CubとSRと

ただの日記

またもや、勝海舟

2020年01月30日 | 心の持ち様
2010.02/21 (Sun)

 勝海舟が馬から落ちた。
 さほどの勢いでもなかったのだが、海舟は転がったまま、動かない。

 周りの者が慌てて
 「先生!大丈夫ですか!」と駆け寄って抱え起そうと手を伸ばしたら、
 「待て、触らんでいい」と本人の声。
 そして、少し間を置いて、むっくりと起き上がった。
 「大丈夫ですか?」
 「ああ、何ともない」

 安心したと同時に、少々腹も立ったから
 「だったら、どうして、すぐに起きないのですか」
 と聞くと、
 「もし怪我をしていて、慌てて起きようとすると、怪我をもっとひどくするものだ。だから、転がったまま、身体の具合を確かめていたのさ」

 心配して抱え起こそうとした人は、海舟の、この言い草を、「照れ隠し」、「強がり」、ととったようです。
 実際、海舟は強情っぱりで、言い訳としか思えないような強弁を、よくやっています。

 ただ、後に見直すと、海舟は間違ったことは言ってないのです。
 その時には、大ぼらに見える、或いは大袈裟に見える言い草も、実は筋が通っていて、感情のままに思いつきで言ったものはない。
 頭のキレることは幕府随一。

 もう故人となって随分になりますが、澤井健一という武術家がいました。 シナで「国手」とよばれた意拳の王向斎、その日本人ではただ一人の弟子です。日本では「太気至誠拳法(太気拳)」と名乗って、弘流に努めていました。
 この、澤井師範、朝、目が覚めると、絶対に飛び起きたりはしない。
 まず、指を曲げたり伸ばしたり、から始めて、手首、肘、肩という風に、末端から体幹まで時間をかけて異常がないか確かめながら、よく身体をほぐし、それからおもむろに起き上がることを自らに課していたそうです。

 「目の前の問題に拘泥せず、常に目的を念頭に置いて行動する。」
 「緊急時、我を忘れて慌てふためくことなく、冷静に所定の行動を執る。」

 政治も日常生活も同じでしょう。
 海舟の言を強がりと採って海舟を笑うか、
 「なるほど」と採って何かを得るか。
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傲慢な心と素直な心

2020年01月30日 | 心の持ち様
2010.02/18 (Thu)

 「これまでは 常の身なりと思ひしが 五尺に足らぬ四尺なりとは」

 「今まで、まあ普通かなと思って生きてきたが、何と普通の身の丈、五尺(150センチ)もなくって、四尺(子爵)だとよ。」

 勝海舟が、かれの業績を評価されて、爵位を授与された時の戯れ歌です。
 この歌を知った政府は「勝が不平を言っている」、と慌てて協議をやり直し、改めて「伯爵」にします。

 爵位は上から順に公爵、候爵、伯爵、子爵、男爵となっています。
 一般に、公候伯子男と言います。明治期ですから、貴族、大大名、大名、上級武士、大実業家、辺りでしょうか。

 長崎海軍伝習所に学び、海軍奉行として神戸軍艦操練所を作り、何より西郷隆盛と直談判をして、江戸城の無血開城を実現させた男。
 そして、坂本竜馬が、奸物として切りに行き、却って心服、弟子になり、世界への目を開くことを教えてくれた、師匠。

 これほどの男でも、幕府での身分は御家人です。直参旗本といわれる身分なら、「お殿様」ですが、御家人です。下級武士です。
 さらには海舟の父勝小吉の代からの御家人。御家人株を買って武士になったということですから、本来、武士でもなかったわけです。

 そんな男が子爵の位を授けられた。それだって有り得ない。あまりに多くの功績があるからこそ、です。でも、それなら、逆に子爵でいいのか?という考えもある。
 「それほどの重要人物を子爵でいいのか?」

 しかし、「下級武士」である上に、「本来は武士ではない」。
 そして、最大の理由は「朝敵である幕府の家臣」であったこと。

 結局、先述の通り、海舟は伯爵となりました。
 「勝も所詮は人の子だ」「爵位がほしかっただけか」
 「やっぱり、侍ではない」など、の評が聞えてきます。

 勝の本心は何処にあったのでしょうか。

 「子爵?そんなものいらねえよ」
と戯れ歌を詠んで、追い返したら、 今度は伯爵だ、と言って来た。
 呆れてしまって、よしよし、わかったよ、と承諾した。

 勝の言行の解釈は、解釈した当人の品性をそのまま映している。
 
 勝海舟は伯爵になりたかったのでしょうか。
 できることなら、侯爵に、と思っていたのでしょうか。
 それとも、、、、。

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学問という言葉

2020年01月30日 | 心の持ち様
2010.02/20 (Sat)

