樋泉克夫のコラム
【知道中国 2369回】
──習近平少年の読書遍歴・・・「あの世代」を育てた書籍(習35)
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もう少し凄まじい話を続けたい。
当時、北京で幼少期を送った映画監督の陳凱歌は、自らの半生を綴った『私の紅衛兵時代』(講談社現代新書 1990年)で、「いまでも私は覚えている。マーケットの周りで野菜の根やクズを拾い集めては、細かく切り、サツマイモの粉で包んで野菜団子を作った。両手でそっと持ち上げないと、ばらばらになってしまう。学校にいた大勢の子供のなかには、休み時間に大豆を五粒もらえるのを楽しみにしている子もいた。香ばしくなるまで煎ってから、汗がでるほど手に握り締めて、それからしょっぱいのを一粒ずつかみしめる。それでも、足にはむくみが浮いたままだった」と、当時を振り返っている。
首都でこの惨状である。ならば地方は想像を絶するばかりだった。
「河南省では、生産目標で決められた国への売り渡し穀物を確保するために、武装した民兵が、小さなほうきで農民の米びつの底まできれいに掃き出していた。さらに封鎖線を張って、よそへ乞食にでることを禁止した。まず木の皮や草の根が食い尽くされ、やがて泥にまで手が出された。そして、道端や畑、村の中で人々がばたばたと死んでいった。三千年にわたり文物繁栄を謳われた中原の省に、無人の地区さえできてしまったのだ。後になって、後片付けの際、鍋の中から幼児の腕がみつかった」と、陳凱歌は記す。
陳の生まれは1952年8月で、習近平は53年6月。習近平の両親ほどではないにしても、陳の両親もまた共産党の幹部だった。だとするなら習近平も陳と同じような生活環境に在ったはずであり、同じような記憶が頭の片隅に今でも刻まれていることだろう。
まるで幽鬼に充ちた地獄絵図のような惨状について、当時の日本では伝えられることはなく、「中国にはハエ一匹いない」「誰もが豊かで満ち足りた生活を送る地上の楽園」と言った類の見解が学界やメディアで大いに喧伝されていたものだ。
当時の日本は60年安保闘争が盛り上がり、革新勢力、進歩的知識人、親中系政治家・経済人・メディア関係者などがアゴアシ付きで中国に招待されていた。彼らを使って親中ムードを盛り上げ革新勢力にテコ入れし、反動保守勢力を孤立させ、安保反対運動を支援し、日米安保体制に風穴を開け、日本におけるアメリカの影響力を削ぎ、あわよくば日本弱体化を狙った。いわば日本は共産党政権の統一戦線工作に巻き込まれたのである。
この頃、1人のスエーデンの女子大生が北京大学に留学した。後にスエーデンを代表する中国通となるセシリア・リンドヴィスト(1932年〜)である。彼女は当時の記録を『もう一つの世界 中国の記憶 1961-1962』(2015年)として残しているが、北京大学キャンパスにおける状況を次のように綴っている。
「(清明節が終わり春耕期になると)キャンパスの様相は一変した。学生は建物の間の地面という地面の土を掘り返し畑にし、主に豆類のタネを植えた」
「(栄養状態は劣悪で)5月中旬になると体調不良の学生が続出したため、休講となった。誰もが力なく学生寮の自分の部屋にゴロンと横たわり、あるいは便所で絶望的に蹲るしかなかった。寮全体に嘔吐の音が絶えることなく、排泄されるのは黄河の流れのような色の排泄物だった。便所の排水溝は塞がれ、逆流した排泄物で床はツルツルになり、滑って転ばないよう細心の注意を払った」
「(某教授は)いよいよ絶望的になる経済状況に怒りを募らせるばかり。そして『こんなのは我々が重ねてきた奮闘努力の目標ではない。30年昔、私が理想として描いていた社会とは全く違ってしまった』」
「中国社会の変貌に北京大学の外国人留学生は学習意欲を失い、多くが帰国し、留学生寮の1棟は閉鎖された。〔中略〕アフリカ人留学生は仮病を使って、あるいは故意に警察官に暴行を働き国外退去処分を受けるなど、1962年には90%のアフリカ人留学生が中国を離れた」
