたようにも思える。
浙江、江蘇、安徽、湖北、雲南、四川などで昔から伝えられてきた子供の遊びを集め、誰でも遊べるように判り易く解説した『民間少年游戯』(顧也文編 上海文化出版社)は、3月の出版である。
読み終わって先ず奇妙に感ずるのが、この本には毛沢東の「も」の字も、共産党の「き」の字も、ましてや帝国主義反対だの軍国主義復活阻止だの社会帝国主義打倒など──ヤボで物騒で徒に戦闘的な政治的語彙が1つも見当たらないことだ。
この時期、国内では大躍進政策が掲げられ挙国一致で急進的社会主義化への道を踏み出する一方、58年7月に訪中したフルシチョフが提起した中ソ共同艦隊建設案を拒否し、ソ連への対決姿勢を一層鮮明にさせた。
東欧に目を転ずれば、ポーランド(ボズワニ)で反ソ連の暴動が起きたのは56年6月。4ヶ月後の10月はハンガリー暴動が起きている。
かくも内外が緊張する時代に、かくも長閑な本が出版される・・・さては奇跡か。
「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和四年(2022)5月9日(月曜日)参
通巻第7326号より
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《全国民を都市住民と農村住民に分け、居住・職業を含む生活条件の一切に制限を加え、国民を個人単位で厳しく管理し始めた》
新しい社会(共産主義による、全てを新しくする考えの社会=共産主義革命社会)を作ろうとするなら、国民を個人単位で管理する以上に効率的で生産的な方法はない。
問題はそこに「人権」、「自由」、「権利」さらには「平等」という考え方が入り込む余地は全くない、ということ。それらは旧社会の下で生み出された概念だから。新しい(共産主義)社会では、まず、それらは全否定されねばならない。
そして、「『それぞれの』共産主義社会」という考え方は存在してはならない(存在する筈がない)のだから、「我々こそが本当の共産主義」と主張せざるを得ない「国家」の存在も否定されることになる。ということは「連邦」というあり方は欺瞞でしかないということでもある。