 「学問」というのは、「学び」、「問う」ということです。
 「学び」、「問う」ことで、知識、考え方を吸収し、自身の理解能力を高め、物事を把握する力をつける。

 これで良いということはないのが学問です。
 あの名文句、
「一番じゃないと駄目なんですか」
の正反対。一番をめざしてやってこそ、学問というものは高みに上り、深みがわかる。

 一番をめざす、つまり、究極を求める。
 しかし、突き詰めれば、細分化し、枝分かれするのが学問です。その究極は「(その分野での)NO、1」です。
 「無限にあるNO、1の中の、(その分野での)NO、1」。
 それが「オンリー・ワン」、じゃないですか?

 論理的にみて、最初っから「オンリーワン」をめざしたら、中途半端なところにしか、いけません。無限にある到達点の、どれに焦点を絞るか、決められないからです。
 
 初めは学問を生涯の仕事とする熱意があるだけです。
 「発願(ほつがん)」「発心(ほっしん)」「初誓願」の段階では、素養も能力もないのが当たり前です。
 「素養」とは(もとになる)養われたもの、です。
 「能力」とは(物事を)能(よ)くする力、です。

 学問をする。学び問う事によって、素養ができ、そのことを無駄なく、的確に把握、処理する力(能力)ができる。

 いきなり、何だかどうでもいいような理屈をこねくりまわした、ように見えたかもしれません。

 「人を見たら泥棒と思え」、じゃありませんが、
 「やたらに何でも信じるものじゃない。疑ってかかれ」とか
 「疑うことが、学問には肝要である」とか言います。
 学校でも
 「そんなに簡単に納得しないで疑ってみることが大事だよ」
 「そう?それでいい?間違ってない?ラストチャンスだよ?」
なんて、生徒の早合点を注意したり、時には興味を持たせるために、「疑う」ことを勧めます。


 けれど、これ、おかしくないですか?
 「学問」というのは「学び問う」ことですよ?なぜ、「疑え」、なんですか?

 これが「戦後教育の根幹を成すもの」であり、戦後教育を受けた日本人の精神を歪めてしまった、具体的事例である、と言ったら、
「そんなあ!それ、いくら何でも被害妄想だよ。」
と言い切れますか?

 「学び、問うのだから、『問う』のは疑問があるからだろ?ほら、『問い』には『疑い』が入ってるじゃないか」

 もし、そう考えたとしたら、「疑問」という言葉の意味、それから目的を考えてみて下さい。
 「疑問」というのは、
「問題となる対象物を理解しようとしたけれど、一部引っ掛かるところがあって、どうしても理解(全体把握)できないんだけど。」という「解らない」
に関しての言葉です。目的は対象物の理解。そのために使われます。
対象物を肯定、或いは、受け容れるためのものでしょう?

 「疑い」はどうですか?
 正反対の意味になりませんか?

 ただ、日教組を、今回だけは、消極的にですが、同情の目で見ています。
 あまり真剣に考えず、小中学生のために、と、わかり易く平易な言葉を遣おうと心掛けた揚げ句、「疑問」という言葉を「疑う」という正反対の言葉に置き換えてしまった。

 「考える」という活動、生き方の根本に直接つながっている言葉による頭脳労働、のための「言葉」の間違った把握は、「考える」という活動を知らず歪めていったのです。
 
「疑いを持て」 もう一度、この言葉の目指すところを考えてみるべきではないでしょうか。
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大国の成立

2020年01月30日 | 心の持ち様
2010.02/16 (Tue)

隣の超大国について書いてみようと思います。

 現在総人口が13億とも15億ともいわれる隣国ですが、ローマ帝国と同じく、初めは小さな国でした。
 黄河の中流域、中原と呼ばれるところにできた集落が初め、とされています。