「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和四年(2022)5月21日(土曜日)
通巻第7342号 より
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以前に書いた日記です↓
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
平成25(2013)年3月4日(月曜日)
平成25(2013)年3月4日(月曜日)
通巻第3891号 より
樋泉克夫のコラム
【知道中国 869回】
――mens fada in corpora salop・・・狂った精神は汚れた身体に宿る
『ロラン・バルト 中国旅行ノート』(ロラン・バルト 筑摩書房 2011年)
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記号論、構造主義で知られたフランスの哲学者・批評家の著者(Roland Barthes:1915年~80年)は新左翼華やかなりし当時、フランス共産党に反対し、ソ連を修正主義と批判していた。我が国にも蔓延っていた無責任な新左翼にとっては、ゴ本尊サマだった。
1974年、そんなロラン・バルトが数人の仲間と共に、在仏中国大使館の招きに応じ、毛沢東思想原理主義を掲げた四人組が猛威を振るっていた文革末期の中国を旅行する。「現地の中国人との接触が持たれないように、旅行コースはあらかじめ決められ、添乗員・通訳が常に同伴する上に、参加者が各自費用を負担するという旅行計画であった」(「訳者あとがき」)
■襞のない国。風景は文化に仕立て上げられていない(土地の耕作を除いて):歴史を物語るものは何もない。・・・風景はだんだん素っ気ないものになる。味気のない国。/訳者は「cultureには「耕作」と「文化」の2つの意味がある」と注記する。
■すべてが中華思想。他国にも同様にさまざまな社会や村落がありうるという考えは全くない。民俗学はもみ消されている。比較研究は皆無。
■中華社会主義思想:すべては愛する公社、原始的な集産主義への嗜好。
■2人の若い労働者がいるテーブルにつく。彼らはとても清潔で、細い手をしており(《修理工》だろうか?)・・・ここの《労働者》は皆、細くて清潔な手をしている。
この中国旅行の10年程前、大躍進の飢餓地獄に苦しんでいたはずの中国に招待された日本文学代表団に参加した若き日の大江健三郎は、「僕がこの中国旅行でえた、最も重要な印象は、この東洋の一郭に、たしかに希望をもった若い人たちが生きて明日にむかっているということだ。
・・・ぼくらは中国でとにかく真に勇気づけられた。・・・一人の農民にとって日本ですむより中国ですむことがずっと幸福だ、とはいえるだろう」と感涙に咽んだ。
毛沢東=共産党政治の詐術に、大江は「一人の農民にとって日本ですむより中国ですむことがずっと幸福だ」と見事に引っかかる。
だが、同じ招待を受けながらもロラン・バルトは「細くて清潔な手」な《労働者》に疑念を抱く。新左翼とはいえ、さすがにゴ本尊サマだ。“眼力”が違う。
それにひきかえ情けないのが大江だ。やはり目は節穴だった。
転載了
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樋泉克夫のコラム
【知道中国 869回】
――mens fada in corpora salop・・・狂った精神は汚れた身体に宿る
『ロラン・バルト 中国旅行ノート』(ロラン・バルト 筑摩書房 2011年)
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記号論、構造主義で知られたフランスの哲学者・批評家の著者(Roland Barthes:1915年~80年)は新左翼華やかなりし当時、フランス共産党に反対し、ソ連を修正主義と批判していた。我が国にも蔓延っていた無責任な新左翼にとっては、ゴ本尊サマだった。
1974年、そんなロラン・バルトが数人の仲間と共に、在仏中国大使館の招きに応じ、毛沢東思想原理主義を掲げた四人組が猛威を振るっていた文革末期の中国を旅行する。「現地の中国人との接触が持たれないように、旅行コースはあらかじめ決められ、添乗員・通訳が常に同伴する上に、参加者が各自費用を負担するという旅行計画であった」(「訳者あとがき」)
■襞のない国。風景は文化に仕立て上げられていない(土地の耕作を除いて):歴史を物語るものは何もない。・・・風景はだんだん素っ気ないものになる。味気のない国。/訳者は「cultureには「耕作」と「文化」の2つの意味がある」と注記する。
■すべてが中華思想。他国にも同様にさまざまな社会や村落がありうるという考えは全くない。民俗学はもみ消されている。比較研究は皆無。
■中華社会主義思想:すべては愛する公社、原始的な集産主義への嗜好。
■2人の若い労働者がいるテーブルにつく。彼らはとても清潔で、細い手をしており(《修理工》だろうか?)・・・ここの《労働者》は皆、細くて清潔な手をしている。
この中国旅行の10年程前、大躍進の飢餓地獄に苦しんでいたはずの中国に招待された日本文学代表団に参加した若き日の大江健三郎は、「僕がこの中国旅行でえた、最も重要な印象は、この東洋の一郭に、たしかに希望をもった若い人たちが生きて明日にむかっているということだ。
・・・ぼくらは中国でとにかく真に勇気づけられた。・・・一人の農民にとって日本ですむより中国ですむことがずっと幸福だ、とはいえるだろう」と感涙に咽んだ。
毛沢東=共産党政治の詐術に、大江は「一人の農民にとって日本ですむより中国ですむことがずっと幸福だ」と見事に引っかかる。
だが、同じ招待を受けながらもロラン・バルトは「細くて清潔な手」な《労働者》に疑念を抱く。新左翼とはいえ、さすがにゴ本尊サマだ。“眼力”が違う。
それにひきかえ情けないのが大江だ。やはり目は節穴だった。
転載了
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(ここから私の感想)
若い「労働者」の、細くて清潔な手に疑念を抱いた者。
修理工ならば、もっとガサガサした、爪や指紋にいくら洗っても落ちない、機械油の染みついたごつい手をしていることを知っていながら書いてるみたいですね。つまり、「彼らは労働者ではない」、と。
農民だったら、宮沢賢治も詩の中に「~ぎちぎちと鳴る 汚ない掌を、おれはこれからもつことになる」、とうたっているように、決して労働者は「細くて清潔な手」ではない。
そしてもう一方は。
「この東洋の一郭に、たしかに希望をもった若い人たちが生きて明日にむかっている」
「ぼくらは中国でとにかく真に勇気づけられた」
「一人の農民にとって日本ですむより中国ですむことがずっと幸福だ、とはいえるだろう」
大躍進運動の爽やかな笑顔の裏側は全く見えてない。見ようとしなかったのか。それとも単に見えなかったのか。
見えなかった。そして、後になってそれに気が付いても、今度は頑なに見直そうとしなかった…のではないか、と思います、「沖縄ノート」問題のその後を見ると。
修理工ならば、もっとガサガサした、爪や指紋にいくら洗っても落ちない、機械油の染みついたごつい手をしていることを知っていながら書いてるみたいですね。つまり、「彼らは労働者ではない」、と。
農民だったら、宮沢賢治も詩の中に「~ぎちぎちと鳴る 汚ない掌を、おれはこれからもつことになる」、とうたっているように、決して労働者は「細くて清潔な手」ではない。
そしてもう一方は。
「この東洋の一郭に、たしかに希望をもった若い人たちが生きて明日にむかっている」
「ぼくらは中国でとにかく真に勇気づけられた」
「一人の農民にとって日本ですむより中国ですむことがずっと幸福だ、とはいえるだろう」
大躍進運動の爽やかな笑顔の裏側は全く見えてない。見ようとしなかったのか。それとも単に見えなかったのか。
見えなかった。そして、後になってそれに気が付いても、今度は頑なに見直そうとしなかった…のではないか、と思います、「沖縄ノート」問題のその後を見ると。