 ところで、ローマ帝国の初めは、男ばかりの泥棒の集団だったというのを聞かれたことはありますか。数十人の食いつめた男が強盗集団となり、共同生活をする。
 生活に必要なものはかっぱらって来るより、徒党を組んで強奪する方が安全(?)で早い。
 そうこうするうちに女もさらって来る。逃げられると困るから、鎖でつないで逃げられないように・・・ではなく、とても大事にする。DVなんて滅相もない。さらって来といて口を開けば歯の浮くような愛の言葉を、、、。(今も名残があるような)
「女の人に会って、口説かないのは失礼である」
 そしてローマは大帝国に。

 それを考えたら、この中原の小国は、初めは(出発は)随分まし、品が良かった、と言えます。ローマの、全く逆、です。

 司馬遼太郎でしたか、どこからが中国人というのか、いや、それ以前に漢民族という純粋の民族がいたわけではない、と。
 中原に住んでいる人々を、新しい武器を持ってやって来た異民族が侵略、支配する。そしてやがて同化する。穏やかになったこの地域に、またもや新しい武器を持ってやって来た異民族が侵略、支配、同化。武器は兵器とは限りません。新しい技術だったり、新しい仕組み、生産法だったりします。
 幾度となく繰り返される度に、青銅器が伝わり、鉄器が伝わったと。
 その都度、人口は増え、国は大きくなった。

 肉食動物は、腹が減った時、狩をするのだそうです。
 獲物を捕らえ、散々食い散らかして満腹になれば、そこに他の動物が来て折角の獲物をつつき始めた、としても、知らん顔をしている。満腹になった身には、苦労して捕った獲物は、既に単なる「物」でしかない。満腹時の彼等ほど平和を愛する動物はいない(?)。

 ローマは、初めこそ、掠奪や闘いが日常だったようですが、次第に落ち着いて行きます。掠奪や戦うことをせずとも、さらってきた他国人を奴隷として農耕、加工生産等、全てやらせれば良い。所有することに執着しない。なくなったら、奪い取ってくればいい。

 中原の国は違います。必要な物をつくって、助け合って豊かな生活をしていた。
 そこに侵略者がやって来る。侵略者に従えば良し、従わなければ殺戮の嵐、です。侵略者は居心地のよさに、住みついてしまう。前に書いた通り、新しい武器はいつかみんなのものになり、侵略以前より、はるかに豊かな生活が実現される。
 侵略される度に、一旦は減るものの、人口は増加し、戦いに敗れる度に国は大きくなる。
 侵略される度に戦うよりも普段の生活で戦う。侵略は受け容れる。長い目で見ればその方が得だ。


 大帝国ローマは、ヨーロッパ全土を支配しましたが、今は分裂し、それぞれの地域で独立国となりました。

 殷を初めとして、現在の中華人民共和国にまで名前を変えてきた東アジアの大国は次々と周辺の国を併呑、その所有欲はとどまるところを知らぬようです。

 隣の大国は、平時の戦いこそが最重要であることを骨の髄から知って居ます。

 我々は併呑されるべきか、それとも、平時の戦いを始めるべきか。

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切り捨てられるか

2020年01月29日 | 重箱の隅
2010.02/15 (Mon)

 「刀の話」、じゃありませんよ。
 生き方の話です。

 たとえば、何か「新しい道具」を手に入れて、使い勝手が良いから、と愛用していたとします。当然使い込むうちに、段々くたびれてきます。そうなった時、どうするか。
 安価で、いつでも入手できる代わりのものが既にある、となれば、ほとんどの場合惜しげもなく捨ててしまいます。切り捨てる。
 そうでない場合。
 安価ではない、なかなか手に入らない、代わりのものがない、などの時は修理したり、辛抱したりして使います。
 ごく当たり前のことです。何をいまさら、と思われるような質問でした。
 
 さて、本題なのですが、「新しい道具」でなく「新しい考え方」「新しい物の見方」なら、どうでしょうか?

 江戸時代、蘭学から洋学に間口が広くなるにつれて、西洋の学問は随分日本に入ってきました。
 しかし、明治政府の開化主義は、輸入、といった言葉では間に合わない、大変な勢いでの学問の流入を惹き起こしました。
 西欧の学問が日本を席捲してしまったのです。当時、日本人には目に見える全ての物が日本のものより優れている、と見えたのです。
 ところが、「全て西洋のものが日本古来のものより優れている」、となった時、日本人は必死になって踏みとどまり、「日本」を、「日本人であること」を守りました。
 それが、福澤諭吉の言う「瘦せ我慢」であり、当時の知識人の言う「和魂洋才」でした。
 以前にも書きましたが、「和魂洋才」というのは「日本人の心」と「西洋人の技術」という、対等、または「心の方が上」、みたいな気楽なことを言っているのではありません。
 99パーセント負けている。とても勝負にならない。けど、「心のレベルは見えない」から上下は判定出来ない。

 「心は日本の方が上だ。上に決まっている(根拠のない確信。思い込み)」。 
 この、僅か1パーセントの、信仰にも似た「心は勝っている」が、本当の意味で日本人を意識させ、日本を世界に知らしめた原動力になっているのでしょう。新渡戸稲造の「武士道」もこれと無関係ではありません。
 日本人の、日常のちょっとした仕種や行動、物の感じ方、考え方に欧米人が感心する。誉められることも多々ある。西欧人の認める、我々のよさ(内面の優秀性)はどこに依拠するのか、と考えた新渡戸は、それが武士の生き方にあるのではないか、と考えました。
 武士は総人口の一割程度ながら、他の、農、工、商人は武士の生き方を大なり小なり見習うべきものとしていました。

 明治時代。開化主義で西欧化の道を突っ走った日本は、しかし、「和魂洋才」という思い込み、「瘦せ我慢」という武士的な意地っ張りで以て、日本、そして日本人であることを守り抜きました。
 「感じ方、考え方」は流入しなかったから、辛うじてうまくいったのかもしれません。つまり、日本古来の物を「切り捨てなかった」。

 問題は敗戦後の日本です。
 徹底的な調査をした占領軍は、とにかく、日本を精神面から変えようとします。
 ①神道指令を発して、「信教の自由」の名の下に、神道を他のものと同一視して宗教の枠に閉じ込め、国家の形を変える。
 (この先には皇室をなくし、国体そのものとされた天皇の退位、廃絶をしようという考えがあるのは言うまでもないことです。)
 ②憲法を変え、二度と戦争を起させないようにした。
 (「諸国民の公正と信義に信頼して我らの安全と生存を保持しようと決意した」、と憲法の前文にあります。日本人の命は世界に預けました、と言っているわけです)
 ③これまでの国家の精神的支柱となった考え、肯定的だった考えを否定、廃棄する。
 (学術書を中心とする、思想関係書籍の焚書。武道の禁止)

 これらは新しい「感じ方」「考え方」です。明治時代の、あの「残り1パーセント」を変えるようにと命令されたのです。
 ほぼ無条件の降伏をした日本は受け容れるしかなかった。
 拒否、保留などという選択肢は初めからなかった。
 《自国の歴史を否定的に捉え、これまでの国家の形を否定し、国民主権といいながら、肝腎の命は世界に預ける。》

 新しい感じ方、考え方は矛盾に満ちています。
 その感じ方、考え方、でもって60年。
 生まれた時から矛盾に満ちた考え方の中で育ったのは、今問題になっている「団塊の世代」ではありません。「団塊ジュニアの世代」です。
 70年代以降に生まれ育った者は「矛盾している」とさえ気がつかない世代です。

 ①神道指令も②日本国憲法も③思想関係書籍の焚書等、も、無条件降伏後の占領統治下で強制されたことです。拒否はできなかった。

 しかし、7年の長期にわたる占領から、我が国は再び独立したのです。
 何事も他国から命令されたり、強制されたりしない国を「独立国」といいますから、上記の①②③は、その時点で無効になります。
 「日本国憲法は無効である」という一方の見解は、ここが論拠です。(いや、結局は国会で決めたのだから有効である、というのが現在の主流ですが。)

 「団塊の世代」は、「戦前の家庭教育と戦後の学校教育」という二つの教育の中で育ちます。つまり、二つの感じ方、考え方を自分の中で受け容れていかねばなりません。何を信じたらいいのか分からない。だから、まず疑ってかかる。
 しかし「団塊ジュニアの世代」は、占領統治時、GHQによる社会主義容認政策の下、一気に広がった日教組教育を受けた団塊の世代が親、なわけですから、家庭教育、学校教育、共に戦後のものです。新しい感じ方、考え方を、矛盾とも思わず受け容れる。

 見ようとしても見ることのできない、この矛盾に充ちた「新しい感じ方」「新しい考え方」。
 我々はこれを、切り捨てなければならないのですが。
 切り捨てることができるでしょうか。
 「矛盾に満ちた感じ方、考え方」を、核心から掴もうと努力しているでしょうか。

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